第9話「俺と、付き合ってくれないか?」

第九話


バイクを降りてヘルメットを外すと、ふわりと潮の香りがした。

目の前には、どこまでも広がる穏やかな海。太陽が水平線に近づき、空と海と砂浜、その全てが燃えるようなオレンジ色に染め上げられている。

パチパチと音を立てて燃える焚き火のように、寄せては返す波の縁がきらきらと輝いていた。


「…すごい…きれい…」


思わず漏れたわたしの呟きに、先生は「だろ?」と少しだけ得意そうに笑った。

二人で砂浜に下りて、波打ち際を並んで歩く。ざあ、という優しい波の音だけが、わたしたちの間に流れていた。沈黙が、少しも苦じゃない。むしろ、このまま時が止まってしまえばいいとさえ思った。


しばらく歩いたところで、先生がふと足を止めた。

わたしもつられて立ち止まる。先生は、真っ直ぐに水平線を見つめていた。夕日を浴びたその横顔は、いつも病院で見るよりもずっと大人びて、そしてどこか儚げに見えて、どきりとした。


「山本さん」


静かに、わたしの名前を呼ぶ声。


「はい」


「あのさ…。もし、だけど」


先生は視線をわたしに向けると、少しだけ躊躇うように言葉を続けた。その瞳は、見たことがないくらい真剣だった。


「俺と、付き合ってくれないか?」


時が、止まった。

心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ねる。

今、なんて? つきあって…? わたしと、先生が?


夢を見ているんだと思った。あまりにも都合のいい、甘い夢。でも、頬を撫でる潮風も、足元の砂の感触も、そしてわたしを見つめる先生の真剣な瞳も、全てが本物だと告げている。


「…え…?」

やっとのことで絞り出した声は、掠れて震えていた。

嬉しくて、涙が出そうだ。顔が熱い。きっと、この夕日よりも真っ赤になっているに違いない。

はい、と、そう言おうとした。喜んで、と。

わたしが口を開きかけた、その時だった。


「あの美咲さんに諦めてもらうには、恋人がいるって言うのが一番手っ取り早いと思って」


すん、と。

世界から、一切の音が消えた。


先生は、少し困ったように眉を下げて続けた。

「家同士の付き合いもあるから、無下にもできなくて困ってたんだ。君には、本当に申し訳ないんだけど…恋人のフリを、してくれないか?」


ああ、そういうことか。


一瞬で、頭に上っていた血が、足元までサーッと引いていくのが分かった。

燃えるように美しかった夕日が、急に色褪せて、冷たくて悲しい景色に見える。さっきまで心地よかった潮風が、今は肌寒く感じた。


先生は、わたしのことが好きなんじゃない。

ただ、「都合がよかった」だけなんだ。

わたしが先生に好意を寄せていることに、きっと気づいていたんだろう。だから、断らないだろうと。


「もちろん、嫌なら…」

「いえ!」


先生の言葉を遮るように、わたしは声を張り上げていた。

俯いた顔を、上げることができない。今、顔を上げたら、きっと泣いてしまう。


「…先生の、お役に、立てるなら…」


偽物でもいい。恋人のフリでもいい。

それでも、ほんの少しの時間だけでも、あなたの隣にいられるのなら。

そう思ってしまう自分が、惨めで、愚かだった。


「…本当か? 助かるよ、山本さん」


安堵したような先生の声が、遠くに聞こえる。

わたしは、最後まで先生の顔を見られないまま、小さく、小さく頷いた。


こうして、わたしの初めての恋は、幸せの絶頂で告げられた「嘘」から始まることになった。

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