第3話 水曜日さんと木曜日さん

 しばらく歩くと、目の前に湖が現れた。


「水曜日さんだ」 


 しっぽが、湖のほとりに突き出した桟橋を指さす。そこには、猫背のおじさんが釣り竿を垂らしていた。


 アキラとしっぽが近づくと、おじさんはこちらをチラリと見たが、すぐに視線を湖面へ戻した。


「こんにちは。わたしたち、出口を探しているんです」


 しっぽが声をかけると、おじさんは小さく答えた。


「……ああ、そうか」


 それだけ言うと、煙草を取り出して火をつけた。


「俺は、もう出口なんて探さないことにした」


「ここで、ずっと釣りをしてるの?」


 アキラが聞くと、おじさんはゆっくりとうなずいた。


「気が済むまでな」


「まだ済まないの?」


 その問いには答えず、煙を静かに吐き出した。


「……ここにいると、誰にも何も言われないんだ。怒られないし、急かされない。時間も、言葉も、全部静かだ」


 風が湖の水面を揺らし、釣り糸がかすかに震えた。


「邪魔してごめんなさい」


 アキラは頭を下げた。その静けさを壊してしまったことが、なんとなく申し訳なく思えた。


「ありがとう」


 おじさんは何も答えず、再び煙草に火をつけた。




 湖を後にすると、すぐに暗い森が見えてきた。


「次は……木曜日さん?」


「そう」


 しっぽは緊張した面持ちでうなずく。夜の森は、まるで大きな黒い壁のようだった。


 二人が森に足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。ひんやりと冷たい風。どこからともなくざわざわと葉が揺れる音がして、アキラの背筋にひんやりと寒気がする。

 辺りを見回しても、人の気配はない。


「誰もいない……?」


「彼は木登りの最中かも」


 しっぽがそう囁いた直後、上から鋭い声が落ちてきた。


「誰だ!」


 アキラが見上げると、頭上の枝から若い男が飛び降りてきた。髪は短く刈り揃えられ、目つきは鋭い。


「勝手に、俺の世界に入るな!」


 男は怒鳴るなり、いきなり腕を振り上げた。


(殴られる!)


 アキラの体がすくんで動かない。そのとき、隣で鈍い音がした。


「……っ!」


 しっぽが地面に倒れていた。黄色い花びらが、地面にぱらぱらと散っている。


「しっぽさん……!」


 アキラが駆け寄ろうとしたときには、男の姿はすでに木の上へと戻っていた。影のように、枝の間に消えている。


「やったの、あいつ?」


 怒りがこみ上げる。


 だが、しっぽは起き上がって、何事もなかったように服を払う。


「気にしないで」


「でも、殴られたじゃないか!」


「一人になりたいのに、誰かが入ってきたら……怒るのは当然だよ」


「でも、だからって……」


「外の世界で、あの人はいつも何かを我慢してた。怒るのも、泣くのも、笑うのも。我慢して、我慢して……だから、ここでは全部吐き出すの。殴ることさえも」


 アキラは言葉を失った。しっぽは笑っていたが、その笑顔は少しだけ、困ったような顔に見えた。


「……でも、良くないよ。そんなの」


「そうね。良くないの。でも、ここではそれができる。そういう場所だから」


 アキラは視線をそらした。どうしていいかわからなかった。


「わたし、ドライフラワーだから。涙も出ないし、大丈夫」


 そう言って、しっぽは再び歩き出した。

 アキラは黙ってその背中を追いかけた。どうしても、胸の奥がぎゅっと苦しくなるのを止められなかった。


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