第14話 黒鎧の将

 森の中に現れたその男は、松明の光をもってしてもなお、影をまとうように見えた。

 全身を覆う漆黒の鎧には、血のように赤い薔薇の紋章が刻まれている。

 兵士たちは恭しく膝を折り、その名を呼んだ。


「キシールクス様――」



 ローザの胸が強く脈打つ。

 忘れかけていた名が、今ふたたび彼女の耳に届いたのだ。


「キシ……」

 その音を呟いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。

 消えかけていた記憶の断片が、血のようににじみ出してくる。

 かつて寄り添った温もり。甘えるように身を寄せた夜。

 ――しかし、それ以上は霧に覆われて思い出せない。



 キシールクスは冷たい瞳を細め、ローザを見下ろした。

「やはり……生きていたか。氷の薔薇よ」


 その声は鋼のように硬いが、わずかに揺らぎが混じっていた。

 ローザはその響きに胸を締めつけられ、思わず一歩下がった。


「……あなたは誰?」

「忘れたのか?」

 刹那、キシールクスの視線が鋭く光る。

「かつておまえが、身を寄せた男だ」



「ローザ、こいつ知ってるのか?」

 ナジカが剣を構えたまま問う。

 だがローザは首を振るしかなかった。

「分からない……思い出せないの……!」


 キシールクスはゆっくりと歩み寄る。

 鎧の重い音が、ローザの心臓の鼓動と重なった。

「おまえは私のものだ。逃げることは許されない」



「ふざけんな!」

 ナジカが剣を振りかざす。

 鋭い斬撃が黒鎧へと叩きつけられた。

 だが――金属音が轟いた次の瞬間、ナジカの剣は弾かれていた。


「なっ……!」

 驚愕するナジカの前で、キシールクスはびくともしていない。

「無駄だ。おまえ程度の刃では、この身を傷つけることはできぬ」



 ローザは必死に叫んだ。

「やめて! 二人とも戦わないで!」

 だが声は、夜の風にかき消されていく。


 キシールクスはその悲痛な声に、かすかに眉を寄せた。

「……やはり、おまえは変わらぬな。あの頃と同じだ」


 ローザの心臓は、記憶の扉を叩くように早鐘を打っていた。

 ――キシと呼んで甘えていた自分。

 その姿が、霧の奥でぼんやりと手を振っている。

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