第10話 禁断の扉
ノートパソコンの画面が、闇の中で墓石のように白く浮かび上がっている。その無機質な光が、血の気を失った私の顔をぼんやりと照らし出し、緊張に強張った表情の影を、背後の壁に大きく揺らめかせていた。部屋の空気は、まるで水底のように、重く、冷たく、淀んでいる。私は、今、戻ることのできない川の、その岸辺に立っている。この一歩を踏み出してしまえば、もう二度と、昨日までの平凡で臆病だった自分ではいられなくなる。そのことを、頭のどこか冷静な部分ではっきりと理解していた。それでも、私の指は、まるで自分の意志とは無関係に、キーボードの上を幽霊のように彷徨っていた。
心臓が、耳のすぐそばで誰かが太鼓を乱打しているかのように、けたたましく鳴り響いている。指先の震えが止まらない。親友の秘密を暴こうとしている罪悪感。社会のルールを逸脱する行為への恐怖。そして、その二つの巨大な感情をねじ伏せるほどに強大な、暗く、甘美な欲望。そのすべてが、熱い塊となって私の喉を締め上げ、呼吸を浅く、苦しいものに変えていた。知りたい。確かめなければならない。その抗いがたい衝動だけが、今の私を突き動かす唯一の原動力だった。
私は、震える指先に、ありったけの力を込めた。そして、検索窓に、あの忌まわしい単語を、一文字ずつ、まるで石に名前を刻みつけるように、重々しく打ち込んでいく。
『匿名悦楽』
その四文字が、白い検索窓の中で、不吉な宣告のように浮かび上がる。高校時代の、あの日の記憶。怜が、こともなげにその名を口にした時の、温度のない声。私の部屋で、スマートフォンの画面に映し出された、けばけばしいロゴ。忘れたくても忘れられなかった記憶の断片が、鮮明な映像となって脳裏を駆け巡り、私の決意を鈍らせようとする。
ごくり、と乾いた喉を鳴らし、私はエンターキーを押し込んだ。カチリ、という軽いプラスチックの打鍵音が、静まり返った部屋の中で、まるで運命の引き金が引かれる音のように、大きく、そして決定的に響き渡った気がした。
瞬時に、画面が切り替わる。無機質な検索結果の羅列。その一番上に、見慣れた、そして二度と見たくなかったはずのロゴと共に、公式サイトへのリンクが表示されていた。一瞬、ページを閉じて、すべてを夢だったことにしてしまいたいという、子供じみた逃避衝動が、最後の抵抗のように胸をよぎる。だが、もう遅いのだ。私の指は、すでにマウスパッドの上を滑り、カーソルを、まるで奈落への入り口であるかのようなそのリンクへと、正確に導いていた。
. クリックすると、画面いっぱいに、血のような赤色で書かれた警告文が表示された。『当サイトは、18歳未満の方のご利用を固く禁じております』。その文字が、私自身の罪を告発し、嘲笑っているかのようだった。だが、今の私に、躊躇という選択肢はなかった。十八歳になったという事実は、怜の行動を縛る枷を外したと同時に、私の倫理観を縛っていた最後の枷をも、いとも簡単に破壊してしまっていたのだ。私は、震える指で、『はい、私は18歳以上です』というボタンを、自分自身に言い聞かせるように、強く、押し込んだ。
次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは、悪趣味なまでの色彩の洪水だった。黒とショッキングピンクを基調とした、見る者の神経を逆撫でするようなページデザイン。品のないゴシック体のフォントで書かれた、扇情的なキャッチコピーの数々。そして、画面を埋め尽くすように、ずらりと、どこまでも終わりなく並んだ、無数の動画のサムネイル。
息が、止まった。
そこにいたのは、様々なデザインの、冷たい光沢を放つマスクで顔の上半分を隠された、おびただしい数の女性たちだった。肌を露わにし、あるいは自由を奪うように拘束され、これから自分たちの身に何が起こるのかも知らずに、虚な瞳でこちらを見つめている。その、人間としての尊厳を一枚一枚丁寧に剥奪され、ただの「商品」として陳列された光景に、私は強烈な眩暈を覚えた。
怜が、この中にいるかもしれない。
その、信じたくない現実が、巨大な鉄槌のように私の頭を殴りつける。この、名もなき女たちの誰か一枚の皮を剥げば、その下から、私のよく知る親友の、あの理知的な顔が現れるのかもしれない。その想像だけで、胃液がせり上がってくるような、強烈な吐き気が込み上げてきた。
後戻りは、もうできない。私は、禁断の扉を開けてしまったのだ。その向こう側にあるのが、私の心をズタズタに引き裂く地獄だとわかっていても、もう確かめずにはいられない。罪悪感と、背徳的な高揚感が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、私の思考を麻痺させていく。指先の震えは、もはや恐怖によるものか、それとも興奮によるものか、自分でもわからなくなっていた。私は、マウスを握る手に力を込め、スクロールバーをゆっくりと、絶望の底へと引きずり下ろし始めた。この肉の市場の中から、たった一人の、大切な親友の姿を探し出すために。
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