第4話 親友を救うための決意
怜がこともなげに再生を停止したスマートフォンは、ローテーブルの上に静かに置かれ、黒い画面を天井に向けて沈黙している。ついさっきまで、あの小さな四角形の中から、私の知らない世界のおぞましい現実が溢れ出ていたことが、まるで嘘のようだ。しかし、私の心に焼き付いてしまった残像は、目を閉じても消えることはない。見知らぬ女の、マスクの下で苦悶と快楽に歪む口元。獲物を品定めするように這い回る、男たちの粘ついた指先。安っぽく煽情的なBGM。その一つ一つが、これから怜の身に降りかかるであろう未来の断片なのだと、私の内側で警鐘を鳴らし続けていた。
怜は、私の動揺など存在しないかのように、再び私の数学のノートに視線を落とした。カリ、カリ、とシャープペンシルが紙の上を滑る、規則正しい音が部屋に響く。それは、つい三十分前までは私に安心感を与えてくれていた音のはずなのに、今は鼓膜を直接引っ掻かれるような不快な音にしか聞こえなかった。怜のその恐ろしいほどの平然さが、私たちが生きる世界の断絶を、残酷なまでに浮き彫りにしていた。
どうすればいい? 怜を、この狂気からどうやって救い出せばいい?
頭が沸騰しそうだ。私の持つ「常識」という武器は、怜の「論理」という完璧な盾の前では、あまりにも無力だった。危険性を訴えても、彼女はリスクヘッジのプランを提示してくる。倫理観に訴えても、それはデータとして分析されるだけだ。八方塞がりとは、まさにこのことだった。打つ手がない。このままでは、怜は本当に、あの『匿名悦楽』の世界に足を踏み入れてしまう。実験動物のように身体を隅々まで調べられ、好奇の目に晒され、あの映像の中にいた女性たちのように、壊れるまで弄ばれるのだ。
その光景を想像した瞬間、胃の奥が氷水で満たされたように冷たくなった。だが、それは純粋な心配だけではなかった。怜の、私が誰よりも知っているはずの、あの引き締まった美しい身体が、私の知らない場所で、私の知らない誰かに支配される。その想像は、親友の身を案じるという清らかな感情の底から、もっとどす黒く、利己的な何かを呼び覚ましていた。それは、自分の宝物を他人に汚されることへの、 তীব্রな拒絶感。まだ名前をつけることのできない、醜い独占欲の萌芽だった。
. 思考が、絶望の淵をぐるぐると回り続ける。怜の目的は、ただ一つ。「オーガズムという生理現象を、身をもって体験し、分析すること」。その目的が達成されさえすれば、彼女がAVに出る必要は、論理的になくなるはずだ。それが、この狂った計画の唯一の、そして絶対の前提条件。
だったら。
だったら、誰かが、怜のその目的を達成させてしまえばいいのではないか。あのAVに出てくるような、得体の知れない男優なんかじゃない。もっと安全な場所で、怜が心から信頼できる人間が。怜の純粋な好奇心を満たし、この馬鹿げた計画を「データ収集完了」という形で終わらせてしまえば、すべては、元の穏やかな日常に戻るのではないか。
その考えが、暗闇の中で閃光のように私の脳を貫いた。途端に、心臓が喉元までせり上がってくるような、激しい衝撃に襲われる。それは、あまりにも突飛で、非現実的で、そして道徳の教科書を根底から覆すような、常軌を逸した発想だった。私の華奢な身体が、その途方もない結論の重みに耐えきれず、内側からぶるりと激しく震えた。
誰が? 一体、誰が怜をイかせるというのか。
そんなこと、誰かに頼めるはずもない。これは、私と怜の、二人だけの、誰にも知られてはならない秘密の会話なのだ。ならば、その役割を担える人間は、この世に一人しかいない。
私が、やるしかない。
私が、怜を、イかせる。
その結論が、私の頭の中に、燃えるような文字となって刻みつけられた。平凡な女子高生である水野月乃が、天才で親友の如月怜を、性的に満足させる。支離滅裂だ。正気の沙汰ではない。だが、混乱と恐怖で飽和状態になった私の頭の中では、それが唯一絶対の、怜を救うための解決策のように思えた。怜の常識外れの計画を阻止するためには、私自身が、常識という名のぬるま湯から這い出て、狂気の側に足を踏み入れるしかないのだ。無謀な使命感が、恐怖を塗りつぶすように、胸の内に炎となって燃え上がっていく。
ごくり、と自分の喉が鳴る音が、静まり返った部屋にやけに大きく響き渡った。未知の行為に対する、原始的な恐怖。親友に対して、そんなおぞましいことをするという背徳感。そして、心の奥底の、最も暗い場所に押し込めていたはずの、あの映像を見たときに感じた、歪んだ好奇心。それら全てがごちゃ混ぜになって、熱い奔流となって私の全身を駆け巡る。
怜を救いたい。ただ、その一心で。その純粋なはずの願いが、今や私の手を引き、狂気の淵へと導こうとしていた。
決意を固めた瞬間、部屋の空気が、ずしりと重く、濃密なものに変わった気がした。夕日が投げかけていた優しい光の帯は、もう床にはない。窓の外は深い藍色に染まり、部屋は薄暗い紫色の影に支配され始めていた。私は、自分の決意によって塗り替えられてしまったこの世界の空気の中で、これから自分が何をすべきなのか、震える思考を必死で巡らせ始めた。目の前で、怜が涼しい顔で数式を解いている。その美しい横顔を見つめながら、私は、もう二度と、昨日までの平凡で臆病な自分には戻れないことを、はっきりと予感していた。
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