第2話 魚
結局、服も化粧もそのままでベッドに寝かせた。
へたに脱がせて誤解されたらめんどうだし、さいわいゲロもはねていなかった。 俺は床に座布団を重ねて、寝心地の悪いまま次の朝はやたら早く目を覚ました。 とりあえず、二日酔いでも食えるようなものを適当にこしらえる。
大根をおろしているところで、昨日のままの女が物音をたてた。
「ん……?」
見慣れない場所に戸惑っているらしい。
「起きたか、ほれ」
熱いお茶を渡してやったら、あのでかい目でまじまじと俺を見て、「すずちゃん」とまた言った。
「何だ、すずちゃんてのは」
確かに昔浮気はしたが、こんな年の離れた女に手を出したことはない。冗談にしてはたちが悪かった。
「いや、似てたから」
女は悪びれもせずに言う。
「好きだったやつか」
「うん……」
頭痛い、と眉間をおさえる。
「仕事は?」
「昼からだから。行くよ。ありがとう」
知らない男の家にいるのに、妙に落ち着いている。
俺はもう今日の出勤は諦めていた。京子の養育費のために働かないとならないのは分かっているのに。
「ねぇ、あたし昨日どこにいた?」
あー、覚えてねーのか。
俺が奢ってやったことも。
「新宿のオプティミスト」
七子は覚えのない間抜け面をしている。
「お客さん、他には?」
「俺とおまえだけだったぞ」
「誰も来なかった?」
「あぁ」
「なんだ……」
何だって何なんだ。
「ねぇ、シャワー借りていい?」
七子は思い出したように言った。
ほんの一部だが、元妻の恵美が残していった服がある。「送ろうか」とメールしたら、「いいですから処分しておいてください」とそっけなく返ってきたのだ。それっきりメールアドレスも変えられてしまっていた。
「昨日着てた服、汚れてるだろう。洗っておくから、これ着ろ」
シャワーを浴びる前と同じ格好で戻ってきた七子に、着替え一式を渡すと、目を丸くしていた。
「なんで女もんの服があるの? 女装趣味?」
「うるせえな、嫁のだ」
「え、奥さんいたの」
「もう離婚した」
「ふうん」
七子はそれ以上聞かず、いい匂いをさせながらもう一度風呂場へ消えた。
五分後に出てきた彼女は、完全に服に着られていた。恵美も決して太いほうではなかったが、わりとグラマーだったから、七子が着ると胸の辺りが余っていた。袖も長かったようで、手の甲が半分くらい隠れている。
「ちょっと邪魔になるけど、もう時間ないからこれで仕事行くね。ありがと」 制服は帰りに取りに来る、と言って七子は出かけていった。
俺はそのまま、部屋に残った。
まだ石鹸の匂いがしている。
「また来やがるのか」
昨日初めて会ったのにずいぶんななじみようで、笑顔で出迎えてしまいそうな自分が怖い。
七子の服を洗濯機に放り込んで回しながら、テレビのそばの水槽を眺めた。無趣味な俺が唯一金を注ぎ込んでいる熱帯魚だ。恵美には最後まで理解されることはなかった。その中でいちばん気に入っている赤いベタが、意味ありげに尾ひれを揺らしながら泳ぐのを、俺はぼんやり見つめていた。
すずちゃん @nana-yorihara
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