第13話
薄ぼんやりとした明かりを感じ取って、ゆっくり目を開けると、すぐ目の先に花があった。明かりを放っていたのはこの花だったようだ。
しばらくは何も考えずに花を見つめていた。ふと触れてみたいと思って、手を動かそうとしたのだが、体に重みを感じる。目線を動かして体の状態を確かめると、ほとんどが砂に埋まっていた。花の傍で横たわって眠ってしまってから、長時間が経過したのだと分かった。
体にかぶさっている砂の量はずいぶんと多いようだ。ただし呼吸ができるように気道は確保されていた。不思議だ。生き埋めになっていてもおかしくはなかったろうに。しかし、漠然としてだがその理由は分かった。気を失って身動きできない私を、花が守ってくれていたのかもしれない。その証拠に私が意識を取り戻したのを確認すると、役割を果たしたかのようにして花の光は徐々に薄れていった。
私は億劫に上体を起こして、砂の中から這い出す。それから夜空を見上げると、星々が輝いていた。どれだけの時間が経過したのだろう。
1日、ないし数日かもしれない。
時間を確かめるようとして、空の一点を見つめる。幻の中の二人をだった。
幻の中では、新婚になったばかりの夫婦が肩を寄せ合いながら、新居でのひと時を楽しんでいた。
二人の様子を見て、それでなんとなく時間感覚を取り戻せた感じがする。あの雰囲気は一週間ぐらいなのではないかなと推測した。
結婚後の諸々の雑ごとから解放されて、ようやく望んでいた穏やかな時間が流れ始めたと言う感じだったからだ。
私は二人の様子をしばらく見つめて、やがて決心して、ゆっくりと目を瞑る。
それからおもむろに手を合わせる。
夢の中での母の言葉を思い出して、私は神に祈ろうとしたのだった。
《‥‥おい、何をしている? お前はあれを見て悔しくないのか?‥‥》
すると耳元にドスの効いた声が響いてくる。私に向けた敵意を含んだ言葉だった。
それを聞き流して、私は心を静めて黙想を続ける。
なおも声は妨害を試みてきたが、無視をした。
こうして祈るのは本当に久しぶりのことだった。
砂漠に出てからの私が絶え間なく願いを持ち続けていたのは、蜃気楼の彼にだった。言わば彼こそがずっと私の信仰の対象のようなものだった。
だから神への祈りの仕方など、とうの昔に忘れてしまっていた。
––––でも‥‥。
そもそも習慣としても持ってはいなかったわね。
幼い時から母に連れられ教会には通っていた。当時の私があまり熱心でなかったことに、母にずいぶん呆れられたっけ。
あの頃は母の横で見よう見まねで手を合わせているだけで一度も熱心に祈ったことなどなかったが、一輪の花の傍で、今日、初めて真剣に祈りを捧げるのだと思う。
––––ああ、神様。愛してほしい。
こんな砂漠の夜でも。
あなただけは私の側にいて‥‥。
⚪︎
それからも私は、その場から一歩も離れずに、祈り続けた。
日が明け、日が沈み。変わり映えのしない同じ日を何度も繰り返しても、私は歩き出さず、花の傍に留まり祈り続けた。
《‥‥さあ、それを抜け! 立ち上がって進め!‥‥》
《‥‥急げ! 急げ! 急げ!‥‥》
もう一歩も幻に向かって歩かなくなった私に、声は苛立っている様子だった。
毎日飽きもせず騒ぎ立てくるので煩いけれど、聞き流す術にも慣れてきた。
母が警告していたように、私はこの声が悪いものだと悟り、無視を心掛けた。概ね、平常心でそうできたと思う。
《‥‥フザケルナ! 殺せ! あいつらを殺しに行け!‥‥》
《‥‥急げ! 急げ! 急げーー!‥‥》
しかし、耳元の声に思わず同調してしまい釣られそうになることも多々あった。
平静であることを心掛けていても、感情が起伏する強烈な一瞬がある。
それは蜃気楼に浮かぶ二人の仲睦まじい姿を目の当たりにして、羨ましさを感じた時にだった。
そうなると、どうしてもあそこへ向かって駆け出したくなる。
狂おしいほどの嫉妬の炎に焼かれて‥‥‥。
そんな時には、私はすかさず両手を強く握り合わせた。
握った手から、現実に血を流しながら–––––さらにその熾烈さを例えるなら、目からも血涙を流し、月が血に染まるような憎しみに支配されても堪えて祈った。
何度となく再発する駆け出したくなる衝動に耐え続けた。口を固く結んで、罵声を浴びせたくなる心の誘惑にも逆らい続けた。
私は、彼をまだ愛していた–––––––。
結婚したとは言え、まだ奪える機会はあるのではないかと、不埒なことを何度と考えてしまう。少し考えただけで想像が際限なく肥大化してしまう。
だから求めたくなる気持ち大きくなると、彼を求めるかわりに、私は神を求めた。そして、心が落ち着くと、二人の幸せを願った。
何度も、何度も、何度も。
そんな毎日を繰り返している内に、私の周囲に変化が訪れるようになった。
花が増え始めてきたのだ。
一本、また一本と砂の上に白い花が現れていった。
失われたはずの花園が蘇り始めていったのだった。
祈りの実りとして、花が現れたた為に、失われた花が取り戻されるたびに、私は神の臨在を感じるようになった。
そうして、長い時が経過して、園と言えるほどに見栄えを回復する頃に、ようやく私は決心がついた。
私は彼に寄り添う、女性を見つめて声をかける。
それは今まで無遠慮に放ってきた罵声以外では、一度もなかった優しい声色でだった。
「ねえ、あなた
名前も知らないあなた
黒髪が素敵ね
肌も絹のように白くて羨ましいわ
本当はずっとそう思っていたの
初めて見た時からずっとよ
あなたは器量良しで魅力的だわ
私は本当に、敵わないわね
知っている––––––
あなたはこれからも彼に愛されるわ
だって美しいもの
そうね、それだけじゃない
あなたは容姿だけの人ではないの
所作が一々綺麗なのには驚かされる
あなた、教養があるのね
品性はお金で買えないというけれど
あなたを見て納得いったわ
本当にそうなのね
みんなにも好かれていて
多くの人があなたの周りにはいるわ
彼だけにではなく友人や目下の者たちに向ける
あなたの優しいその目は、あなたの人柄をよく表している
穏やかで、優美で
繊細で、–––––愛情が色鮮やかで
普段はすましているのに
時おり、勝ち気なところがあるのも可愛らしいし
最近、あなたのお転婆ぶりを見て、思わず笑ってしまったの
そこで思ったわ
私にとって
あなたは友人‥‥
ううん、もしかしたら姉妹のようなものなのかもね
だって私は、彼を見続けると共に
あなたのこともずっと見てきたのだもの
もうあなたのことは何でも知ってるわ
同性同士であるのだし、もしかすれば彼以上かも
ねえ、だから
私の姉妹のようなあなた
あなたに私の祝福をあげる
最初はそうではなかったけれども
少しもそうではなかったのだけれど
ずっと祈ってきて
ようやく分かったの
私はあなたが好きで
本当は好きで
彼だけでなく、あなたにも幸せになってほしいの
あなたをずっと見てきて
本当にそう思えた–––––––
ねえ、あなた
名前も知らないあなた
あなたに祝福を贈るわ
私にはこれしかないの
私の持っているものはこれっきり
大事なあなただからこそ
私のすべてをあげる
だから、どうかお願い
その人を‥‥幸せにして
その人は私たちが愛した人で
私の初めての恋だった」
私は母から贈られた祝福を、女に贈った。
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