きみは、私の被験体
舞夢宜人
第1話 静かな週末の爆弾
穏やかな週末の午後が、ゆっくりと終わりを告げようとしていた。西の空を茜色に染め上げる太陽の光が、私の部屋のレースカーテンを通り抜け、床に柔らかなオレンジ色の四角形を投げかけている。空気中を舞う細かな埃がきらきらと光を反射し、まるで時間が止まったかのような、静かで、少しだけ怠惰な空気が満ちていた。本棚に収まりきらなかった雑誌や、ベッドの隅に追いやられたぬいぐるみが点在するこの六畳間は、良く言えば生活感があり、悪く言えば少し散らかっている。それでも、この雑然とした空間こそが、水野月乃という平凡な女子高生である私の、ありのままの世界だった。
ローテーブルを挟んだ向かい側には、この部屋の主とは対照的な存在が座っている。如月怜。保育園からの付き合いになる、私のたった一人の親友。すらりとした背筋を少しも崩さず、まるでそこに存在しないかのように静かな呼吸を繰り返している。艶のある黒髪が、切り揃えられたボブカットのラインを正確に描き出し、その知的な横顔を縁取っていた。彼女が開いている大学ノートには、定規で引かれたかのように真っ直ぐな線と、印刷された活字のように整然とした数式が並んでいる。無駄という概念をすべて削ぎ落とした、怜そのものを体現したようなノートだ。
対して、私のノートは混沌としていた。解けない問題に行き詰まった思考の跡が、消しゴムの擦れた黒い汚れとなって残り、意味をなさない図形や、集中力が途切れた瞬間の落書きが余白を埋め尽くしている。怜がシャープペンを走らせる、乾いたカリカリという音を聞きながら、私は自分のノートに書かれた無秩序な文字の羅列に視線を落とした。怜が教えてくれる数学の解法は、驚くほど論理的で明快なのに、一度私の頭を経由すると、どうしてこうも複雑で理解しがたいものに成り果ててしまうのだろう。無意識に、そんな劣等感が胸の奥に澱のように沈んでいく。それはいつものことで、私はその感覚に慣れてしまっていた。
「……ここの公式は、さっきの応用。この数値をここに代入すれば、同じ解が得られるはずだ」
怜が、細く長い指で私のノートの一点を指し示す。その声は、温度というものを感じさせない、常に一定のトーンを保った静かな響きを持っていた。私は「うん、わかった」と曖昧に頷きながら、彼女の指先から視線を上げた。怜は私の返事を聞いているのかいないのか、すでに次の問題へと視線を移している。その黒曜石のように深く、色を映さない瞳が、わずかに細められた。彼女が思考に深く沈むときに見せる、私だけが知っている癖だ。
部屋には、怜のシャープペンの音と、窓の外から微かに聞こえる車の走行音だけが響いている。この静寂が、私は好きだった。怜と一緒にいる時間は、いつもこうだ。多くの言葉は必要ない。ただ隣にいるだけで、世界から守られているような、不思議な安心感に満たされる。怜の放つ、どこか人間離れした静謐な空気感が、私の雑多な心を穏やかにしてくれる。この時間が、この関係が、ずっと続けばいい。心の底から、そう願っていた。
だから、その静寂が、何の前触れもなく破られた瞬間、私の思考は完全に停止した。
「月乃」
不意に、怜が私の名前を呼んだ。シャープペンを走らせる音も止まっている。顔を上げると、怜が真っ直ぐに私を見ていた。いつもは数式や書物の活字に向けられているその瞳が、今はただ、私という存在だけを捉えている。その黒い瞳の奥に吸い込まれそうで、私は息を呑んだ。何か、いつもと違う。彼女を取り巻く空気が、ほんの少しだけ揺らいだように感じた。
「AVに出てみようと思う」
怜の薄い唇から紡がれた言葉は、音としてはっきりと私の鼓膜を震わせたはずなのに、その意味を脳が理解することを拒絶した。AV? 今、怜は、そう言ったのか? 幻聴だろうか。あまりにも唐突で、非現実的で、目の前の如月怜という人間と結びつかない単語だった。
私の心臓が、大きく、不規則に跳ね上がった。全身の血が逆流し、顔に集まってくるような熱を感じる。どくん、どくん、と自分の脈打つ音が、耳の奥で大きく響き始めた。思考が麻痺し、目の前の怜の顔が、まるで現実味のない映像のように、じわりと滲んで見える。
「……え?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れて、情けない響きをしていた。
怜は、そんな私の狼狽を意に介した様子もなく、表情一つ変えずに続けた。彼女は、私の反応を観察している。まるで、新しい実験器具の前に立った科学者のように、純粋な好奇心だけをその黒い瞳に宿して。
「だから、AVに、出てみようかと」
繰り返された言葉が、今度は逃れようのない事実として、私の頭に突き刺さる。緊張で、じわりと汗が滲んだ首筋が熱い。部屋に差し込む夕日のオレンジ色が、やけに目に痛かった。鉛筆の芯が紙を擦る音も、遠くで聞こえていた車の音も、すべてが嘘のように消え去り、世界には私と怜、そして彼女が投下した巨大な爆弾だけが存在しているかのように思えた。私の平凡で、穏やかだったはずの週末は、その一言によって、取り返しのつかない音を立てて崩れ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます