第9話 疑惑の再燃


 大学生活という新しい日常は、万華鏡のように目まぐるしく、それでいてどこか空虚だった。文学部の講義は、私の知的好奇心をそれなりに満たしてくれたし、カフェでのアルバイトで覚えたラテアートは、ささやかな達成感をくれた。新しくできた友人たちと他愛のない話で笑い合う時間も、確かに楽しい。だが、どんなに新しい光や色彩が私の世界に降り注いでも、そのすべては、心の奥底にある、怜の形をした影をより一層濃く際立たせるだけだった。


 夜、アパートの部屋で一人きりになると、その影は際限なく膨張し、私のすべてを飲み込んでいく。昼間の喧騒が嘘のような、しんと静まり返った空間。冷蔵庫の低いモーター音だけが、私の孤独に寄り添うように響いている。この静寂の中で、私は何度、怜を夢想しただろう。想像の中の彼女は、いつも私の腕の中で、私の望む通りの反応を見せてくれる。だが、目を覚ませば、そこには虚しい現実が横たわっているだけだった。怜からの連絡は、数週間に一度、研究に関する無機質な報告が届くだけ。その事実が、私の渇望と嫉妬を、じりじりと焦げ付かせていった。


 そんな日々が続いていた、ある秋の夜のことだった。その日も私は、ベッドの上で、読みかけの文庫本を開いていた。それは、ある目的のために人生のすべてを捧げた、一人の男の執念を描いた物語だった。主人公の、一度目標を定めると、どんな障害があっても決して諦めない、狂気にも似た一途さ。その描写を読み進めていた、まさにその時だった。


. 不意に、私の脳裏に、高校時代の怜の横顔が鮮明に蘇った。それは、文化祭の準備で、誰もが匙を投げた複雑な装飾の設計図を、たった一人で、三日三晩ほとんど眠らずに完成させてしまった時の顔だった。そうだ、怜はそういう人間だった。一度、知りたい、解き明かしたい、と口にしたことは、どんな手を使っても、必ず自分の手で確かめずにはいられない。その純粋すぎるほどの探究心と、目的達成への異常なまでの執着心。それこそが、如月怜という人間の、根幹を成す本質ではなかったか。


 その記憶は、錆び付いた鍵が、錠前にはまる音を立てたかのように、私の思考の回路を繋いだ。


 怜は、言った。「オーガズムという生理現象を、体験し、分析したい」と。

 あの計画は、私たちが高校生で、未成年だったから、頓挫した。法律という、彼女の論理の外にあった絶対的なルールによって、中断されただけだ。


 では、今は?


 その疑問が浮かんだ瞬間、心臓が、肋骨の内側で大きく跳ね上がった。全身の血が、さあっと音を立てて逆流する。私たちは、もう高校生ではない。春に、二人とも誕生日を迎え、十八歳になった。法律という名の最後の枷は、もう、どこにも存在しないのだ。


 怜が、あの計画を、諦めている保証など、どこにある?


 まさか。まさか、本当に……?


 大学に進学してから、本当に、AVに出演したのでは?


 その疑念は、一度芽生えてしまうと、毒草のように猛烈な勢いで私の心に根を張り、思考のすべてを蝕んでいった。心臓が早鐘を打ち始め、体の芯が、まるで熱い鉄の棒を突き立てられたかのように、じりじりと熱くなっていく。恐怖で、指先が氷のように冷たくなっていくのを感じた。もし、本当だったらどうしよう。怜の身に、何か取り返しのつかないことが起きていたら? いや、それ以上に恐ろしかったのは、私の知らない場所で、私の知らない男たちが、怜の、あの私が焦がれてやまない身体を、すでに暴き尽くしてしまっているかもしれないという、おぞましい可能性だった。


. その恐怖と、渦を巻くようにせめぎ合っていたのは、どす黒い好奇心だった。もし、本当だとしたら。その映像が、世界のどこかに存在しているとしたら。


 見てみたい。


 見て、確かめなければならない。


 その抗いがたい衝動に、私はもはや逆らうことができなかった。知らずにいることの不安は、真実を知る恐怖を、とっくに上回っていた。私は、ベッドから転がり落ちるように立ち上がると、まるで何かに憑かれたように、机の上のノートパソコンに向かった。少し震える、冷たい指先で、電源ボタンを押す。ウィーン、という静かな起動音が、深夜の静まり返ったアパートの一室に、やけに大きく響き渡った。

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