第6話「看護師長から、山本あづさに特別休暇をくれるってさ(笑)」

第六話


あの日、あの華やかな女性――かんばら美咲さんが現れてから、病院の空気はどこか変わってしまったように感じた。いや、変わったのはわたし自身の心だ。ナースステーションで交わされる「高橋先生、とうとう身を固めるのかしら」「お似合いよね、あんな綺麗な人なら」なんていう噂話が、針のようにわたしの胸をチクチクと刺す。


仕事に集中しようとすればするほど、「縁談」という二文字が頭をよぎり、先生の顔をまともに見ることができなくなっていた。先生とすれ違うたびに、ぎこちなく会釈をして、足早にその場を去ってしまう。そんな自分が嫌だった。


その日も、わたしは配薬の準備をしながら、重いため息をついていた。その時だった。


「山本さん」


背後からかけられた声に、びくりと肩が震える。一番聞きたくて、一番聞きたくない声。高橋先生だった。


「…は、はい!お疲れ様です」


振り返らず、声だけで返事をする。これ以上、心をかき乱されたくなかった。しかし、先生はわたしの隣にすっと立つと、カルテをめくるふりをしながら、声を潜めて言った。


「看護師長から、山本あづさに特別休暇をくれるってさ(笑)」


「……え?」


いたずらっぽく笑う先生の声に、わたしは思わず顔を上げた。意味が分からず、きょとんと先生を見つめる。特別休暇? わたしが?


「な、なんでしょうか…。わたし、何か業務で大きなミスでも…?」

「違う違う。この前までダブルワークで無理してたろ? その埋め合わせだってさ。師長も、ああ見えて根は悪い人じゃないんだよ」


先生はそう言って笑うけれど、わたしの心は晴れない。あの師長が、自分からそんな配慮をしてくれるとは、到底思えなかった。一つの可能性が、頭に浮かぶ。


「……え? もしかして、先生が…頼んでくださったんですか…?」


恐る恐る尋ねると、先生は一瞬、言葉に詰まった。そして、ばつが悪そうに視線を逸らし、ぽりぽりと首筋を掻いた。


「さあな。まあ、誰が言ったにせよ、もらえるもんはもらっとけよ」


その照れ隠しのような仕草が、何よりの答えだった。

ああ、まただ。この人は、いつもこうだ。


縁談相手がいるのに。わたしとは住む世界が違う、家柄も釣り合う素敵な女性がいるのに。どうして、一介の看護師であるわたしのことまで、そんなに気にかけてくれるんだろう。


「…でも」

「でも、じゃない」


わたしの言葉を遮るように、先生はわたしの顔をじっと覗き込んできた。その真剣な眼差しに、心臓が大きく跳ねる。


「顔色、悪いぞ。たまにはゆっくり休め。それも仕事のうちだ」


心配の色を隠そうともしない、まっすぐな瞳。その近さに、わたしは息を飲む。嫉妬と劣等感で冷え切っていたはずの胸の奥に、また小さな温かい光が灯るのを感じた。


「……ありがとうございます」


絞り出すようにそう言うのが、精一杯だった。

先生は「ん」と短く応えると、何事もなかったかのようにその場を去っていく。


わたしは、その場にしばらく立ち尽くした。

諦めよう。諦めなきゃ。そう何度も自分に言い聞かせたのに、先生の不器用な優しさに触れるたびに、その決心はもろくも崩れ去ってしまう。


この休暇は、先生がくれた優しさだ。

その優しさを噛み締めながら、少しだけ、ほんの少しだけ、このどうしようもない恋を続ける勇気をもらった気がした。

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