第12話:美咲さん撃退。

第十二話


美咲さん撃退。


先生の仕掛けた「嘘」の噂は、あっという間に病院全体に浸透した。

もはや、わたしたちが恋人同士であることに、誰も疑いを挟まない。むしろ、その完璧すぎるエスコートぶりに、「高橋先生って意外とマメなんだね」なんて、先生の株が上がる一方だった。


わたしはといえば、心臓に悪い日々を送りながらも、この「フリ」に慣れ始めていた自分が少し怖い。先生が当たり前のように隣にいること。その温かさに、これが嘘だということを忘れそうになる。


そんな、嵐の前の静けさを切り裂くように、彼女は再びやってきた。


「あなたが、山本あづささんね」


昼下がりのナースステーション。背後からかけられた鋭い声に振り返ると、そこには鬼の形相で仁王立ちするかんばら美咲さんがいた。その手には、なぜかゴシップ週刊誌が握られている。(え、なんで週刊誌?)


「噂はかねがね伺っているわ。佑樹さんとお付き合いしているんですって?」

「あ、あの…」

わたしが言葉に詰まっていると、タイミングを見計らったかのように、医局から高橋先生が現れた。


「美咲さん。また来たのか」

「佑樹さん!」

美咲さんはターゲットを見つけると、わたしには目もくれず、先生に詰め寄った。


「どういうことなの!? 説明してちょうだい! 父もカンカンよ! 高橋家との大事な話はどうなるのって!」

ヒステリックな声が廊下に響き渡る。野次馬たちが、遠巻きにこちらを窺っているのが分かった。


しかし、佑樹先生は冷静だった。彼はゆっくりとわたしの隣まで歩いてくると、すっとわたしの肩を抱き寄せた。びくりと震えるわたしの身体を、安心させるように力強く支えてくれる。


そして、美咲さんを真っ直ぐに見据えて、きっぱりと言い放った。


「見ての通りだよ。俺たちは、付き合ってるんだ」


その声には、一片の迷いもなかった。

まるで、それが世界の真実であるかのように。

わたしの心臓が、きゅうっと嬉しさと切なさで締め付けられる。


先生は、さらに追い打ちをかけるように、優しい声色でわたしの顔を覗き込んだ。


「なあ? あづさ」


……え?


……あづさ?


今、先生、わたしのこと、「あづさ」って…。


わたしの思考が、完全に停止した。

頭の中で、ぐるぐると同じ言葉がリフレインする。

あづさ。あづさ。あづさ。呼び捨て。呼び捨て!?


(え? え? どさくさに紛れて呼び捨て!?)


美咲さんが目の前でわなわなと震えているのも、周囲の野次馬たちが息を飲んでいるのも、もうどうでもいい。それどころじゃない。

「フリ」のシナリオに、呼び捨てなんてありましたっけ!?


あまりの衝撃に、わたしが固まっていると、先生がわたしの返事を促すように、くいっと眉を上げた。その瞳が、悪戯っぽく笑っている。


はっ、と我に返ったわたしは、ここで頷かなければ作戦が台無しになることだけを思い出した。


「は、はいっ! そ、そうです! つ、付き合ってます!」


わたしのしどろもどろの肯定に、美咲さんの顔が絶望に染まる。彼女は、先生のわたしに向ける眼差しが、「フリ」などではない本物であることに、気づいてしまったのだろう。


「…覚えてなさい…!」


小さな捨て台詞を残して、美咲さんはヒールを鳴らし、嵐のように去っていった。

それを見届けると、周りの野次馬たちも蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。


廊下に、わたしと先生、二人だけが残された。


「…あ、あの、先生…」

「ん?」

「い、今の…『あづさ』って…」


わたしが恐る恐る尋ねると、先生はわざとらしく空を見上げて、とぼけたように言った。


「ああ、悪い。つい、役に入り込んじゃって」


その言い草に、カッと顔が熱くなる。

絶対、わざとだ。

でも、その照れ隠しだと分かる、少しだけ赤い耳を見てしまったら、もう何も言えなくなってしまった。


「あづさ」

たった三文字のその響きが、嘘で固められたこの関係に、初めて本物の熱を灯した気がした。

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