第6話 計画の頓挫と日常への回帰
プロに任せるしかないか――。
怜が放ったその一言は、非情な宣告となって私の鼓膜を打ち、思考のすべてを停止させた。ずしりと重いマッサージ器を握りしめたまま、私は床にへたり込んでいた。ブーン、という低い唸りを上げていた機械はもう沈黙しているのに、その鈍い振動の感触が、まだ手のひらの神経にこびりついて離れない。失敗した。私の、あまりにも拙く、あまりにも無謀だった計画は、怜の鉄壁の無反応の前に、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
絶望が、冷たい霧のように心の隅々まで満たしていく。怜は、もう行ってしまう。私の手には負えない、あの得体の知れない世界へ。私の無力さが、彼女の背中を押す最後の一押しになってしまった。もう、何を言っても無駄だ。怜の心は、すでに決まっている。私の言葉など、彼女にとっては路傍の石ころほどの意味も持たないだろう。あの『匿名悦楽』の映像が、瞼の裏で再びちらつき始める。怜が、あの中にいた女性たちと同じように、無慈悲な快楽の実験台にされる……。
その時だった。混乱と絶望の濁流の中でもがき続けていた私の頭の片隅で、何かが、カチリと音を立てて噛み合った。それは、あまりにも単純で、あまりにも根本的な、見落としていた事実だった。
AV。契約。出演。
そういった行為には、必ず法的な手続きが伴うはずだ。そうだ、法律。この社会を成り立たせている、怜の論理よりももっと強固で、絶対的なルール。
「……待って」
自分でも驚くほど、か細い声が漏れた。怜は、すでにローテーブルの上の数学のノートに視線を戻しており、私の言葉に気づいていないようだった。私は、震える膝を叱咤して立ち上がり、もう一度、今度はもう少しだけはっきりとした声で、彼女を呼び止めた。
「待って、怜」
怜が、不思議そうな顔でこちらを向いた。その黒曜石の瞳に、私は必死の思いで言葉をぶつけた。
「怜は、出られないよ。だって……私たち、まだ高校生だよ? 法律で、禁止されてるはずじゃ……」
そうだ。児童福祉法、青少年保護育成条例。詳しい条文までは知らない。けれど、高校生が、未成年が、そういった映像作品に出演することが、法的に固く禁じられていることくらい、私だって知っている。怜ほどの天才が、どうしてそんな、初歩的なことを見落としていたのだろう。私の指摘は、あまりにも単純な事実だった。だからこそ、もし間違っていたら、という恐怖で心臓が縮み上がる。
怜は、私の言葉を聞くと、何も言わなかった。ただ、その黒い瞳を、ほんのわずかに、本当に、瞬きと同じくらいの、ほんの一瞬だけ、大きく見開いた。そして、次の瞬間には、もういつもの冷静な表情に戻っていた。
「……それは、盲点だったな」
ぽつり、と怜は呟いた。その声には、計画が頓挫したことへの落胆も、自分の見落としを恥じるような響きも、一切含まれていなかった。ただ、純粋に「想定外のデータが入力された」というかのような、静かで客観的な響きだけがあった。
そして、怜はあっさりとそれを受け入れた。
「確かに、現行法では、十八歳未満の出演は不可能だ。私のリサーチ不足だった。この計画は、現時点では実行不可能と判断するべきだろう」
え……?
私は、そのあまりにあっけない幕切れに、呆然と立ち尽くした。あれほど私を恐怖と絶望のどん底に突き落とした、怜の狂気の計画が、たった今、この数秒の会話で、いとも簡単に白紙に戻されたのだ。拍子抜け、という言葉では、到底言い表せないほどの虚脱感が、全身を襲う。
怜は、まるで今までの騒動など最初から存在しなかったかのように、再びローテーブルの前に座ると、私のノートを指さした。
「月乃。ここの問題、まだ解けていないぞ。このままでは、次の小テストで赤点を取ることになる。そちらの方が、今の君にとっては、よほど現実的なリスクじゃないか?」
そう言って、怜は再び、数学の解説を始めた。カリ、カリ、とシャープペンが紙の上を滑る、いつもの音が、部屋に戻ってきた。
心の底から、安堵のため息が漏れた。助かった。怜は、あの世界に行かなくて済んだんだ。しかし、その安堵感と同時に、私の心の中には、奇妙な感情の引っかかりが、小さな棘のように残っていた。怜の身体に、スカートの上からではあったけれど、確かに触れた、あの感触。機械の鈍い振動。微動だにしなかった彼女の、引き締まった脚のライン。そして、そんな彼女を前にして、不謹慎にも熱を帯びてしまった、自分自身の身体の記憶。
嵐は過ぎ去り、日常が戻ってきた。だが、それは、昨日までの日常とは、何かが決定的に違ってしまっている。私の内側で、何かの扉が、ほんの少しだけ開いてしまった。そんな、消すことのできない予感が、胸の奥に、静かに燻り続けていた。
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