第2話 理解不能な動機


 時間が凍り付いたかのようだった。私の耳の中で、心臓が打ち鳴らす警鐘だけが、やけに大きく、そして生々しく響き渡っている。目の前の怜は、先程と何一つ変わらない姿勢で座っている。その涼やかな横顔に浮かぶのは、数学の難問を解き明かそうとする時と同じ、静かで知的な探究心の色だけだ。彼女が口にした言葉の破壊的な意味と、彼女のその凪いだ佇まいとの間に横たわる、あまりに巨大な断絶を、私の脳は処理しきれずにいた。


「……冗談、でしょ?」


 やっとの思いで喉から押し出した声は、自分でもわかるほどに震えていた。情けなく裏返り、空気に溶けて消えてしまいそうなほどか細い。そうであってほしい。これは怜が時折見せる、常人には理解しがたい、高度なブラックジョークなのだ。私がどんな反応をするか、どんな顔で狼狽するかを観察して、後で「面白いデータが取れた」とでも言って、いつものように平然と数学の解説に戻るのだ。そうに違いない。そうじゃなければ、おかしい。


 しかし、怜は私の必死の願いを、あっさりと打ち砕いた。彼女はゆっくりと瞬きを一つすると、その黒曜石の瞳を私に向けたまま、静かに首を横に振った。


「冗談を言うことに、論理的なメリットが見出せない。私は、至って真剣だ」


 その言葉には、一片の揺らぎも、ためらいもなかった。淡々とした事実の陳列。怜にとっては、それが世界のすべてなのだ。私の常識が、感情が、必死に築き上げた防波堤が、彼女の純粋すぎる論理の前では、まるで砂の城のように脆く、無力だった。


「なんで……どうして、そんなこと……」


 言葉が続かない。羞恥と焦りが、喉の奥でせり上がってくる。AVに出る。その言葉の意味が、その行為が内包する危険性や屈辱が、どうして怜にはわからないのだろう。成績は常に学年トップで、どんな難解な論文も一度読めば理解してしまうこの天才が、どうしてこんなにも簡単な、人としての当たり前のことが欠落しているのだろう。


 私の混乱を、怜は興味深そうに観察していた。まるで未知の生物を前にした研究者のように、その瞳は純粋な探究心だけで満たされていた。私が恐怖や羞恥で顔を赤らめ、呼吸を乱しているその一つ一つの変化が、彼女にとっては貴重なサンプルデータであるかのように。


「動機は、純粋な知的好奇心だ」


 怜は、認知科学の講義でも始めるかのような口調で言った。


「オーガズムという生理現象に、以前から興味があった。文献によれば、人間の脳、特に大脳辺縁系に強い影響を与え、一時的に理性を麻痺させるほどの快感物質を放出させるらしい。だが、その記述はどれも客観性に欠ける。体験者の主観的な表現が多く、科学的な分析対象としては不十分だ。だから、私自身の身体を使って、その現象を観測、分析してみたいと考えた」


 薄い唇から、淀みなく紡がれる言葉の数々。オーガズム。大脳辺縁系。快感物質。怜は、まるで自分の身体のことではないかのように、それを学術的なテーマとして語っている。その異常な光景に、私は眩暈すら覚えた。顔が、耳が、燃えるように熱い。気まずさから視線を彷徨わせ、無意識に自分の柔らかな黒髪を指先に何度も絡ませた。その指先の感触だけが、かろうじて私をこの場に繋ぎとめている。


「もちろん、自己での再現も試みた」


 怜は続けた。その告白は、私の羞恥心をさらに煽り立てる。


「だが、結果は芳しくなかった。私の身体は、文献にあるような性的興奮という状態を再現できなかった。何度試みても、そこに費やされる時間と労力に見合うだけの、有益なデータは得られなかった。時間の無駄だと結論付けた」


 怜は、自分の引き締まった、モデルのように美しい身体を、ただの実験機材としてしか見ていない。その事実が、私には何よりも恐ろしかった。怜の部屋の、物が極端に少なく、白で統一された無機質な空間が目に浮かぶ。きっと彼女は、あの部屋で、誰にも知られず、たった一人で、体温のない実験を繰り返していたのだ。


 怜の言葉が、熱となって私の耳を焼く。月乃の部屋の、少し甘い柔軟剤の香りが、今はひどく場違いなものに感じられた。私の世界を構成しているありふれた日常が、怜の放つ非日常の引力によって、ぐにゃりと歪められていく。


「そこで、思考を変えた。自力で到達できないのなら、専門家の技術を借りるのが最も効率的だ。その分野において、最も多くの臨床データと、被験者を確実にその状態へ導くための方法論を蓄積しているのは、AV業界以外に考えられない」


 怜は、完璧な結論にたどり着いたと言わんばかりの、静かな確信を込めて言い切った。私の優しげな垂れ目は、きっと情けなく泳いでいたことだろう。怜の揺るぎない瞳を、まともに見返すことなどできなかった。彼女は、私の瞳孔の開き具合や、浅く速くなる呼吸のリズムさえも、きっと冷静に分析しているに違いない。その視線が、私をただの観察対象として捉えていることが、ひしひしと伝わってきた。


 理解不能。怜の動機は、私にとってはあまりにも理解できない、狂気の論理だった。親友の身を案じる私の心からの叫びは、彼女の純粋すぎる好奇心の前では、雑音にすらならないのかもしれない。絶望的な断絶感を前に、私はただ、言葉を失うことしかできなかった。

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