第8話 卒業と、離れた距離
季節は巡り、私たちの高校生活は、終わりに向かって静かに加速していった。あれ以来、怜が突飛な研究に没頭することはなくなり、私たちは受験という、世間一般の高校三年生がそうであるように、ごく当たり前の現実と向き合っていた。怜は、その天才的な頭脳で、志望する国立大学の入試問題を、まるで趣味のパズルでも解くかのように淡々とこなし、私は私で、自分の学力に見合った、県内の中堅私立大学の文学部に、どうにか合格することができた。
そうして、あっという間に卒業式の日がやってきた。体育館の冷たい空気、来賓の退屈な祝辞、そして、卒業生たちのすすり泣く声。どこにでもある、ありふれた卒業式の光景。だが、私の心は、その感傷的な雰囲気から、一人だけぽつんと取り残されているようだった。私の視線は、常に壇上の卒業生代表として、淀みなく答辞を読み上げる怜の姿に注がれていた。
怜は、泣いていなかった。その涼やかな横顔には、別れを惜しむ感傷の色など微塵も浮かんでいない。彼女にとって、この卒業というイベントもまた、人生のフローチャートにおける一つの通過点に過ぎないのだろう。その、あまりの揺るぎなさが、私には少しだけ寂しく、そして、どうしようもなく苛立たしかった。この三年間、ほとんどの時間を一緒に過ごしてきたというのに、怜の中に、私との別れを惜しむ気持ちは、ほんの欠片もないのだろうか。その鉄壁の心を、こじ開けて覗いてみたい。そんな、叶うはずもない衝動に駆られた。
式の後、校門のそばで、桜の蕾がほころび始めた木の下で、私たちは二人で写真を撮った。怜は、私の肩にそっと手を回す。その、触れているか触れていないか分からないくらいの、軽い感触。写真の中の私は、ぎこちなく笑っていた。怜の隣にいるのに、その心は、宇宙の果てよりも遠くにあるような気がしてならなかった。
そして、別れの日が来た。怜は認知科学を学ぶため、私は文学を学ぶため、それぞれが全く違う県の大学へと進学する。見慣れた駅のプラットホーム。春の風はまだ冷たく、怜の黒髪のボブを静かに揺らしていた。
「じゃあ、また、夏休みにでも」
私がそう言うと、怜は「ああ」と短く頷いた。
「向こうに着いたら、新しい研究テーマについての考察を送る。君の文学的な視点からの意見も聞いてみたい」
最後まで、怜は怜だった。その、どこまでも変わらない姿に、私は安堵する気持ちと、言いようのない寂しさが入り混じった、複雑な表情で笑うことしかできなかった。けたたましいベルの音と共に、電車はゆっくりと動き出す。窓の向こうで、怜の姿がどんどん小さくなっていく。その姿が見えなくなるまで、私は、ただホームに立ち尽くしていた。
. 怜のいない日常は、驚くほど静かで、そして、色褪せていた。大学の講義はそれなりに面白かったし、近所のカフェでのアルバイトにもすぐに慣れた。新しい友人だってできた。けれど、私の心の中心には、ぽっかりと、怜の形をした空洞が空いていた。その空洞を埋めるようにして、私の内側では、怜への執着が、以前にも増して、より深く、より濃密に渦巻くようになっていた。
物理的な距離は、皮肉にも、私の想像力をどこまでも自由にした。夜、一人きりのアパートの部屋で、私は目を閉じ、怜を思う。私の想像の中で、怜は、私の意のままになった。私は、あのマッサージ器の続きを、何度も何度も繰り返す。想像の中の私は、もっと大胆で、もっと残酷だった。スカートの上からではなく、その下の、柔らかな素肌に直接触れる。無反応な彼女の身体の、まだ誰も知らないであろう性感帯を、指先で、舌で、執拗に探し当てていく。あの、決して感情を映さない黒曜石の瞳が、私の愛撫によって、戸惑い、熱を帯び、やがては屈辱と快感に濡れていく様を、私は飽きることなく夢想した。
だが、その甘美な想像は、同時に、耐えがたい嫉妬の炎を燃え上がらせた。怜は今、私の知らない街で、私の知らない人間たちに囲まれている。彼女の、あの天才的な頭脳に惹かれて、近づいてくる人間は、きっと大勢いるだろう。その中に、怜のあの無防備なうなじや、引き締まった腹筋を、私と同じような目で見る人間が、一人もいないと、どうして言い切れるだろうか。私だけが知っているはずの怜の姿を、他の誰かが暴いてしまうかもしれない。その考えは、鋭いナイフのように、私の心を切り刻んだ。
怜から、たまにメッセージが届いた。それは、いつだって合理的で、簡潔で、感情の欠片も感じさせない文章だった。スマートフォンの通知音が鳴るたびに、心臓が跳ね上がるほどの期待を抱き、そして、その無機質な文面に、深く失望する。その繰り返しのうちに、私の歪んだ欲望は、確固たる決意へと変わっていった。怜のすべてを、知りたい。そして、私のものにしたい。他の誰にも、指一本触れさせたくない。
離れた距離は、私と怜の関係を希薄にするどころか、より歪で、決して後戻りのできない関係へと、静かに作り変えていっていた。
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