第4話「『ご迷惑をおかけしてすみません』
第四話
あれから数日。
わたしはナースステーションでカルテの整理をしながらも、どこか落ち着かない気持ちでいた。高橋先生が看護師長に話してくれると言ってくれた件。本当に実行してくれたんだろうか。
師長の様子をそれとなく窺ってみるけれど、特に機嫌が悪いわけでもなく、いつも通りに忙しなく指示を飛ばしている。わたしへの態度も変わらない。もしかしたら、忙しい先生はもう忘れてしまったのかもしれない…。
そんなことを考えていたら、背後から不意に声がかかった。
「山本さん」
聞き覚えのある低い声に、心臓が跳ねる。振り返ると、そこには回診から戻ってきたらしい高橋先生が立っていた。
「あ、先生!お疲れ様です」
慌てて立ち上がると、先生は「ああ」と短く応え、少しだけ声を潜めて続けた。
「…そういや、この前の件」
その言葉に、わたしは息をのむ。やっぱり、覚えていてくれたんだ。
「はい…」
固唾を飲んで先生の次の言葉を待つ。一体、師長はなんて言ったんだろう。怒られたんじゃないだろうか。先生に迷惑をかけてしまったんじゃ…。
わたしの不安を読んだのか、先生の口元に、ふっと意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「看護師長に話ししてきたよ」
「…はい」
「『ご迷惑をおかけしてすみません』ってさ。あっさり認めたよ(笑)」
「ええっ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。あの厳しい師長が、そんなにあっさりと? 信じられなくて目を丸くしているわたしに、先生は得意げに口の端をきゅっと上げた。
「な!」
その一言に、先生の自信と頼もしさが全部詰まっている気がした。
先生はカルテ棚に軽く寄りかかりながら、続ける。
「これで、もう無茶なシフトは組まれなくなるはずだ。来月からのシフト、確認してみろよ」
そして、わたしの顔を覗き込むようにして、少しだけ優しい声で尋ねた。
「大丈夫だろ、?」
その問いかけは、シフトのことだけを言っているのではないと、すぐに分かった。わたしが、この一件で気まずい思いをしていないか、心配してくれているんだ。
じわ、と胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
「は、はい…! 大丈夫です! 本当に、ありがとうございます…! 何てお礼を言ったらいいか…」
わたしが深々と頭を下げると、先生は「別に」とぶっきらぼうに言った。
「君のためだけじゃない。看護師が疲弊したら、結局俺たち医者が困るんだからな。合理的配慮ってやつだ」
そう言って、先生はひらりと手を振ると、医局の方へ颯爽と歩いて行ってしまった。
残されたわたしは、その大きな背中が見えなくなるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「合理的配慮」なんて、また素直じゃないことを言う。
でも、その不器用な優しさが、今は何よりも嬉しかった。
来月のシフト表を確認するのが、少しだけ楽しみになった。そして、それ以上に、明日また先生に会えるのが、楽しみになっている自分に気づいて、わたしは一人、頬を赤らめるのだった。
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