第2話 中学生編
一走、三走が一年生で、二走、アンカーのストレートラインは二年生が担うことになっていた。
都大会の出場切符は、その平岡と富野が力走で手に入れた。
平岡は三年に引き抜かれ、代役として俺が選出された。
俺と富野は調子良く、ようやく13秒の壁を乗り越えたばかりだった、だが浮かれていた。
自分で掴んだ切符ではないと言え、胸の奥に確かな自信が芽生えていた。
ウォーミングアップも順調。
身体は軽い、風も穏やか。
このトラックの上に立つ誰にも等しく条件は揃っていた。
「長谷部先輩、調子悪いんで、テープ二歩下げてもらえますか?」と後輩の磯沼は言った。
磯沼の声は緊張で弱々しかった。無理もない。
俺は迷ったが、言われるがままにテープを直す。
逆に三走の磯部は「調子いいっす!」と豪語し、逆に普段の練習よりも一歩分だけ増やした。
不安より期待が勝った。
本番は、四組中二組目、五レーン。
花形の位置、最高の舞台。
個人での都大会出場は叶わなかったが、リレーで走ることができる。この上ない喜びだった。
楽しい、何もかもが追い風に吹いていた。
ここで結果を出せば、平岡のように三年生にも引き抜かれるかもしれない、そんな希望を持って出場まで浮き足立っていた。
俺が二走、富野が四走、1、2年生合同のリレーだ。
俺が富野よりやや遅いのは承知の上だったが、総合値で見ると予選は抜けることができるだろうとたかを括っていた。
しかし、小五から中一まで、ただ楽しんで走ってきた俺にとって、急にキチンとした勝負の場に出たことは初めてだった。
それに気づいた瞬間に、大きく緊張感が襲いかかってきた。
『平岡の代役』、『花形の二走』、『タイムの遅さ』、『都大会』。
いずれもがプレッシャーとして両肩に乗った。
だが、そんなことを気にしている間もなく、合同4×100mリレーが始まった。
先頭が51秒、今の我々なら達成し得るタイムだ。
わざわざ東京の端から端まで来たのだ、爪痕を残して帰りたい。
そう思いながら歩幅を合わせ、目印となるテープを貼った。
このテープを越える瞬間に前を向き、バトンを受け取り、三走の磯部に繋ぐ。
シンプルだ、これさえこなせれば決勝、入賞が見込まれるだろう。
その慢心が、俺自身のデビュー戦となる都大会で大きな失敗を生んだ。
スタートの号砲。
磯沼は言った通り調子が悪そうだった。だが加速は伸び、三番手で俺の前へ。
下げたテープに足が詰まる。息も合わないまま、もぎ取るようにバトンを受け取った。
風を切る。
ここから立て直す。そう信じた。
バックストレートを飛び出し、磯部の姿が視界に入る。
「行ける」と思った。
だが、磯部は早く飛び出した。
俺の加速を見ての判断だろう。
しかしそのせいで、ゾーンが足りない。
「磯部、速い!」
思わず叫んだ瞬間、磯部は減速し、俺とぶつかる。
バランスを崩し、押し倒すようにバトンを押し付ける。
次の瞬間、俺はタータントラックに叩きつけられた。
火花が散ったような痛みを左半身に感じる。
観客から「おぉ…」と落胆の声が聞こえた。
手の中からバトンが離れた音は──決勝への夢が砕けた音にしか聞こえなかった。
富野までバトンが渡り、6位でフィニッシュした。
俺は当然責任を感じ、空いた口が塞がらなかった。
「長谷部のせいじゃないよ」と富野は声を震わせて言った。
後輩二人を連れて決勝まで行くことができなかった。
唖然とした。
悔しかった。
擦り傷にも気づかず、ただテープを剥がし、設営したテントまでとぼとぼと歩いていった。
瞬間、瞬間がレースを左右する決定打になってしまっていたのだ。
練習は重ねてきた。誰に非があるわけでもない。
俺は、ただただ立ち尽くしていた。
擦り傷も、膝の痛みも、意識の外にあった。
頭の中には、ただ一つ。
──平岡は決勝に進んだ。
泥まみれになっても、顔を歪めながらも、確実に走っていた。
俺の脚では、あの舞台に届かない。
バトンを落とさず、順位を守る。
たった一瞬の差で、世界が違ってしまう。
「なんで俺は…」
声に出しても、誰も聞いてくれない。
胸の奥の、ぽっかり空いた穴が、ますます広がる。
羨望。
平岡の背中を、富野の加速を、磯部の迷いのない走りを、ただ羨ましく見つめるしかなかった。
俺が欲しかったものは、技術でもタイムでもなく――
誰もが羨むような自分自身の確かな力だった。
悔しさ。
無理をしてでも、あのバトンを完璧に渡したかった。
練習を重ねた時間は、夢の舞台に届くためのものだったはずなのに、
いざ本番になると、力は砂のように手のひらから零れ落ちた。
そして決意。
──もっと練習しよう。
もっと強くなろう。
平岡のように、誰よりも走れる力を、絶対に手に入れる。
心の奥底で、泣き出しそうな自分を抱えながらも、俺は固くそう誓った。
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