第5話「…美咲さん。どうしてここに」
第五話
先生が師長に話してくれたおかげで、わたしの無茶なダブルワークはなくなった。身体が楽になったのはもちろん、それ以上に心が軽くなった気がする。ナースステーションで先生の姿を見かけるたびに、胸の奥がきゅうっと温かくなる。これは感謝だけじゃない。もっと別の、名前をつけるのが少し怖い感情だということに、わたしは気づき始めていた。
そんな穏やかな日々が続くと思っていた矢先だった。
その人は、嵐のように突然現れた。
昼下がりのナースステーション。午後の業務に追われていたわたしたちの前に、カツ、カツ、と高いヒールの音が響く。顔を上げると、そこに立っていたのは、病院という場所にはあまりにも不釣り合いなほど華やかな女性だった。
寸分の狂いもなく巻かれた艶やかな髪。高級ブランドのものだと一目でわかるワンピースに、小さなハンドバッグ。ふわりと香る甘い香水が、消毒液の匂いに満ちた空気を一瞬で塗り替えていく。
「あの…ご面会ですか?」
先輩の看護師が尋ねると、彼女は値踏みするような視線を一瞥し、こくりと頷いた。
「外科の、高橋佑樹先生はいらっしゃいますか?」
その名前が出た瞬間、ナースステーションの空気がぴしりと凍った。わたしも、心臓が嫌な音を立てて跳ねるのを感じる。
「高橋先生は今、オペに入られていますが…」
「そう。じゃあ、終わるまでこちらで待たせていただくわ」
彼女はそう言うと、まるで自分のオフィスのように、当たり前といった顔で待合のソファに腰を下ろした。その堂々とした態度に、誰もが何も言えなくなる。
「…ねえ、あの人ってもしかして…」
「かんばらメディカルワークスのお嬢様じゃない…? ほら、うちがいつもお世話になってる…」
ひそひそと交わされる同僚たちの声が、わたしの耳に突き刺さる。かんばらメディカルワークス…。病院に出入りする大手医療機器メーカーだ。
それから数時間後。長いオペを終えた高橋先生が医局に戻ろうとした時、待ち構えていた彼女がすっと立ち上がった。
「佑樹さん」
わたしは書類を運ぶふりをして、その場を通りかかる。聞きたくない。でも、足が動かない。
「…美咲さん。どうしてここに」
先生の声は、明らかに困惑し、そして苛立ちを滲ませていた。
「どうしてって、会いに来たに決まっているでしょう? 何度お電話しても『忙しい』の一点張りなんですもの」
「何度も言ったはずだ。今は仕事に集中したい。縁談の話は…」
縁談。
その一言が、鈍器のようにわたしの頭を殴った。目の前がぐらりと揺れる。
「お父様も心配なさっているのよ。この話は、高橋家とかんばら、両家にとって大切なことなの。一度くらい、お食事くらいご一緒したっていいでしょう?」
「ここは病院だ。プライベートな話をする場所じゃない。帰ってください」
冷たく突き放す先生の声。でも、美咲さんは少しも怯まない。
「嫌よ。あなたが『はい』って言うまで、わたし、ここを動かないから」
まるで駄々をこねる子供のような、しかし絶対的な自信に裏打ちされた声。住む世界が違う。わたしとは、何もかもが。先生を「佑樹さん」と呼び、家と家の話をする彼女と、ただの「山本さん」でしかないわたし。
先生は深く深いため息をつくと、彼女を医局へと促した。わたしの方など見向きもせずに、二人の姿がドアの向こうに消えていく。
わたしはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
胸の中に、チリチリと音を立てて黒い炎が燃え広がるのを感じる。息が苦しい。これが、嫉妬。
先生の不器用な優しさに触れて、少しだけ近づけた気になっていた自分が、途方もなく愚かに思えた。
わたしなんかが、先生のことを好きになるなんて、やっぱり、おこがましい夢だったんだ。
胸の痛みに耐えながら、わたしはぎゅっと唇を噛み締めた。
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