第7話 怜の奇行と月乃の変化
あの嵐のような週末が過ぎ去ってから、数週間が経過した。怜の口から、二度と「AV」や「オーガズム」といった単語が発せられることはなく、私たちの日常は、まるで何もなかったかのように、元の静かで穏やかな軌道に戻っていた。怜は、法律という絶対的な障壁の前で、自身の「研究」をいさぎよく中断した。その切り替えの早さと、執着心の欠如は、常人である私には到底理解しがたいものだったが、ともかく、最悪の事態は回避されたのだ。私は、その事実だけに縋るようにして、心の平穏を取り繕っていた。
怜は怜で、相変わらずだった。一つの探究対象への道が断たれれば、すぐにまた別の、新たな好奇心の扉を開く。次に彼女が没頭し始めたのは、「人間は、継続的に覚醒状態でいると、認知能力にどのような影響が出るか」という、またしても自分の身体を実験台にする類の研究だった。学校で会う彼女は、日に日に目の下の隈を濃くし、透き通るような白い肌は、陶器めいた蒼白さへと変わっていった。
「昨日は、シータ波の発生を抑制するために、特定の周波数の音を聴きながら、明滅する光を網膜に投影し続けてみた。結果、入眠には至らなかったが、一時的に空間認識能力に著しい低下が見られた。非常に興味深いデータだ」
購買のパンを齧りながら、そんなことを淡々と報告してくる彼女に、私は呆れを通り越して、もはや一種の感心すら覚えていた。その姿は確かに痛々しいものではあったが、少なくとも、見知らぬ男たちに身体を弄ばれるよりは、遥かに健全だと思えた。私は、そんな怜の奇行に「また始まった」と苦笑しながらも、心の底から安堵している自分を自覚していた。これでいい。これが、私たちの日常なのだ。
だが、本当にそうだろうか。日常は、本当に元通りになったのだろうか。
表面的には、そうだ。しかし、私の内側では、何かが決定的に変質してしまっていた。あの忌まわしいAV騒動が、私の心に残した棘は、安堵感に覆い隠された皮膚の下で、静かに、しかし確実に、膿み始めていた。
その変化に、私がはっきりと気づいたのは、ある日の夜、自室のベッドの中でのことだった。一人、暗闇の中で、漠然とした欲求を満たすために自分の身体に触れていた時、不意に、怜の姿が脳裏をよぎったのだ。それは、あの日の光景。私のベッドに腰掛け、微動だにしなかった怜。制服のスカートから伸びる、引き締まった脚のライン。無機質な光を宿した、黒曜石の瞳。その記憶が、今まで感じたことのない種類の、背徳的で、鋭い熱を私の身体にもたらした。罪悪感で思考が痺れる。これは、いけない。親友に対して、こんな感情を抱くなんて。そう頭では理解しているのに、身体は正直に反応して、より深い快感を求めてしまう。その日を境に、私の慰めの時間は、すべて怜に支配されることになった。
. 一度自覚してしまえば、もう後戻りはできなかった。学校で、怜の何気ない姿を目にするたびに、私の視線は、以前とは全く違う意味を帯びてしまう。体育の授業で、怜が高い位置にあるボールを取ろうと腕を伸ばした瞬間、夏用のセーラー服の裾が持ち上がり、鍛えられた腹筋が、うっすらと縦筋を描いているのが見えた。その、無駄な贅肉が一切ない、機能的な美しさに、私は息を呑んだ。図書室で、怜が本棚の上の段にある専門書に手を伸ばした時、さらりとした黒髪のボブが揺れ、白く細いうなじが無防備に晒される。その華奢な首筋に、もし今、私が噛みついたら、この天才はどんな反応をするのだろう。そんな、おぞましい妄想が頭をよぎり、私は一人、顔を赤らめた。
罪悪感と、背徳的な興奮が、交互に私を苛む。怜の、感情を排した、常に冷静な声。睡眠不足で少しだけぼんやりとした、潤んだ瞳。そのすべてが、私の内側に新しく生まれた、名状しがたい欲望を刺激した。
それは、サディスティックな欲望の、紛れもない萌芽だった。
怜を、私の手で乱してみたい。あの、常に冷静沈着で、何事にも動じない鉄壁のポーカーフェイスを、ぐちゃぐちゃに崩してみたい。論理で固められた彼女の世界を、もっと非論理的で、原始的な快感で侵食し、支配してみたい。あの無機質な瞳を、涙と快感で潤ませ、私に助けを乞う声で鳴かせてみたい。
あの嵐の日に芽生えた「怜を救いたい」という純粋なはずだった願いは、いつの間にか、より歪で、身勝手な「怜を支配したい」という衝動へと、静かに変質を遂げていた。私は、その恐ろしい変化に戸惑いながらも、その背徳的な甘美さから、もう目を逸らすことができなくなっていた。
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