錦市場の稲妻

 気温三八度を超す蝉のうるさい時期にかぎって、下鴨神社では古本一という古書の販売が行われる。『四畳半神話大系』という森見登美彦作品の世界観に憧れて、すでに何度か訪れている。


 下鴨神社の境内の手前にひやしぜんざいの食える店があり、そこで休憩した。


 最後に彼女の姿を見たのはいつだったろうか。ぼくははまだ記憶の中で、あの大教室の階段教室で、彼女を斜め後ろから見続けている。

 買う気もないのに、この止まった時間に相応しい言葉を求めて古本一に足を運んだ。暑さが運動不足なぼくの精神を弱らせた。

 引き返し、手ぶらのまま出町柳へ向かっていた道すがら、河合橋の上から鴨川デルタが見えた。高野川と鴨川の合流地点をそう呼ぶのだそうだ。

 以前から気になっていたぼくは、川の飛び石で遊ぶ子供たちに誘われるように、気づくとデルタに立っていた。

 そこから見える景色を眺めていると、鬱屈とした心が洗われるような清々しさを感じた。心にひんやりとした涼しい風が吹き抜けた。その感情に前触れがなかったので、ぼくはなんとなく驚いた。気が滅入るようなこの暑さも心地いいように思えた。

 飛び石を跨いでいるのは子供たちばかりではない。夫婦や若いカップル、学生の姿がある。目の前に加茂大橋という立派なものがありながら、なぜ彼らはわざわざリスクを冒してまで、飛び石で川を渡ろうとするのか。多少濡れたとてこの暑さならすぐに乾くだろう。だが足を踏み外せば大学へ行けなくなる恐れがある。


 靴下を脱ぎ川に浸かりながら、ぼくはしばらく彼らを見ていた。いい大人が何をはしゃいでいるのか、とは思わなかった。ぼくは解放されていた。

 開放感の中、ぼくはふと思った。これほど広い世界なのだから、あの人に、彼女にぼくの声が届くはずはなかった、と。叫んですらいないのだ。届くはずがない。当然だ。

 ぼくは思う。飛び石で川を跨ぐ彼らのように、リスクをリスクともせず、目の前に見えるものに純粋に正直に行動していれば良かったのではないか。であれば鈍足な蛞蝓の想いも、いつかは彼女に届いたのではないだろうか。


 しかし夢は夢であり、鴨川デルタを離れたぼくの心には、三回生の夏に至るまでの不毛な二年半という空っぽな重圧がのしかかる。ぼくは今出川を経由し、四条烏丸から錦市場へ向かった。商店街だ。

 鴨川デルタは広大であった。その広大さゆえの開放感は届かない彼女の姿をどこかに探すようぼくを導く。だが錦の狭い雑踏の中では、彼女の姿は幻影の片鱗すら見えそうになかった。世界はこんなにも窮屈で狭いというのに……。

 暑さでのぼせて、頭が狂って、彼女の幻を見るだけでもぼくは幸せになれるだろう。


「あ……」


 彼女を見つけた。錦の雑踏のなかに、ぼくは彼女を見つけた。目が合っている。ぼくははっきりとそう気づいた。


「大学、同じですよね」


 ぼくの口から勝手に言葉が漏れた。声をかけると、気づいて彼女は立ち止まってくれた。肩に雑踏がぶつかる。ぼやけた景色がぶつかる。でもぼくはずっと彼女を見つめた。彼女しか見えなかった。


「そうですよね」


 彼女は知っていた。ああ、そうか、知っていたんだ。ぼくのことを知っていた。


「路地へ出ませんか、そっちの、屋根のないところに」


「え」


「ちょっと話したいことがあって。ここ、人が多いので。あ、時間があればですけど。その、すぐ終わるので」


 彼女はちょっと悩んだふうだった。


「はい」


 曖昧に応えた彼女へ「あっち」と方向を示す。雑踏を潜り抜ける彼女の背中をぼくは追った。今日も彼女は簪で後ろ髪を上げていた。項が見えた。でもいつも階段教室で見る項とは違った。ぼくは妖精の尻尾に誘われるように、項の前で揺れるポニーテールについて行った。

 路地の切れ目に出た。連なる店と雑踏の一度途切れる場所だ。つまりアーケードを出た、屋根がない。上を見て確かめた。ない、OK、大丈夫。


「話って、なんですか」


「“ライトニング”────!」


 ぼくは大声で叫んだ。彼女に稲妻が落ちた。ぼくは目を瞑った。しばたたかせながら目を慣らした。

 なりふり構っていられなかった。暑さがぼくにまともな判断をさせなかった。それが丁度よかった。しかしおかしい。目が慣れてくるとそう思った。

 辺りの人たちがぼくのほうを少しも見ていない。大声を出したのに、一瞥もしない。やばいやつがいるとき、人は目を合わせないようにするが、そういう感じでもない。


「あの」


 声がした。ぼくは彼女へ視線を戻した。


「話って、なんですか」


「はい?」


 あれ、魔法が効いてないのか? いや、確かに稲妻は落ちたぞ。それに彼女の体から湯気が出ているし。


「忘れちゃった」


 ぼくは照れ笑いした。


「そうなんですか。じゃあラブホにでも行きますか」


「は?」


「ラブホです。するんでしょ、セックス」


 ぼくは頭が真っ白になった。暑さでやっぱり頭がどうかしている。彼女の口から、図書館の前のベンチで読書にふけっているような、そんな清楚な彼女の口からそんな卑猥な単語が出てくるはずがない。プラトニックは求めていないが、それでも初めて会話して間もないのだから、少しは彼女との初々しさを楽しみたい。


「行かないんですか?」


「ごめん。いま何て言ったの?」


「セックス」


「え」


「したいんでしょ、わたしと」


 背中から嫌な熱が広がった。脇からねばっこい汗が出た。首、後頭部、顔へ熱が広がって、かきたくない体調の悪くなる気持ち悪い汗が出た。


「なんだよ、それ……」


 ぼくは後ずさった。背中を向け、ゆっくり走り始めた。そのまま思いっきり走った。


「なんだよそれぇー!」


 咆哮した。いま見たもの聞いたものすべて吹き飛べと思った。走り続けた。叫んで、走って、彼女から逃げた。

 ラムゼン、ぼくに何の魔法を教えたの?

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