第3話「俺が、困る…」
第三話
心地よい沈黙は、先生が空になったマグカップをテーブルに置く、カチャンという小さな音で破られた。その音は、まるで夢から覚める合図のようで、わたしははっと我に返る。
「…山本さん」
不意に、さっきまでの柔らかな雰囲気とは違う、真剣な声で名前を呼ばれた。顔を上げると、先生がまっすぐな瞳でわたしを見つめている。その眼差しに、心臓がどきりと跳ねた。
「君のその勤務状況、やっぱりおかしいよ。看護師長に話してみる。だめだ、こんなの」
きっぱりとした、有無を言わせぬ口調。それは命令でも提案でもなく、決定事項を告げる響きだった。
「えっ…!?」
予想外の言葉に、わたしは思わず声を上げる。外科のエースである高橋先生が、一介の看護師のシフトに口を出すなんて。そんなことをしたら、先生の立場が…。
「だ、大丈夫なんですか? そんなことして…。わたしのために、先生が師長と揉めたりしたら…」
わたしの心配をよそに、先生は呆れたようにふっと息を吐いた。
「大丈夫だよ。っていうか、大丈夫じゃないのは君の方だろ。これは労働基準法に関わる問題だ。はっきり言って、違法なんだから」
その力強い言葉に、わたしは何も言い返せなくなる。確かに、この働き方が普通じゃないことは分かっていた。でも、慢性的な人手不足の中、「わたしが我慢すれば丸く収まる」と、自分に言い聞かせてきたのだ。
「でも、師長も人手が足りなくて、困ってるんだと思いますし…」
「それは経営陣が考えることだ。現場の人間が無理して倒れたら、本末転倒だろうが」
先生は腕を組み、厳しい表情で続ける。
「医者が過労で倒れたら大騒ぎするくせに、看護師ならいいのかって話だ。それに…」
そこで、先生は一旦言葉を区切った。何か言いにくそうに、視線を少しだけ彷徨わせる。
「それに…?」
わたしが聞き返すと、先生は少しばつが悪そうに、ぼそりと言った。
「……それに、君みたいなのがフラフラしてたら危なっかしくて見てられない。万が一、君が倒れたら、俺が困る」
ぶっきらぼうなその言葉は、なぜだかどんな優しい言葉よりも、わたしの胸の奥にすとんと落ちてきた。
「俺が、困る…」
その一言が、頭の中で何度もこだまする。
ただの同僚として? それとも、何か別の意味が…?
顔にじわりと熱が集まるのを感じながら、わたしが何も言えずにいると、ナースステーションの方から、ピリリ、という電子音が微かに聞こえてきた。
「…ほら、もうナースステーションに戻れ。仮眠時間、少しでも取れよ」
先生はそう言って、立ち上がる。
その大きな背中が、今はなんだか、すごく頼もしく見えた。
「…ありがとうございます」
わたしは消え入りそうな声で礼を言うと、自分のマグカップを持ってそっと医務局を後にした。
廊下を歩きながら、まだどきどきと鳴りやまない心臓を押さえる。先生が淹れてくれたコーヒーよりも、先生の言葉の方が、ずっとずっと、わたしの心を温めてくれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます