第14話 黒鎧の将
森の中に現れたその男は、松明の光をもってしてもなお、影をまとうように見えた。
全身を覆う漆黒の鎧には、血のように赤い薔薇の紋章が刻まれている。
兵士たちは恭しく膝を折り、その名を呼んだ。
「キシールクス様――」
◇
ローザの胸が強く脈打つ。
忘れかけていた名が、今ふたたび彼女の耳に届いたのだ。
「キシ……」
その音を呟いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
消えかけていた記憶の断片が、血のようににじみ出してくる。
かつて寄り添った温もり。甘えるように身を寄せた夜。
――しかし、それ以上は霧に覆われて思い出せない。
◇
キシールクスは冷たい瞳を細め、ローザを見下ろした。
「やはり……生きていたか。氷の薔薇よ」
その声は鋼のように硬いが、わずかに揺らぎが混じっていた。
ローザはその響きに胸を締めつけられ、思わず一歩下がった。
「……あなたは誰?」
「忘れたのか?」
刹那、キシールクスの視線が鋭く光る。
「かつておまえが、身を寄せた男だ」
◇
「ローザ、こいつ知ってるのか?」
ナジカが剣を構えたまま問う。
だがローザは首を振るしかなかった。
「分からない……思い出せないの……!」
キシールクスはゆっくりと歩み寄る。
鎧の重い音が、ローザの心臓の鼓動と重なった。
「おまえは私のものだ。逃げることは許されない」
◇
「ふざけんな!」
ナジカが剣を振りかざす。
鋭い斬撃が黒鎧へと叩きつけられた。
だが――金属音が轟いた次の瞬間、ナジカの剣は弾かれていた。
「なっ……!」
驚愕するナジカの前で、キシールクスはびくともしていない。
「無駄だ。おまえ程度の刃では、この身を傷つけることはできぬ」
◇
ローザは必死に叫んだ。
「やめて! 二人とも戦わないで!」
だが声は、夜の風にかき消されていく。
キシールクスはその悲痛な声に、かすかに眉を寄せた。
「……やはり、おまえは変わらぬな。あの頃と同じだ」
ローザの心臓は、記憶の扉を叩くように早鐘を打っていた。
――キシと呼んで甘えていた自分。
その姿が、霧の奥でぼんやりと手を振っている。
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