食文化革命前夜

ヴァルモット辺境伯家の食卓は、貴族のものとしては質素だが、心のこもった温かい料理が並ぶ。


厨房を預かる料理長が腕を振るった、新鮮な野菜のポタージュスープ。

地元の猟師が仕留めたばかりの、野性味あふれる猪肉のロースト。


森で採れた木の実を、香ばしいバターでソテーしたもの。

どれも素朴で、滋味深く、カイルの舌を満足させるには十分な美味しさだった。

ただ一つ、どうしても我慢ならないものを除いては。


それは、毎食、当然のように食卓の主役として鎮座している、主食の黒パンだ。


(……硬い。そして、酸っぱい……。今日も、僕の顎は試練の時を迎えるのか……)


彼は、出された黒パンをナイフで切り分けながら、内心で何度目か分からない愚痴をこぼした。

その手応えは、パンというより、もはや乾燥した木材に近い。


ずっしりと重く、ナイフの刃を押し返すほどの抵抗力を持つそのパンの断面は、黒土のように目が詰まっている。

一口噛みしめると、野趣あふれる穀物の風味と共に、天然酵母特有の、主張の強い酸味が口いっぱいに広がった。


栄養価が高いことは、もちろん【神眼】の鑑定で分かっている。

だが、前世で日本の、あの絹のようにきめ細かく、雲のようにふわふわで、しっとりとして、ほんのりと優しい甘みが口に広がる「食パン」の味を知る三十六歳の魂にとって、この黒パンは、食事というより、もはや「生存のための栄養摂取作業」に近かった。


(食は、文化の基本であり、人の幸福度に直結する最重要項目だ。この世界の食文化レベルという根本的なバグを、僕の知識でデバッグできないだろうか……)


彼のプログラマー脳が、現状の「バグ」を認識し、改善案の策定を猛スピードで開始する。

必要なのは、確かな技術力と、そして、共に革命を起こすための情熱的な協力者。


その時、彼の脳裏に、太陽のような眩しい笑顔を浮かべる、一人の少女の顔が鮮明に浮かんだ。

最高の協力者(パートナー)が、すぐ近くにいるではないか。


その日の午後、カイルはマリアの実家である「クレストン・ベーカリー」を訪れていた。

店の前では、マリアが自分の背丈ほどもある箒を使い、少しおぼつかないながらも、一生懸命に落ち葉を掃いていた。

その姿を見つけたカイルは、穏やかな、しかし確信に満ちた笑みを浮かべて、彼女に声をかけた。


「ねえ、マリア。君の実家のパンをもっと美味しくする方法があるんだけど、試してみないかい?」


カイルの言葉に、マリアは箒を動かす手をぴたりと止め、振り返った。

そして、その翠色の瞳を少しだけ吊り上げて、むっとしたように頬を膨らませる。


「えー? うちのパンは、この領地で一番美味しいって評判なんだよ! 騎士団のゴードンさんだって、うちのパンを食べなきゃ力が出ないって、いつも言ってくれるんだから!」


自分の家のパンが、領一番であるという誇り。

その純粋なプライドが、彼女を少しだけ攻撃的にさせていた。

カイルは、そんな彼女の反応を予測していたかのように、悪戯っぽく笑いかけた。


「もちろん、今のパンも美味しいさ。力強くて、食べ応えがある。戦士のためのパンだ。でも、僕が言っているのは、そういう次元の話じゃないんだ」


カイルは、少しだけ声を潜め、まるで秘密の魔法の呪文でも教えるかのように、マリナに語りかけた。


「雪のように白く、雲のように柔らかく、そして、蜂蜜のようにほんのり甘い。歯なんていらないくらい、舌の上でふわりと溶けて、食べた人の頬が、自然に緩んでしまう。誰もが、一口食べただけで、天国にいるような気分になれる、そんな魔法のパンの話だよ」


「魔法の、パン……?」


マリアの翠色の瞳が、カイルの言葉に、星が宿ったかのようにキラキラと輝き始めた。

雪、雲、蜂蜜、天国。


彼女の心をくすぐる、夢のような単語の連続攻撃。

単純で、夢見がちな彼女の心を掴むには、十分すぎるほどの殺し文句だった。

彼女の頭の中では、すでに、雲に乗って空を飛ぶような、途方もない光景が広がっていることだろう。


「作る! 私、そんな魔法のパン、作ってみたい!」


完全にカイルの口車に乗せられたマリアは、箒を放り出すと、カイルの手を掴んで店の奥へと駆け出した。

二人は、店の奥で、逞しい腕で黙々と生地を捏ねていたマリアの父、トーマスの元へと向かう。


頑固で、昔気質のパン職人である彼を説得するのが、この食文化革命における、最初の、そして最大の難関だった。

カイルは、これから始まるプレゼンテーションの成功を祈りながら、マリアに手を引かれていった。

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