第10話ついていい嘘。
第十話
ついていい嘘。
あの夕暮れの海から数日。わたしと先生は、「偽物の恋人」になった。
なった、はずだった。
けれど、現実は何も変わらない。先生は相変わらず外科のエースとして忙しく、わたしは一介の看護師として慌ただしい日々を送るだけ。先生から「恋人のフリ」に関する指示も連絡も一切なく、あの日の出来事は全て、夕日が見せた美しい幻だったのかもしれないとさえ思い始めていた。
胸に重い石を抱えたまま迎えた、昼休み。
わたしがナースステーションの隅で、コンビニのおにぎりを開けようとした、その時だった。
「山本さん」
その声に、全ての看護師の手が止まる。
振り返ると、そこに高橋先生が立っていた。その堂々とした登場に、ナースステーションの空気が一瞬で張り詰める。
「昼メシ、行こう」
静寂の中、先生の低い声が響き渡った。
え、と声にならない声が漏れる。周囲の同僚たちの視線が、驚きと好奇の色を浮かべて一斉にわたしに突き刺さる。やめて、そんなに見ないで。
「あ、あの、わたしはここで、お弁当が…」
「いいから。行くぞ」
わたしの言い訳など聞こえていないかのように、先生はわたしの腕を軽く掴んだ。その有無を言わさぬ力強さに、わたしはなすすべもなく立ち上がるしかない。
引きずられるようにしてナースステーションを出ると、背後で「嘘でしょ…」「どういうこと…?」という囁き声が聞こえた気がした。
職員食堂までの道のりは、針のむしろだった。すれ違う医師や看護師、誰もが信じられないといった顔でわたしたちを見ている。
「せ、先生…! こんな、公然と…いいんですか?『フリ』なのに…」
向かい合って座ったテーブルで、わたしは声を潜めて尋ねた。心臓が痛いくらいに鳴っている。
すると先生は、きょとんとした顔で、当たり前のように言った。
「フリだからだろ? 周りに見せつけないと意味がない。噂はすぐに広まる。その方が都合がいい」
正論だった。あまりにも、正論すぎた。
その言葉が、またわたしの胸をちくりと刺す。そうだ、これは全部「作戦」なんだ。わたしは、先生の「都合のいい」駒なんだ。
緊張と自己嫌悪で、食事なんて喉を通らない。わたしが箸をつけただけでお皿を眺めていると、先生がふいに口を開いた。
「ちゃんと食えよ。顔色悪いままじゃ、説得力がないだろ。恋人に見えない」
そう言うと、先生は自分の箸で、わたしの皿に乗っていたピーマンをひょいとつまみ、自分の口へ運んだ。わたしがピーマンが苦手なこと、いつの間に知ったんだろう。
そのあまりにも自然な仕草と不器用な優しさが、わたしの心をまたかき乱す。これは「フリ」のための優しさ? それとも…。
混乱したまま食堂を出て、廊下を歩いていると、前から看護師長が歩いてくるのが見えた。まずい、見つかったら何を言われるか…。わたしが咄嗟に先生から離れようとすると、逆にぐっと肩を抱き寄せられた。
「高橋先生、山本さん。お二人でランチとは、仲がよろしいのね」
覚悟していた叱責とは違う、からかうような師長の言葉に、わたしは目を丸くする。師長は、わたしたちを見ても少しも驚いていない。それどころか、全てを知っているような、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「高橋先生、あまり山本さんを困らせないであげてくださいね」
「分かってますよ」
淡々と答える先生と、優しく微笑む師長。
え…? どういうこと…?
そのやり取りは、まるで全てが示し合わせた上での茶番劇のようだった。
ナースステーションに戻ると、空気は一変していた。誰も噂話はしておらず、ただ遠巻きに、わたしのことを窺っている。先生の行動は、たった数十分で、病院中の人間関係に大きな波紋を広げていた。
もしかして、この「恋人のフリ」作戦、わたしが思っているよりもずっと大掛かりなんじゃ…。
そして、この作戦の本当の目的を、知らないのは、わたしだけ…?
先生の真意は分からない。でも、あの不器用な優しさと、師長の謎めいた微笑み。
それは、真っ暗な嘘の中に差し込んだ、ほんの小さな、希望の光のように思えた。
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