第3話 匿名悦楽の世界


 怜の論理は、硬質で、冷たく、そして完璧な閉じた円環だった。私の常識や倫理観が、その円の中に侵入する隙間はどこにもない。それでも、このまま引き下がるわけにはいかなかった。親友が、自ら計り知れない危険が渦巻く深淵に足を踏み入れようとしているのを、黙って見ていることなどできるはずがない。麻痺しかけていた思考を必死で再起動させ、私はほとんど懇願するように言葉を紡いだ。


「危険だよ、怜! そんなの世界、普通じゃない! もし……もし、学校の誰かに知られたらどうするの? 怜の将来が、めちゃくちゃになっちゃうかもしれないんだよ!」


 声が上ずる。熱くなった頭で、ありったけの言葉をかき集める。それは、どんな子供でもわかるような、ごく当たり前の忠告だった。身元が割れるリスク。悪用される可能性。一度デジタルデータとして世界に拡散されれば、未来永劫消えることのない電子の刺青となって、怜の人生に付きまとうことになる。私は、その恐ろしさを、ただただ必死に訴えた。私の言葉が、怜の鋼鉄の論理に、せめて一筋の傷でもつけられることを祈りながら。


 怜は、私の切実な訴えを、静かに聞いていた。その黒い瞳は、私が言葉を発するたびに微かに細められ、まるで私の主張の脆弱性を分析しているかのようだった。そして、私が言い淀み、ぜえぜえと肩で息をついたタイミングを見計らったかのように、静かに、しかし決定的な一言を放った。


「その点についての、リスク管理は織り込み済みだ」


 その言葉は、私の最後の希望を打ち砕くには十分すぎるほどの重みを持っていた。織り込み済み。まるで、事業計画の懸念点を報告するような、体温のない響きだった。怜は、私が今しがた必死で並べ立てた危険性など、とうの昔に想定し、すでに対策を立てていたのだ。


「私が参加を検討しているのは、特定のシリーズだ」


 怜はそう言うと、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。無駄のない、滑らかな動作だった。指紋認証を解除し、慣れた手つきで画面を数回タップする。そして、その冷たいガラスの板を、私の目の前に突き付けた。


 画面に表示されていたのは、けばけばしいピンクと黒を基調とした、いかにもなウェブサイトだった。そして、そこに大きく表示されたタイトルロゴが、私の目に焼き付いて離れなかった。


『匿名悦楽 MASKED ORGASM』


 怜は、サイトの概要を、取扱説明書でも読み上げるように淡々と説明し始めた。

「このシリーズのコンセプトは、完全な匿名性の担保にある。出演する女性は全員、身元を特定できる顔の上半分を、精巧なマスクで完全に覆い隠す。契約上も、本名や経歴の開示は一切不要。あくまで、オーガズムという現象そのものをコンテンツとして切り取ることに特化している。これならば、月乃が懸念するような身バレのリスクは、限りなくゼロに近づけることが可能だ」


 怜の指が画面をスワイプし、サンプル動画の一覧を映し出す。そこには、様々なデザインのマスクをつけた、見知らぬ女性たちのサムネイルがずらりと並んでいた。私の部屋のベッドの上。ついさっきまで、数学の問題を解いていたこの場所で、親友がこれから足を踏み入れようとしている世界の、おぞましい入り口を、私は強制的に覗き見させられていた。


「……っ」


 言葉を失い、息を詰める。怜は、そんな私に追い打ちをかけるように、一つのサムネイルをタップした。ローディングの表示の後、画面は動画の再生へと切り替わる。煽情的で安っぽいシンセサイザーのBGMが、スマートフォンの小さなスピーカーから流れ出し、私の部屋の穏やかな空気を侵食していく。


 映像の中で、マスクをつけた女性が、見知らぬ男に身体をまさぐられている。その光景のあまりの過激さに、私は咄嗟に目を逸らそうとした。だが、できなかった。金縛りにあったように、身体が動かない。自分の意思とは裏腹に、下半身の奥の方が、きゅう、と硬くなるのを感じた。恐怖と嫌悪、そして、認めたくない好奇心が、腹の底で渦を巻く。


 スマートフォンの冷たい光が、きっと真っ赤になっているであろう私の顔を、無遠慮に照らし出していた。部屋の隅で、中学の時に怜が誕生日プレゼントにくれたクマのぬいぐるみが、こちらをじっと見ているような気がした。日常と非日常が混じり合うこの光景は、悪夢以外の何物でもなかった。


「……なるほど」


 私の隣で、怜が小さく呟いた。その声は、私の内心の嵐など全く意に介さない、冷静な分析者のものだった。


「このシリーズは、女性を絶頂させるという一点において、極めて効率的な手法を採用しているように見える。観察対象としては、非常に興味深い」


 その言葉が、私の耳には悪魔の囁きのように聞こえた。怜の計画は、もはや単なる思いつきではない。目的を達成するための手段を吟味し、リスクを洗い出し、対策まで講じた、緻密な研究計画なのだ。私の常識は、もう彼女には届かない。その絶望的な事実を前に、私はただ、画面の中で繰り広げられる知らない誰かの悦楽を、呆然と見つめ続けることしかできなかった。

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