第6話
高校三年生になった春、担任から進路希望調査票が配られた。来週、提出日だというのに、いまだに白紙のままだった。
「直樹、進路決まった?」と聞かれるたびに、曖昧に笑ってごまかしていたけど、本当はずっと焦っていた。
将来やりたいことが、僕だけ見えてこなかった。
仁は陸上選手になる確約があったし、香織には小さい頃から習っていたピアノを生かして音楽の教師になりたいという目標があった。
国語が苦手な僕は、高校二年生に上がる時に取りあえず理系を選択していた。国語の読解問題が苦手なのだ。主人公の気持ちを問われても、さっぱりその真意が読み取れずにいた。数学や物理の方が、正解が1つしかなくてすっきり感がある。
仁は僕なんかと違って目標が定まっていた。陸上を続け、極めるために、陸上部門でも名門の青山学院大学を目指していた。陸上の記録次第では、勿論、推薦枠で青学に進学する予定だろう。誰もがそう思っていたし、信じていた。
僕もそう信じていた。
けれどあの頃の仁は、どこか無理をしていたのかもしれない。誰にも弱音を吐かず、ただ一心不乱にタイムと闘っていた。仁が右足をかばっていたことに、僕たちは誰一人気付けなかった。
高三の五月の連休明け、久しぶりに会った仁は左足にギプスを付け、松葉杖を着いていた。
「えっ、仁。それ、どうしたの?」
「こんな時にさ、疲労骨折が悪化しちゃって」
これまでテーピングや、マッサージなどで大切にケアしてきた足首が、とうとう悲鳴を上げてしまったのだという。繰り返しの負荷で骨に微細な亀裂が生じていたのだ。
「しばらく、練習ができない」
仁の目は赤くなっていた。僕も、香織もそのことが何を意味するのか悟った。
「仁、教科書類は僕が全部持つから」
「私は、ノートを取ってあげる」
「カオリン、手は大丈夫なんだってば」
香織のとぼけた言葉に、仁は少しだけ笑顔を見せた。
仁は、移動の度に松葉杖を慎重に操作しながら、額に汗を滲ませて歩いていた。僕と香織で補助をする日々が続いた。
僕達にとって、それはなんともないことだった。だが、仁にとっては、そうではなかったらしい。人の手を借りることに恐縮し、言葉数が減っていく様子が見て取れた。次第に彼の目から光が奪われていった。陽気なスーパーマンの、心の奥の繊細さを覗いてしまった居心地の悪さを、なんとかしたいと思った。
五月末のある日、人気のない教室に珍しく仁が残っていた。僕は仁の座席前に陣取って、お喋りでもしようと水筒のお茶をひと口飲んだ。いつになく真面目な仁の視線を感じた。
「昨日、整形外科を受診したんだけどさ、まだ二ヶ月もかかるんだって。怪我が完治するまでに」
「え、うそ!」
僕から漏れた言葉は、仁の救いにも慰めにもならなかった。肩が小刻みに震えている。仁の泣き様は、凜々しくもあり、儚くもあり、自分まで涙しそうになった。僕は、背中をさすることぐらいしかできなかった。
「もう、インターハイには間に合わないんだ」
かすかに聞こえた仁の言葉から、それが彼にとって「絶望」を意味していると分かった。こんな時に、何もできないのが歯がゆかった。僕はまだ仁に起きた現実を受け止められなかった。
「母さんを楽にしてあげたかったんだ。僕が陸上で成功して」
母親が女手ひとつで仁を育てていて苦労を掛けている、初めて仁から聞いた。仁の母さんは小さな雑貨店を営んでいるのだという。「僕にはもう何の取り柄もない」小さい声で仁が吐き捨てるように言った。その言葉は僕の心に突き刺さった。仁の境遇を思うと、どんな言葉を返しても空回りする気がして何も言えなかった。
「仁を元気付けるために何かしよう」
一晩考えた末に、翌日、香織に僕の思いを打ち明けた。
「うちで食事会なんてどう?」
「えっ、どういうこと?」
重々しい表情をしていたに違いない僕は、香織の返事にあっけに取られた。
「パパが友達連れて来ていいよっていつも言ってるのよ」
お嬢様らしい回答が返ってきた。バーベキューを週末に家族で楽しんでいるらしい。深刻な状況にそぐわない表情になりそうだった僕は、ため息とも深呼吸とも取れる深い呼吸を吐いて顔を引き締めた。
「来週くらいどう? 仁に聞いてみるわね」
素早い展開に、どきどきしながら自分の席から見守っていた。
「えっ、カオリンちに行けるの? 最高じゃん」
僕の席まで届くくらい嬉しそうな声が聞こえてきた。久しぶりに聞く、陽気な仁の声にほっとした。気を遣わせない優しさなのかもしれない。
「まあ、僕は怪我をしているからバーベキューのあれやこれやの作業は君たちにお任せするから」
冗談とも本気とも取れる言葉を、振り返って僕に聞こえるように投げかけた。「僕達は来週、香織の家にバーベキューをしに行く」その話だけで、空気が少し明るくなった気がした。仁の笑顔が久しぶりで眩しかった。
「お姉ちゃんもその日、ちょうど家にいるんだけど、参加してもいいかな?」
「もちろんだよ」
二人の声が重なる。
「喜ぶわ、きっと」
香織の声は、いつになく明るい。なぜだか胸の奥が少しだけ跳ねた。
バーベキューの日の朝、僕は仁のお母さんに初めて会った。怪我をしている仁を車で香織の家まで乗せて行くから一緒にどうぞと言われたのだ。
「ねえ直樹さん、仁はとても慎重でね、いつもあなたに助けられているのよ」
僕は、意外な言葉に戸惑って、すぐにそれを否定した。
「そんなことないです。僕の方が仁に助けてもらってます」
自分の顔が赤くなるのが分かった。
お母さんは前を向いたまま「ありがとう」と微笑んだ。ルームミラーごしにふと見えた表情が、どこか仁に似ていて、なんだか少し照れくさかった。
到着すると、香織の両親に挨拶をしたいという母親に、仁は「頼むから止めてくれ」と懇願し、家の前で解放された。
玄関の呼び鈴を押そうとした瞬間、庭の方から香織の声がした。
「パパー、お肉持ってきたわよー。ここ置いとくね」
明るく弾んだ声に、鼓動が高鳴った。いきなり庭へ入っていく訳にもいかず、呼び鈴を鳴らす。中から足音が聞こえ、ドアが開いた。香織に雰囲気の似た朗らかそうなお母さんだ。
「いらっしゃい! 二人共。香織からよく話を聞いていたわ」
柔らかい笑顔にもてなされ、庭へ案内された。
「おっはよー」
香織の元気が炸裂した。
「君たちが、香織と仲良くしてくれているんだね。いつも香織がお世話になってるね。ありがとう」
優しい声のお父さんは、いかにも会社を経営している知的な雰囲気がした。ガレージには、どこか懐かしい車が停まっている。
「ちょっと、車を見せて頂いてもいいですか?」
緊張しながらお願いした。
「ああ、どうぞ。あの車はね、今は動かないんだよ。古くなってしまって」
ガレージに駆け寄った。
「うわあっ! すごい!」
僕は、思わず大きな声を上げた。
「TOIDAのランクル! リアゲートが上下開きになった年式だ」
ベージュ色の優しい車は、エンブレムが錆び付いてどこか寂し気だった。思わず触れてみたくなってボンネットに手を当てると、鉄のボディがなんとも言えず手に馴染んだ。懐かしい匂いがする。
「おじいちゃんがこの車種のブラックに乗っていて、よく山にホタルを見に連れて行ってくれたのを思い出しました」
父親は僕に厳しすぎるくらいだったが、おじいちゃんは本当に優しくて、ランクルで連れて行ってもらった思い出がたくさんある。
「ほう、君のおじいちゃんもTOIDAの車が好きなのかね?」
「はい。おじいちゃんはTOIDAが好きですが、父はTOIDAで開発の仕事をしています」
そう言った時、誇らし気な気持ちが僕を満たしていった。僕にも好きなものがあったじゃないか。ランクルのエンジン音が聞こえた気がした。いつかこの車を動かしてみたい。
「ほう! それは素敵だ。僕はTOIDAの車しか乗ってないんだよ」
香織のお父さんは満面の笑みだった。
「さあ、今日のお肉は特別においしいわよ! 香織がお友達を連れて来るっていうから奮発したのよ」
香織のお母さんが肉を焼き始めた。仁はそつなく、肉を焼く手伝いをしていた。さすがは仁だな。
ふと空を見上げるとアオゾラが広がっている。二階の窓が開いた。中から白いブラウスの女性が顔を出した。長い髪の毛が風に揺れて、少し顔が見えた。あれは・・・・・・香織のお姉さんだ。仁も窓の方を見上げ、目を細めて姉さんの様子を見ていることに気が付いた。
いい匂いに包まれて、さて肉を食べようと思った時、家の中からお姉さんが庭に出て来た。
「こんにちは、香織の姉の響子です」
ちょっと大人っぽい雰囲気のお姉さんは、僕達より二つ年上で、大学二年生だ。
「初めまして。松井仁です」
仁はちゃっかり姉さんと握手をしていた。響子さんは少しはにかんだ笑顔で仁を見ていた。香織はというと、既にお肉を美味しそうに頬張っていた。
姉妹でもこんなに雰囲気が違うんだな、ぼんやり考えながら紙皿に焼き肉のタレを入れた。
「僕は、竹村直樹です。香織さんと同じ写真部です」
響子さんが、今度は僕に微笑んだ。女性らしい、何か人を惹きつけるような瞳をしていた。僕は、照れ隠しに大きな声を出した。
「ようし! たくさん食べるぞ!」
香織のお母さんが嬉しそうに笑った。仁も心なしか、ふっきれた様子で怪我の前と同じくらいに食べ始めた。香織はみんなの顔を嬉しそうに眺めながら、姉さんと仲良くお喋りをしていた。以前、姉さんの話題になった時、顔が曇ったように見えたのは気のせいだったのだろうか?
姉妹っていいな。なんだか、友達同士に見える。楽しそうに話す香織の顔に見とれてしまった。はっとして、誰にも気付かれていないことを確認し、安心した。
僕達四人用のテーブルが用意されて、食べながらお喋りも楽しんだ。僕達、三人は昨日も学校で会ったばかりだったから、話題はどうしても響子さんに集まった。
「響子さんは、今、どんなことをされているんですか?」
言ってしまった後に、インタビューみたいで気恥ずかしくなった。
「大学で英文学を専攻しています」
「響子さん、大学生活って楽しいですか?」
日頃見せないような、緊張した面持ちの仁がいた。
「高校生の時よりずっと楽しいわ。教養科目もあるけど、自分の好きな分野ばかり勉強できるんですもの。仁さんは何を専攻したいの?」
仁の目を見つめながら話す響子さんの表情は、特別に柔らかく見えた。
「僕は、本当は陸上の名門の青学を目指していたんですけど、足を怪我してしまって・・・・・・。陸上の夢はあきらめようと思うんです」
「それは辛いわね・・・・・・。きっと、これまでを陸上に捧げてきたのでしょうから」
響子さんの表情が曇った。
「仁が好きな勉強って何だっけ?」
明るい声で、香織が口を挟んだ。
「それを最近考えていたんだけどさ。母がね、新聞に載った僕の大会結果を切り抜いては嬉しそうに集めてくれていたんだよね。新聞記者なんてやってみたいな」
仁は、飲みかけのコーラを片手に、どこか照れくさそうに笑った。
「なんか、仁に合ってるよね。新聞記者」
スポーツに限らず、世の中の出来事を文章にする仁の姿が思い浮かんだ。香織は初めて聞く仁の新しい夢に、興味津々な様子だった。響子さんは、僕達の様子を優しい笑みを浮かべて見守っていた。
「それで直樹はどうなんだよ!」
焼き肉の入った紙皿を、僕は一旦テーブルの上に置いた。
「今日、ここで気付いたんだ! さっき、ガレージでランドクルーザーに再会して、車が好きだったこと思い出した。車の開発をしたい」
「直樹の父さんと同じ道なんだ。いいね!」
微笑んだ直後、仁の顔は少し曇ったように見えた。仁には父親がいない。仁の表情が変わる様子に、香織と響子さんは気付いただろうか?
「香織はどうするの?」
とびきり優しい笑顔で響子さんは香織を見つめている。
「私はね、まだ家族に言ってなかったんだけど、音楽の先生になりたい」
「わあ、素敵。後でお母さんとお父さんにも話してあげて」
「うん」
「ねえ、みんなならまだ間に合うわ」
響子さんは、どこか遠くを見つめているような表情をしていた。
「人生は一度きり。後で後悔しない生き方をして欲しいな。私は気付くのがちょっと遅かったの」
僕達は驚いて、響子さんの顔を見た。
「あ、ごめんなさい。気にしないでね」
下を向いたまま、響子さんは黙ってしまった。香織がLINEでコメントを送ってきた。
《お姉ちゃん、学校休みがちだったの》
《そうだったんだ》
《辛いこと言わせちゃったな》
僕達は、何か響子さんの気持ちが上向く話題を振りたかった。
「響子さんは、何かサークルに入ってますか?」
唐突な僕の質問に、笑顔で答えてくれた。
「入ってるわよ。合唱サークル」
「何か歌ってください」
仁が憧れの眼差しを響子さんに向けた。
「やだあ! 恥ずかしいわ」
頬を赤らめる響子さんに、二つ年上だと思わず忘れそうになった。僕達は四人で自撮り写真を撮影し、LINEグループも作った。
片付けは、僕達四人でほぼ行った。鉄板の汚れを率先して洗っていたのは響子さんだった。仁は、松葉杖を突きながらも器用に片付けをしていた。
今日は香織の家族と出会えたことも、ランクルに再会できたことも、僕にとって大切な出来事になった。最後に食べた焼きそばも美味しかった。香織の両親に、仁と二人で丁寧にお礼を伝えた。
帰りは僕の家の車に、仁と並んで後部座席に座った。
「仁は、第一志望どうする?」
「そうだなあ、陸上の夢を追えなくなったから。僕は都立大学を目指すよ」
その声は、全く迷いがなかった。
「うそ! 都立大? 僕も考えてた」
最新の設備が整えられ、研究施設も講師陣も抜群で、名より実を取ることのできる大学だ。
「僕は、絶対に都立大に行って将来、TOIDAでエンジンの開発をしたい」
「直樹、素敵な目標だね! 学部は違うけど一緒に受験がんばろ!」
「だね!」
母さんと、ルームミラーごしに目が合った。
「父さん喜ぶわね」
自分の部屋に戻ると、今日の気持ちを忘れないようにカメラで自撮り撮影をすることにした。もちろん部屋に飾られた赤いフィールダーと、黒色のランドクルーザーの写真を背景に納めながら。僕も、父のようにTOIDAで車の開発をしたい。古くて動かなくなった愛車を修理する腕も身に付けたいと心に誓った。
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