すずちゃん

@nana-yorihara

第1話 出会い

 これが飲まずにやってられるか。

 別れた女房から来た手紙を読んで、仕事の疲れがどどっと三倍にふくらんだ。 『養育費のことですけど、京子も来年は中学生、塾や習い事でお金がかかるんです。はっきり言って、これじゃ足りません。京子にはちゃんと大学まで出て、不況でもやっていける仕事を見つけてほしいから』

 悪かったねぇ、俺ゃ高卒で稼ぎも少なくて。  離婚して二年、娘の親権は当然のようにあっちにもっていかれて、なんだかんだで一度も会っていない。まー、出来心で一度浮気したのがあっさりバレちまったんで、ぜんぶこっちが悪いっちゃ悪いんだけども。理路整然と正論を突きつけて追い詰めてくる元妻の尻に未だに敷かれているようで、気分が悪い。

 どうもすっきりしない気持ちをなんとかしたくて、行きつけのバーに向かった。  そしたら運悪く、どうにもしょうのない先客さんがいらっしゃってうっとうしいのなんの。

 俺が「オプティミスト」に入店したときにはすでにかなりできあがっていたから、おおかた二、三時間は飲んでたんだろうねぇ。もしくは極端にアルコールに弱いか。

「何でメロンソーダなんだよぉー!」  メニューを逆さに見て、わめきちらしている。  

 おいおい、メロンソーダなんざ載ってねーぞ。

 平日の夜のまだ早い時間ということもあって、狭い店内には他に客もいなかったが、もしかしたらあのおねーちゃんの酔いっぷりに気を悪くして引き上げたのかもしれない。慣れている様子のマスターは、淡々とグラスを拭いて棚に仕舞っていた。 「らからそれあないっていってるのにーっ!」 

 さっきから何と会話してるんだ、アイツは。  握った拳でカウンターをガンガン叩いているその女は、ぱっと見二十代後半といったところで、ナース服みたいな白い制服に身を包んでいた。が、雰囲気がぜったいに白衣の天使じゃあない。ひょっとしたらイメクラ系のオネーチャンかもしれない。シャクドウ、ていうのか新しい十円玉みたいな色の長い髪を、ぎゅっと頭の上で結んで垂らし、えげつないくらい分厚く化粧している。が、よく見るとそんなに悪い女じゃあなかった。親指と人さし指の股に収まりそうな鋭角の顎、髪の間から覗く小さな耳、揺れるピアス、白い肌。膨張色を着ているくせに蝶みたいに細っこい。顔を上げたときに一瞬目が合ったが、潤んで焦点が合っていないところを除けば、大きくてきれいな瞳だった。目の前で大切な人を殺された少女のような目をしていた。

「何でこないんらぁあああああああ」

 オネーチャン、いきなり立ち上がって、さっきまで腰かけていた椅子を蹴る。  こりゃ、オトコにフラレたな。

「芋焼酎、ロックで」

 俺はできるかぎり巻き込まれないよう、よそを向いて注文する。ヒステリーは苦手だ。元妻を思い出す。

 忘れようと思って酔いに来たのに、すっかり醒めてしまった。

 酒に飲まれる奴ほどみっともないものはない。

「お客さん、そろそろ」

 マスターもとうとう見かねたようで、オネーチャンに声をかける。

「金なら払うっていってんらよーよぉ」

 ろれつの回らない口調で言って、急にひゃひゃひゃと笑いだしたオネーチャンは、そばに置いてあったエナメルの赤いバッグの中身をぶちまけ始めた。セブンスターと「C」のマークが入った財布とジッポのライターが、音をたてて床に滴る。

「もっていけぇーぜんぶぅー」

 げらげら笑いながら、上機嫌で名刺だのメイク道具だのをばらまいていたが、そのうち「ぐっ」と小さく喉を鳴らして、隣の便所に姿を消した。

 あーあ、こりゃとうぶん出てこれねーぞ。

 若いときには俺もよく悪酔いしてああなってたもんだ。

 残るもんなんか何にもねーのに、オトコに捨てられたくらいであんなにならなくていいだろ、と他人事なのに思う。自分の娘だったら、「星の数ほどいるぞ」って慰めてやるのに。

「すみません、鈴村さん」

 俺の名を覚えているマスターが謝ってきた。

「いや、いいよ。べつに」

 おかげでつまらねー愚痴聞かせずにすんだ。

 明日も仕事だし早めに切り上げてテレビでも見るか、と思ったが、どうも気になってしまう。

「……出てこねーな」

 三十分経っても、例の女は戻ってこなかった。

 中で死んでるかもしれない。 「ちょっと見てくるわ」

 俺は男女共用の便所のドアをノックして、応答がないのを確認してから、開けてみた。

 アルコールと吐瀉物の混じった臭いに息を止めて耐え、床に転がっている女を揺さぶる。

「おい。大丈夫か?」

 青白い顔をした女は、一瞬だけ薄く瞳を開けた。

「すずちゃ、ん……」

 掠れた声で言って、また目を閉じてしまった。

 なんだ、すずちゃん、て。

 俺の昔のあだ名じゃねーか。

 固まっているところに、寝息が聞こえはじめる。

 何の縁もないこの女を、俺はなぜか置いていくことができなくて、ふらつきながら抱え上げた。横抱きにするのなんか、娘以来だ。当然、他人のこいつのほうが重い。

「マスター、このねーちゃんのぶんも払うわ」

「ありがとうございます」

 ぜんぶで三万いくらだった。

 女をいったんソファに寝かせて、バッグの中身を拾い集める。神経衰弱できそうなほどの大量の名刺を一枚一枚。

「キャバクラ・春 ここな」「女優 日之出 明日子」「有限会社ベルクラール 代表取締役 島 幸恵」「スナックまお ゆきの」

 女の名刺ばっかりだ。こいつのはどれなんだろう。

 カウンターの下に、クレジットカードが落ちていた。

「NANAKO YAKUSHIJI」

 おー、イマドキ「子」がつく名前なのか。

 そのうち、本人のものらしい名刺の束も見つかった。

「ビューティーサロンBissQuEeN 南麻布店  薬師寺 七子」

 裏面も見る。

「痩身コース¥10.0000~  ブライダルプラン¥30.0000~」

 ……ぼったくりバーか何かか?

 とりあえず、あちこちに転がっている小銭とよく分からない色とりどりの小物を拾って、適当にバッグに放り込んだ。

「三丁目の西村荘まで」

 気絶している女とともにタクシーに乗り込んで、自分の家の住所を告げた。

 こいつが目を覚ましたら暴れるかもしれないが、そのときはそのときだ。  

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