第7話「明けたら、海を見にいかないか?」
第七話
先生は「ん」と短く応えると、何事もなかったかのようにその場を去っていく。
わたしは、その大きな背中を見送ることしかできなかった。
諦めなきゃ。でも、諦めきれない。ぐるぐると同じ場所を回り続ける思考に、またため息がこぼれそうになった、その時だった。
数歩先で、先生の足がぴたりと止まった。
「あ、そうだ、山本さん」
振り返った先生が、何かを思い出したようにわたしを呼び止める。その表情は、さっきまでの医者としての顔とは少し違って見えた。
「はい?」
「その休み…、もし予定がないならなんだけど」
先生は少し言い淀み、視線をわずかに泳がせる。珍しいその仕草に、わたしは首を傾げた。
「明けたら、海を見にいかないか?」
「……え?」
時が、止まった。
今、先生は、なんて言った? 海? わたしと?
わたしの思考が完全に停止しているのをよそに、先生は少し早口に続けた。
「バイクがあるんだわ。…なんて言うと、意外かな。二人でさ、風を感じながら走るのも、悪くないと思うんだけど」
そう言って、先生は照れを隠すように、はは、と乾いた笑いを漏らした。
「…キザかな?(笑)」
冗談めかして首を傾げる先生。でも、その耳がほんのり赤いことに、わたしは気づいてしまった。
どうしよう。嬉しい。心臓が破裂しそうなくらい、嬉しい。
でも、だめだ。あの人の顔が、脳裏に浮かんで消えない。
「…あのっ」
わたしは意を決して、口を開いた。
「先生は…いいんですか? かんばらさんと、その…縁談のお話が…」
言ってしまってから、後悔した。先生を困らせてしまう。でも、聞かずにはいられなかった。
わたしの言葉に、先生の表情からふっと笑みが消える。そして、深く、静かなため息を一つ吐いた。
「…あれは、親同士が勝手に進めてるだけだ。俺には関係ない」
きっぱりとした、強い否定の言葉。
「俺は、俺が行きたいと思う人と、行きたい場所に行く。…だから、聞いてるんだけど」
そう言って、先生はもう一度、わたしの目をまっすぐに見た。
その瞳に嘘はなかった。そこにあるのは、ただ、わたしへの問いかけだけ。
「…どうかな?」
嫉妬も、不安も、劣等感も、全部どうでもよくなった。
今、目の前にいるこの人が、わたしを誘ってくれている。ただその事実だけで、胸がいっぱいになる。
わたしは、自分の気持ちに正直になることを決めた。
「…はいっ!」
自分でも驚くほど、明るくて大きな声が出た。
「行きます! 海、見に行きたいです!」
わたしの返事を聞いて、先生の顔に、今まで見たことがないくらい、柔らかな笑顔が浮かんだ。
「…そうか。じゃあ、決まりだな」
「はい!」
「詳細はまた連絡する。…じゃあ、ちゃんと休めよ」
今度こそ、先生は満足そうに頷くと、颯爽と歩き去っていった。
一人残されたナースステーションで、わたしは燃えるように熱い頬を両手で押さえた。
バイク。二人きり。海。
まるで夢みたいだ。
先生がくれた特別休暇は、とんでもなく特別な休暇になりそうだった。
わたしは、逸る心を抑えながら、カレンダーに大きな、大きな花丸を書き込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます