第7話

緑が丘駅から待ち合わせの居酒屋へ向かって歩いていると、香織の家の前を通りかかった。玄関先には、風に揺れるマーガレットの花が咲いている。駐車場には、薄紅色のパッソが停まっていた。十年ほど前の型だから、免許を取って以来ずっと乗っているのかもしれない。香織らしい。

 音楽の教師になったところまでは聞いていたけれど——元気にしているだろうか。


 バーベキューをした庭のガレージに、ランドクルーザーがまだあるといいんだけど。当時の僕達の表情も次々に浮かんできた。あの頃は良かった。三人で一緒にいるのが当たり前だった毎日は、やっぱり輝いていた。過ぎたものは余計に美しく感じてしまう。


 ワイシャツ姿のままの僕は、今日、リストラされた人には見えないだろうな。居酒屋「焼き串昇竜」の暖簾をくぐると、一気に香ばしい香りが充満していた。

「生中、まだ?」

「お待たせしました、生中です!」

「焼き鳥の梅肉和えお持ちしました」

 陽気にはしゃぐ声も聞こえる。仁の名前で予約をしていたので、店員に伝え、個室に案内してもらう。

 仁は先に到着していて、ジンジャーエールを飲んで待っていた。二人でレモン酎ハイを頼んだ。学生時代も、僕達はレモンハイが好きで、最初から最後までずっとレモンハイを飲み続ける傾向がある。


「よおっ、久しぶり。最近どう?」

「僕は相変わらず、家を売るのは苦手だよ」

 変わらず辞めたい気分さ、とこぼした。

 インターンで新聞記者の仕事をしていた仁は、大学三年の冬に起きた地震をきっかけに、免震対応の家に関心をもった。取材を進めていくうちに、崩れない家を提供したい気持ちが募り、ハウスメーカーに就職したのだ。


 テーブルに届いたレモンハイで小さく乾杯した時、仁の携帯から着信音が響いた。仁は、ワイシャツのポケットから携帯を取り出して画面をタップした。そこに、学校のグランドで走るユニフォーム姿の仁が現れた。精悍な顔つきをしている。

「それ、ひょっとして高三の時に僕が送った写真?」

「そう、直樹が撮ってくれた俺、いい顔してるよな」

「昔から男前だな」

「オーラ出てるよ。今とは別人さ」

 仁は、もう一度タップして写真を見つめた。

「響子が亡くなった時も、この写真に励まされた」

 仁がいかに人生を凌いできたのかが伝わってくる。

「写真、気にいってくれてありがとう」

「俺がいい顔してるのは、直樹の腕前のおかげもあるな」

 二人で笑った。仁は高三の時、怪我でずっと大会に出場できなかった。怪我をする前の力走を残せて良かった。


「そうだ。すまないねえ、突然、呼び出したりして」

 僕は朝の経緯を仁に伝え、今月末には部署を移るか、退職か選ばなくてはならないと伝えた。これまで尽力してきた開発部門をなくす話に仁は自分のことのように怒りを見せた。

「そうなんだよ。これまで社長の肝入りでやってきた水素エンジンの開発なのに、ひどい仕打ちだろう」

 僕は今朝のことを思い出して、悲しさと怒りがこみ上げてきた。

「理不尽だな。憤りを感じる」

 仁は珍しく感情を露わにした。

「俺がなんとかする」

 知り合いの会社で働けるよう、奔走してくれるというのだ。仁は僕を守ろうとしている。こんな仁を見るのは、いつ以来だろう。


「僕はさ、水素で走る車をお客さんに届けたかったんだよ。未来の環境を守っていく車なんだ」

 仁は頷きながら「わかるよ」と肩をぽんと叩いた。その時、「報告したかった今朝の出来事」をはっと思い出した。声を潜めて仁の耳元で告げた。

「なあ、仁。僕もとうとう見てしまったんだよ。『青陰』ってやつ」

 仁は、はっとした表情になり僕の顔を覗き込んだ。

「どこで見たんだ?」

「リストラ直後に寄った喫茶店の、窓の向こうにいた。これまで『気のせいだよ』なんて気休めを言って悪かった。ごめん」

 僕は両手を合わせて仁に謝った。


「そんなこと謝らなくたっていいよ。自分で目撃しない限り信じられない類いのものなんだ。僕だってそうさ。響子が見たって言った時、信じてあげられなかった」

 目撃しない限り信じられないのは僕も分かる。でも響子さんの気持ちを想像すると、急に切なくなった。


「そう言えば、『青陰』の調査に行った時に、響子さんが見たから調べてるって言ってたね」

 仁は真っ直ぐな瞳で頷いた。これまでは僕がタブー視して聞けなかったことを、今日は思い切って聞いてみることにする。

「初歩的な質問していいかな? 仁は響子さんといつから付き合ってたの?」

「黙っててごめん。大学入試でみんな大事な時期だったから、ナイショにしてたんだ。香織の家にバーベキューに行った後、響子さんから励ましのメッセージが届いてね、LINEのやりとりが始まったんだ。高三の夏休み頃だったかな、付き合い出したのは」


「響子さんはさ、香織に聞いてみたんだって。仁君のこと好きなの? って。そしたら香織の奴、友達として好きだよって答えたらしくて。知らないうちに失恋してて、でも響子さんとはだんだん親しくなってさ。複雑な気持ちだった」 

「そっか」

 レモンハイのグラスを置いて、頷いた。僕には仁の気持ちを受け止めることしかできない。


「あの頃、響子さんは昔の友人関係に悩まされていてね、その不安な気持ちと、僕が陸上選手としてやっていけない不安な気持ちが結び付いてね、共鳴していたんだよね」

「共鳴?」

「そう。お互いの気持ちがよくわかるっていうのかな」

 仁はグラスに残っていたレモンハイを飲み干した。


「彼女の、どこか大人っぽい雰囲気が魅力で、僕の嫌な部分も全て受け止めてくれたんだ。彼女を抱いたこともあった。抱いたっていうよりも、子どもみたいに抱かれたって感じかな?」

「そうだったんだ」

「彼女の肌はしっとりと冷たくて、これが女性の肌なんだって感動した。ずっと一緒にいたい、彼女のことを守りたいって思ってたんだよ」


 仁はグラスを揺らすだけで、お代わりしたレモンハイは全く減っていなかった。僕は大事な告白を聞きながら、届いたぼんじりの串焼きを頬張った。

「それで、響子さんが『青陰』を見たのはいつの話だったの?」

「僕が大学生になってからさ。彼女と一緒にいるところを誰かに見られて、嫌な噂が広まったんだ」


 響子さんは新しい環境で暮らしていたにも関わらず、昔の友人によるネット上の誹謗中傷がじわじわ続いていたのだという。彼女が傷ついたのは「妹の彼氏を取ったひどい女」というデマだった。仁は香織と交際した事実はない。僕もそれを知っている。


「あの時、どうしたら彼女を守ってあげられたのか? 今も毎晩、自問自答してるんだ」

 仁は僕が知らなかったことを話し始めた。

「実は大学生になった僕と響子さんは、週末は一緒に住んでいたんだよね。だから、家族みたいに過ごしていたつもりだったし、彼女の悩みだって真剣に聞いていたつもりだった。だから、自死を選んだことが余計にショックだったんだ」


 仁は大きなため息をついた。

「月曜日に自分のアパートに戻って薬を大量に飲んで眠るように亡くなってた。まだ生きているみたいにきれいな死に顔だった。余計に悔しくて、誰かを恨みたくなった。どうしたら良かったんだろう?」

 仁の大きな喪失を埋められなかったことを、僕も悔やんだ。

「いまだに『苦しい、助けて』って、響子が夜中にうなされていた声が、寝室で目を閉じると聞こえるんだ」

 僕は仁の目を、真っ直ぐに見つめた。

「ねえ仁、どうしたら良かったのかはわからないけど、仁は響子さんのために出来ること、全てやったと思う」

 仁の表情が変わった。目を閉じた仁から涙の粒がこぼれ落ちる。僕の目にも涙が溢れた。


 仁が僕の手を握りしめた。悲しい気持ちが伝わってくる。久しぶりに流れてきた仁の感情は、深い悲しみに満ちていた。いつもの仕事の愚痴の時とは比べものにならないぐらい、暗くてどうしようもない悲しみだった。


「たしか『青髭』について教えてくれた奥山さんは、メッセージを受け取るのはタイミングだって言ってなかったっけ?」

「三年間、引き籠もっていたって言っていたから」

 しばらく沈黙した仁は、レモンハイグラスを持って、勢い良く飲み干した。

「でも僕はさ、既に十年以上も経っているんだぜ。響子を亡くしてから」

「長いよな。そろそろメッセージ受け取ってもいい頃だよ」

 仁が「青陰」から、まだメッセージを受け取っていないことに、僕は愕然とした。


「メッセージを受け取るために、必要なものって何だよ!」

 仁のやりきれなさが伝わってくる。僕は奥山さんの言葉を必至に思い出そうとした。

「そういえば・・・・・・。奥山さんが『青陰』からメッセージを受け取ったきっかけは、その子のお父さんが奥山さんを三周忌に誘ったことで、目をつむっているのに、仏壇の影に男の子が見えたって言ってたよね」


「直樹、すごい記憶力だなあ」

 仁は、グラスを置いて僕の顔をまじまじと見た。

「三年も家に閉じ籠って、誰の誘いも断っていた人が、外に出たってどういうことだと思う?」


「うーん」

 仁はしらばく考え込んでしまった。

「そうか! 何か止まっていたものを進めたくなったとか?」

「仁、そういうことなんじゃない?」

「え? どういうこと」

「だからさ、奥山さんはあの時、止まっていた時間をもう一度動かしたくなったんだよ!」


「仁君はどうなの?」

「あの頃の僕は、これまで自分の全てだと思っていた陸上ができなくなって、もう自分には価値がないって思ってたんだよ。空っぽになった僕のことを慕って、愛してるって言ってくれたんだ、響子は。なのに僕は、守ってあげられなかった」


「ねえ、仁君。そろそろ自分のことを赦してあげたらどうかな? 陸上に熱中していた仁、響子さんのことをきちんと受け止めて愛していた仁、こんなに一生懸命だった仁を未だに認めてないなんて言わないでよ。仁は僕の憧れだったし、今も憧れに違いないんだ」

「情けなくてごめん」

 思わず仁を抱きしめた。この背中は高校生の頃と全く変わっていない。「僕は、今の仁の方が好きだ」

 努力は裏切らないって言っていた頃の仁よりも、今の方が弱くて、強くて、人間臭い。


「仁君、先に進もうよ。いつまで待っても響子さんは帰って来ない」

 世の中には努力だけで解決出来ないことなんて、たくさんある。解決出来ないと知っても、それでも自分の人生をあきらめないで進めていくことが大切なんだと思う。


「ありがとう」

 その言葉と同時に、仁はゆっくりと表情が和らいだいていった。久しぶりに見る仁、本来の顔のような気がした。そこに迷いの影は、もうない。


「ねえ今、あのドアの横に『青陰』が見えた。あれは響子の顔だった」

「何か受け取ったの?」

「うん。脳内に響いたよ。響子の声だった『直樹さんの言う通り、自分を赦して前へ進んで』だって」

「ええっ?」

 そう言うと仁は笑い出した。僕もつられて笑ってしまった。


「ようやく響子が会いに来てくれたと思ったら『直樹さんの言う通り』だって」

 仁は、いつも気持ちの切り替えが早い。もう人を笑わそうとしている。

「でも、『ずっと愛してる』って響子は今、言ってくれたんだぜ」

 あれから十年以上も響子さんのことを考え続けてきた仁という男は、誠実過ぎて、真面目過ぎて、自分のことを責めてしまう。自分より相手のことを大切にしようとする。仁の力にはなれなかったけど、仁の気持ちを受け止めることはできた気がした。


「ねえ、直樹が見た『青陰』は誰だと思う? まだメッセージ受け取ってないんでしょ?」

 今、冷静になって考えてみると、一人しか思い浮かばなかった。

「きっと、三年前に亡くなった父だと思う。『腐るな! あきらめるな』って言ってる気がするよ」

「昭和っぽいね」

「父さんは、僕が家で仕事の愚痴を言うと、いつもそう言ってたんだ。なんだか、すっきりとした気分になった」


 父さんのお陰だろうか? 僕の思考は、過去と現在を行ったり来たりしながら、様々な記憶を手繰り寄せることができた。今日、一日で。『青陰』になった父さんが、導いてくれたのかもしれない。


 僕がリストラされたことなんて、たいした問題じゃないような気がしてきた。そうだ、明日は部長じゃなくて、社長に会いに行こう。水素エンジン事業部がいかに世の中に貢献できるかを社長が納得するまで説明しよう!

 水素エンジンの可能性を伝えることに、もう一度、僕の全てを懸けてみよう。それが、きっと、父から受け継いだ「職責」なのだ。


 僕は「青陰」の正体が分かった。「青陰」とは、「死にたいくらい絶望」した人にしか見えない。「タイミングが合う」っていうのは、きっと「自分のことを赦せたら」或いは「自分の課題と向き合えたら」という意味なんだろう。「自分を赦せなかった」或いは「あきらめて手放した」場合は即ち「死」が訪れる。「青陰」は、見た人が一番会いたい「死者」なんだろう。




「直樹さ、自分のことはどうなの?」

「え? リストラのこと?」

「もっと、大事なことだよ。香織のことはどう思ってる?」

「香織さんのこと、今でも大好きだ」


「じゃあ、今日の帰りに家に寄ってけよ」

「だって突然すぎるだろ」

「そんなことないよ。彼女も響子さんが亡くなってからずっと自分のことを責めてた。もっと何かできたんじゃないかってね」

 僕は会えずにいた時間の大きさに打ちのめされた。


「直樹と会うことになったから、久しぶりに香織に電話をしたんだよ。そしたら顔だけでも見たいから『待ってる』って言ってたぞ」

 僕は突然の話にどぎまぎしながらも、心の中にアオゾラが一瞬見えた気がした。







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