第4章 白いパンと香る石鹸

プロローグ 行列の先の奇跡

ヴァルモット辺境伯領の城下町に、前代未聞の光景が広がっていた。


まだ夜も明けきらぬ、東の空がようやく白み始めた薄闇の中だ。

一軒の小さなパン屋「クレストン・ベーカリー」から、通りの向こうの広場を半周し、その先まで続く、信じがたいほどの長蛇の列。


その列をなしているのは、質素な身なりの農夫から、身なりのいい商人、果てはピカピカの鎧を身につけた騎士や、侍女を侍らせた貴族の奥方まで、ありとあらゆる身分の人々だった。


彼らは、肌寒い朝の空気の中で、白い息を吐きながら、今か今かと開店の時間を待ちわびている。

その誰もが、まるで聖地の巡礼者のように、敬虔で、そして熱狂的な眼差しを、パン屋の扉に向けていた。


彼らの目的はただ一つ。


今や領内でその名を知らぬ者はいない、奇跡のパン「ヴァルモットの白パン」を手に入れること。

そのパン屋の厨房では、三人の男女が、汗と小麦粉にまみれながら、まるで戦場のような忙しさでパンを焼き続けていた。


「父さん、次の生地がもうすぐ焼き上がるよ!」


「おお! 窯の準備はできてるぜ!」


「カイル、温度は!?」


「あと三十秒! 窯の中の湿度も完璧だ!」


少女マリアと、その父である店主トーマス、そして、その傍らで子供とは思えぬ冷静さで的確な指示を出す少年カイル。


三人の顔は疲労困憊だったが、その瞳は、自分たちの手で奇跡を生み出しているという達成感と喜びに満ちて、ダイヤモンドのように輝いていた。


カラン、と店の扉に取り付けられた鐘が、開店を告げる。

なだれ込む客の先頭にいたのは、一人の屈強な騎士だった。


歴戦の勇士として名高い、騎士団の古株、ゴードン。

その顔には、長年戦場を渡り歩いてきた者だけが持つ、険しさと威厳が刻まれている。


彼は、無言で焼きたての白パンを一つひったくるように受け取ると、代金をカウンターに叩きつけ、その場で豪快にかぶりついた。


次の瞬間、奇跡は起きた。


百戦練磨の騎士の、まるで岩を削り出したかのような厳つい顔が、ふにゃり、と情けなく崩れる。

その大きく見開かれた瞳からは、ぼろろと、まるで堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ち始めたのだ。


彼の脳裏に、遠い昔の光景が、鮮やかに蘇っていた。

まだ若い頃、帝国の軍勢との激戦で深手を負い、死の淵を彷徨っていた雪原の夜。


凍える身体をさすり、今は亡き妻が、故郷から持ってきた、けして美味いとは言えない黒パンを、涙ながらに彼の口へと運んでくれた。

あの時の、人の温もりが詰まったパンの味。


それが、彼の人生で最も尊い味覚の記憶だった。

だが、今、口の中にあるこの白いパンは、その神聖な記憶すら、いとも容易く凌駕していく。


「こ、この味は……! なんだ、この天国のような柔らかさは……! 歯を立てるまでもなく、舌と上顎だけで、ふわりと溶けていく……! そして、この気品に満ちた甘み! 砂糖のような短絡的な甘さではない! 大地と太陽の恵みを一身に受けた小麦そのものが持つ、生命力の甘さだ! あの日の妻のパンが『愛』の味だとするならば、これは! これは『慈悲』! 全てを包み込み、肯定する、女神の慈悲の味だ!」


騎士は、パンを片手に天を仰ぎ、号泣しながら叫んだ。


「うおおおお、おかわりだ! あるだけ全部持ってこい! これがあれば、わしはもう一度、帝国と戦える!」


その、あまりにも劇的なグルメレポートが、店内にいた人々の熱狂に、さらに火をつけた。


ちょうどその時、店の前に停まっていた豪華な馬車から、三人の貴婦人グループが、興味深そうに降りてきたところだった。

彼女たちは、騒ぎの中心である白パンを一つ手に入れると、店の隅のテーブルで、品定めするようにそれを分け始めた。


一人目、若く快活な印象のアネリーゼ様が、小さな一口を愛らしく頬張る。

すると、彼女の目が、まるで星が宿ったかのようにキラキラと輝きだした。


「まあ! なんて素敵な食感なのでしょう! まるで、生まれたての小羊を雲で包んで、それを頬張っているかのようですわ! それに、この優しい甘み……お砂糖のような直接的な甘さではなくて、朝露に濡れた小麦の穂先のような、清らかで、どこまでも自然な甘み……! ああ、このパンを食べていると、お花畑を駆け回りたくなりますわ!」


二人目、理知的な雰囲気のクララ様が、パンの断面をじっくりと観察し、香りを確かめてから、慎重に口に運ぶ。


「ふむ……。所詮はパン……いいえ、これは違う。表面の皮(クラスト)は完璧な薄さで小気味よい食感を残しながら、中の生地(クラム)の柔らかさを一切邪魔しない。この気泡の大きさ、均一さ……グルテンの構造が、完璧にコントロールされている証拠ですわ。バターや牛乳でごまかさず、小麦粉の持つ本来の旨味(ポテンシャル)を、精密な温度管理と、未知の発酵技術によって、極限まで引き出している。これはもはやパン作り(ベーキング)というより、錬金術(アルケミー)の領域ですわね」


そして三人目。

最も高貴で、常に厳しい表情を崩さないベアトリーチェ様が、扇子で口元を隠しながら、パンを値踏みするように見つめていた。


「愚かなこと。たかが庶民の食べるパンに、これほど狂気するとは。一体、どれほどのものか……」


彼女は、まるで毒でも味見するかのように、ほんの僅かな一片を、気品高く口に運んだ。

そして――凍りついた。扇子が、ぱたりと手から滑り落ちる。


完璧に化粧が施された、氷のような無表情が、微かに、しかし確かに、ひきつった。

大きく見開かれた瞳は、信じられないものを見たかのように、一点を見つめて固まっている。


長い、長い沈黙。

やがて、彼女は震える声で、呟いた。


「……完璧。この世に、これ以外の言葉が存在しない。甘み、香り、食感、そして後味。全ての要素が、寸分の狂いもなく、究極の地点で調和している。これを『パン』と呼ぶことすら、この至高の食べ物に対する冒涜。……誰ですの? この奇跡を焼き上げたパン職人(アルティザン)は! 今すぐ、わたくしの前に連れてきなさい!」


その、普段の彼女からは想像もつかない、魂からの叫び。


号泣する老騎士と、打ち震える貴婦人たち。


クレストン・ベーカリーは、その日、ただのパン屋ではなく、身分を超えて人々が奇跡を体験する、聖地となった。


――その全ての始まりは、ほんの数週間前。


カイル・ヴァルモットが、毎日の食卓で出される硬く、酸っぱい黒パンを前に、この世界の人々の食文化の未来を憂い、心の底から漏らした、一つの深いため息から始まったのだった。

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