第一話 Beneath the Blue 1

青─それは空の色。今日の空は雲ひとつなく、透明な絵具を幾層にも塗り込めたみたいに澄んでいる。それなのに私の視線は何度も、掌の中の小さな画面をなぞってしまう。


遅刻は何分まで許せるのだろう。人や状況で変わるのはわかっている。けれど私の基準は五分。五分なら小言を添えて待てる。だが画面の数字は「9:07」──限界だ。今日という日の意味を、彼はわかっているのだろうか。呼び鈴に指を置き、押す。しばらくして、耳に入ってきたのは慌てた様子の声。


「悪ぃ由貴! 普通に寝坊した!」


「……早くしろーっ!」


          ◇


目覚めをためらわせる種類の眠りに、無機質な電子音が割り込む。玄関の「ピンポーン」。体が強ばり、枕元のスマホには「9:07」の数字が刻まれている。血の気が引く。ベッドから跳ね起き、寝ぼけ頭のまま階段を駆け下り、インターホンを押して叫ぶ。


「悪ぃ由貴! 普通に寝坊した!」


「っ早くしろー!」


「入ってていいから!」


玄関の内側で、薄手の上着の由貴が腕を組んで待っていた。洗面台で顔を洗い、服を替える。朝食を抜くか逡巡するが、由貴の「ちゃんと食べていってね」の一言に従う。


静かなリビングに、ニュースキャスターの声だけが流れていた。総理大臣の裏金疑惑を報じる硬い声が、朝の光と混ざる。由貴は手際よくリモコンを操作し、音量を下げる。食パンを急いで頬張ると、彼女はため息まじりに言う。


「寝坊したってさ……もうちょっとマシな言い訳、なかったの?」


怒りというより呆れ。そこに救われる。


「起きたばっかりで、言い訳考える余裕なんてなかったんだよ」


自分の落ち度を、理屈で薄める。


「……それも、まあ、それもそうだね」


仮面は、まだ剥がれない。


「昨日、楽しみすぎて眠れなくって。だから、つい…ね」


本当はアラームを設定し忘れただけだ。後で歩きながら話せばいい。


「うん、それなら安心した」


由貴が、ふふんと鼻を鳴らし、少し誇らしげに笑う。その顔に、胸の締めつけがほどける。支度を終え、玄関を出る。遅れは埋まらない。けれど足取りは自然に速まる。


朝の柔らかな日差しのなか、並んで駅へ向かう。


今日は、付き合ってから初めてのデートだ。何度も二人で出かけてきたから、特別という実感は──少なくとも俺には──薄い。けれど由貴は、この日を「特別」と名づけていたのかもしれない。そう思うと、さきほどの寝坊が胸に刺さる。


……大丈夫だ。あの笑顔を見るかぎり、彼女は気にしていない。


関係が変わるのが怖くて、長く告白できなかった。文化祭の雑踏で、何も言わずに差し出した俺の手を、彼女はためらわずに取った。あの刹那、世界の輪郭は揺らいだ。遅れてでも、勇気は確かに私のもとへ辿り着いたのだ。

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My heart is yours アカリホドキ @AKARIHODOKI

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