第2話


 彼が消えてしまわないかと心配して、急いで家を出たが杞憂だった。

 夜だというのに蜃気楼は消えていなかった。

 不思議と幻はそれ自体で光を放ち、夜空に映し出されたままになっている。周囲の明かりが邪魔をする昼よりも、むしろ明瞭に彼の姿を映している。彼は変わらずに〝彼方で〟私を待っていてくれていた。



 (ああ、なんてことなの‥‥)


 

 家を出る前までは、ぼやけていて見えなかった彼の姿が、はっきりと見ることができる。

 風にたゆたう白銀の髪が、とても美しいと思った。

 少し細身の、それで均整の取れた体から、引き締まった手足が伸びている。

 身長は高いように思える。

 

 そして顔。‥‥‥あの顔。

 なんて美しいの–––––––。


 男性らしくありながら、無骨でない整った輪郭。

 流麗に整った秀眉。

 知性を感じさせる品のある鼻筋。

 一目で魅力的だと思える唇は、透き通った声帯を持つのだろうと想像させた。

 そして––––––


 胸の奥にある何かが疼いた。

 深緑に輝く彼の印象的な瞳が、こちらを射抜かんばかりに真っ直ぐに見つめているからだった。



          ⚪︎



 数日の時が経った。

 私は蜃気楼を追って砂漠を進み続けている。


 昼も夜も、寝る時以外は、ほとんど休むことなく歩いている。

 その甲斐もあって、グッと彼との距離が近づいた為か、彼の姿の解像度がさらに上がって、はっきりしたものになっていた。街を出る前に予想した通りだった。


 又、彼は近づけば近づくほどに、私に様々な姿を見せてくれた。

 狩りをする姿。喋る姿。食事をする姿。馬を駆る姿。ただ歩く姿‥‥。

 どれも魅力的な彼だった。


 そうして私の元には彼の私生活の情報が集まってゆき、その情報が増えるほどに、私の中で彼という人間が徐々に肉付けされ、過去から今に至るまでの彼が生きてきただろう人生のヒストリーが形成されてゆく。

 それは一代記の物語を読み進めている気分だった。


 しかし、歩みを止めている間は、蜃気楼は明瞭さを失い、霧がかかったようにぼやけたままになってしまう。

 だからできるだけ歩みを止めたくはなかった。

 より励んで、彼に近づきたかった。そして多くの彼を見てみたかった。

 当初の私にとっては、彼を〝見る〟という行為こそが目的であったが、今では彼を〝知る〟ことこそが喜びに変わっていたからだ。



          ⚪︎



 だが、歩みを進めてゆく上で、少しだけ気がかりなことがあった。

 私は一心不乱に、且つがむしゃらに、砂漠の奥へ奥へと足を踏み入れてゆく訳なのだが、その歩み中で、度々、不可解な現象が起こることがあった。

 彼を求めて、さらなる歩みを進めようとする前方の砂漠に花園が広がるのだ。


 現れた花園は美しい‥‥のだとは思う。

 砂一面が突然、花園に変わる光景は不可解としか言いようがなかった。


 しかしやはり私は、たいしてそれらには注意を払わなかった。

 そもそも私は、空に映されるそれ以上に不可解な現象を追っている訳なのだし、その蜃気楼を見上げることに夢中で、–––彼のすべてが一瞬たりとも目を離すことができないほど素敵で–––それに比べて、足下の花程度の不可思議は瑣末なものに思えたからだ。

 それにだ。



《‥‥‥に近づく程に、一輪、また一輪、お前は花を失ってゆく‥‥》



 そう何者かが、くぐもった声で耳元に囁くと、花園はすぐに立ち消えるのだ。

 蜃気楼の彼とは違い、すべてが幻として。


 だから身勝手に現れて、意味も分からず消えてしまう、そんなものよりも––––––––私は私にとって、とても重要で意味のある〝彼〟を少しでも多く見ていたかった。彼の為に心を割いていたかった。


 ––––もっと近づけば何が見えるのだろうか?

 ––––彼は私に新しく何を見せてくれるのだろうか?


 つまらない花などよりも、私の心はそればかりだった。



          ⚪︎



「‥‥よかった。今日は狩りが成功したのね」


 口元の動きや表情から彼がいま何を成し遂げたのかが分かった。どうやら今日の獲物は大きかったらしい。彼の周囲にいる人間の姿は見えないが、恐らく集団で狩りをやり遂げて、仲間たちと喜びを分かち合っているのだろう。

 長い時間一緒に過ごしてきた為に、もう随分と彼のことが分かってきた。あまり喜怒哀楽を出すことのなく表情は乏しい彼の気持ちが、私には手に取るように分かるようになっていた。

 二人の距離は離れていても、〝私には彼のことが分かる〟それが、そのことこそが。彼と私とを繋ぐ、特別な(運命で結ばれた)絆のような気がして、とても嬉しかった。


 ふと彼の様子にいつもとは違う、何かの前兆を感じ取る。

 私はどれだけ砂漠の道なき道を歩んできただろう。その間に彼が狩りに出かける姿を何度も見送ってきた。

 いつもならば、蜃気楼の映像は〝狩りが成功した〟〝あるいは失敗した〟そこで進展がなくなり終わりなのだが、今日は余程おおきな獲物が取れた為なのだろうか。彼はこの後に、今まで見せたことのない表情をすることになる。


 そう言えば、と私は思い出す。

 今日の彼はいつものに増して緊張していたようだった。もしかすれば今日の狩りは、祭儀で演目を競うような特別なものだったのかもしれない。

 そしてその大きな狩りを終えて緊張が一気に解けたのだろう。今までは表情が乏しく、クールで大人びた印象のみを見せていた彼が、この時ばかりは隙だらけになって、少年のように朗らかに笑うのだった。



 ––––––––––ああ‥‥!––––––––––



 心の中で感嘆の声が漏れる。

 ずっと彼を見続けてきた私が驚くのだ。あれは余程のことだ。奇跡なのだ。

 あの一瞬の表情を拾い上げることができた幸運に、私は神に感謝した。本当に彼を見続けてきてよかったと思えた。

 それですぐに口から何か漏れそうになったが、その吐き出されそうになった感情が上手く言語化できずに言葉に詰まってしまう。私はこの時、彼の本当の素顔を知ってしまったが為に、その驚きで一杯になり、しばらくの間、思考が止まってしまったのだ。


 それからしばらく呆然となって、ただただ彼を見つめ続けていた。


 そうして黙って見つめ続けたままでいると、徐々に徐々に沸々と、胸の奥から測り知れない大きな感情が溢れてくるのが分かる。

 これは喜びだ。とても大きな。そして––––– 

 


「‥‥好きよ。私のあなた」



 分かった。–––––これは愛おしさだ。

 溢れ出た想いが、一気に心の中で明確な形になる。

 私はようやく声を出すことができたのだった。






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