理系少年の製パンラボ
「なんだと、カイル様? パンの作り方を、このわしに変えろ、ですと?」
マリアの父、トーマス・クレストンの人の好い顔が、途端に険しくなった。
その手は、長年のパン作りで鍛え上げられた、分厚く、節くれだった職人の手だ。
彼は、今まさに愛情を込めて捏ねていた黒パンの生地を台に叩きつけると、カイルを真正面から睨みつけた。
「パン作りは、長年の経験と勘が全てだ。生地が生き物だってことは、言われんでも分かっとる。わしらは毎日、その生地の声を聞き、窯の機嫌を伺いながら、パンを焼いてるんだ。それを、まだ粉の匂いも知らぬような子供の言う通りに、変えろと仰るのか!」
彼の怒りはもっともだった。
何十年も、己の腕一本で家族を養い、この領地で一番のパン屋だと自負してきた職人の誇りが、カイルの提案を、根底から拒絶していた。
「でも、お父さん! カイルが言うには、魔法のパンなんだよ!」とマリアが間に入るが、頑固な職人の耳には届かない。
(……まあ、そうくるよな。頭ごなしに否定しないだけ、マシか。プライドの高い技術者(エンジニア)を説得するには、正面からの仕様変更要求(リクエスト)は悪手だ。まずは、相手への敬意(リスペクト)を示し、共同開発(ジョイント・ベンチャー)の形に持ち込むのが定石……!)
カイルは、慌てることなく、七歳の子供とは思えぬ落ち着き払った態度で、一歩前に出た。
「トーマスさん。僕は、あなたの経験と勘を否定するつもりは、全くありません。むしろ、その素晴らしい技術に、僕の『知識』をプラスして、誰も見たことのない、最高のパンを一緒に作り上げてほしいのです」
彼は、まるで大学で特別講義でもするかのように、パン作りの「科学」を、分かりやすい比喩を交えて語り始めた。
「まず、酵母です。あれは、ただの粉ではありません。目に見えない、小さな生き物なのです。彼らが快適に活動できる温度と湿度を管理してあげることで、生地はもっと、もっと元気に、たくさんの気体を出してくれます。それが、パンをふっくらさせる正体です」
「次に、捏ね方。力任せに捏ねるだけでは、生地の中の『グルテン』という骨格が、十分に形成されません。それは、ただの兵士に訓練もさせずに戦場に送り出すようなものです。叩きつけ、伸ばし、折りたたむ。その一連の動作に、全て意味があるのです。我々は、生地の中で、無数の小さな網を編み上げているのですから」
「そして、発酵。一度だけでなく、二度に分けてゆっくりと時間をかけることで、きめ細かく、しっとりとした生地が生まれます。焦りは禁物です。最高のパンを作るには、最高の休息が必要なのです」
酵母が生き物? グルテン? 二段階発酵?
トーマスの頭の上には、無数の「?」が浮かんでいた。
彼の知るパン作りとは、あまりにもかけ離れた、まるで魔法の呪文のような理論。
だが、カイルの語る言葉には、不思議な説得力があった。
それは、彼の蒼い瞳が、決して揺らぐことのない、絶対的な確信に満ちていたからだ。
そして何より、彼の言葉には、トーマスの職人としての腕前に対する、確かな敬意が感じられたからだ。
「……分かった。そこまで仰るのなら、一度だけ、試してみましょう。ただし! わしを納得させられるものが出来なければ、この話はなしだ」
頑固な職人は、ついに根負けした。
その職人の魂が、まだ見ぬ「最高のパン」という言葉に、好奇心を刺激されたのだ。
それから数日間、クレストン・ベーカリーの厨房は、「理系少年の製パンラボ」と化した。
カイルの作成した、詳細なレシピと工程表(マニュアル)に基づき、トーマスがその熟練の技で生地を作る。
だが、最初からうまくいくはずもなかった。
初日。
温度管理を重視するカイルは、温かいお湯で酵母を育てることを提案した。
だが、トーマスの長年の勘が「熱すぎる」と判断し、少しぬるめの湯を使った結果、酵母の活動は鈍り、出来上がったのは、カチカチに硬い、ただの小麦の塊だった。
二日目。
今度はカイルの指示通り、完璧な温度管理を行った。
すると、生地はこれまでにないほど、生き生きと膨らみ始めた。
「おお! すごいぞ、カイル様!」
とトーマスも目を見張る。だが、喜びも束の間、発酵させすぎた生地は、アルコールのような酸っぱい匂いを放ち始め、焼き上がったパンは、酸味の強い、パサパサのものになってしまった。
厨房は、そんな食べられないパンの残骸と、三人の深いため息で満たされた。
「もう! カイルの言う通りにやってるのに、なんでうまくいかないのよ!」
業を煮やしたマリアが、ヤケクソ気味に叫ぶ。
「うーん、理論は完璧なはずなんだが……。この世界の環境変数(パラメータ)との間に、まだ誤差があるのかもしれない」
カイルが、腕を組んで真剣に分析を始める。
その時だった。
マリアが、悔し紛れに、手元にあった小麦粉をカイルに向かって、ぱっと投げつけた。
不意を突かれたカイルの顔が、綺麗な真っ白になる。
「……マリア?」
「あ……ご、ごめん!」
次の瞬間、二人の間抜けな姿を見て、それまで黙り込んでいたトーマスが、腹を抱えて笑い出した。
「ぶっはっはっは! こりゃ傑作だ!」
その笑い声につられて、マリアも、そして最後にはカイルも、思わず笑い出してしまった。
失敗の連続だったが、この一件をきっかけに、厨房には、いつしか笑顔と、不思議な一体感が生まれていた。
頑固な職人と、元気なお転婆娘、そして、謎の天才少年。
奇妙なチームは、失敗という名のデータを積み重ねるごとに、着実に「最高のパン」へと近づいていた。
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