帰還後

 ここあが途中まで送ってくれることになった。

「なにか用事でもあるの?」

 という僕の問いに対してここあは、

「家にいるのはちょっと気詰まりだから。あくあといっしょにいるのもそうだけど、最近は自宅にあまり帰っていなかったしね」

 とのこと。理由は納得できたが、今度はあくあのことが心配になってきた。

「ちょっとあくあにひと声かけてきてもいい? 念のためっていうか」

「なにしようと企んでいるの? 弱っているのにつけ込んでいやらしいことをするつもり?」

「そういう冗談を言えるならもう大丈夫だね」

 あくあはまだここあの部屋にいた。一時間ほど前は自身が縛りつけられていた椅子に、今は膝を抱えて座っている。うつむいて足の爪をいじっている。

 なんか、平凡だな。

 他意も悪意もなく、そう思った。

「あくあ、さん」

 顔が持ち上がる。気が抜けたような顔が見返してくる。僕の存在を認識した瞬間、怪訝そうに少し眉根が接近した。

「ここあと二人でちょっと外に出るので、あくあさんは一人で留守番になるんですけど、大丈夫ですか?」

「なんだ、それ。気持ち悪い心配しやがって。どういうつもりだよ、クソガキ」

「りりあさんのことがあったので、もしかしたらあくあさんがあとを追うんじゃないかと……」

「は? なにふざけたこと言ってんだ。馬鹿が」

 不敵に口角を吊り上げ、僕に向かって中指を突き立てる。

「そんなに自殺が好きならお前が死ね。人を死に追いやった人間が自分を死に追いやるはずがないだろ、ばーか」

 思わず顔が綻んだ。不謹慎だとは思ったが笑ってしまった。

 この人は大丈夫だ。よくも悪くも、ではなくて、いい意味で。

 残された姉妹は上手くやるだろう。

 仲よく、ではないかもしれないが、死ぬことも殺されることもなく上手くやっていくだろう。

 僕がこれ以上、一之瀬家の問題に立ち入る理由はない。

「心配しすぎたみたいですね。あくあさん、さようなら」

 廊下に出たところで振り返ると、あくあは蠅か蚊を払うように右手を扇いだ。

 僕は微笑し、なにも言わずにドアを閉めた。


 やっと涙が止まった。

 スマホを見ると、佐伯があくあを倒してから小一時間が経っている。

 いまだに信じられない。

 まさか、あくあの問題に決着がつくなんて。

 あいつは反省の言葉を口にしたわけではなし、今後は家族に対する振る舞いや生活態度を正すと宣言したわけでもない。でも、りりあの遺書を聞いているときのあいつの表情を見るかぎり、今後は生きかたをがらりと変えるのは確実だ。もちろん、いい意味で。

 まだ初潮も迎えていないガキのころから、二十歳が目と鼻の先まで迫った今に至るまで、ずっと貫いてきた生きかただ。性格的にも傲慢で、怠惰で、強情で、なにかを根本から変えるのを不得手とするタイプではあると思う。

 だからきっと、歩みはナメクジのように遅いだろう。症状は一進一退をくり返し、寄り添う側の人間はいらいらさせられることも多々あるに違いない。

 それでも、あの暴君が改心してくれるというのは、被害者だったあたしからすれば万歳三唱したくなるくらいに喜ばしいことだ。

 逆効果になるかもしれないから、過度な期待はかけない。でも、なにがあったとしても、寄り添うという役割だけは捨てないでいようと思う。そして、りりあが願ったようなまともな人間に戻ったあかつきには、暴君時代も含めて、あくあにどんなに苦労させられたかを愚痴ってやろう。それをもって、あたしの復讐は完了するわけだ。

 短かったけど、あたしに対するりりあの想いを知れたのもよかった。あるのとないのとでは大違いだ。

 佐伯剣。

 あいつがパーティに加わっただけで、あたしの世界がこんなにも変わるなんて!

「ここあ!」

 噂をすれば影、廊下から佐伯の声が聞こえてきた。足音が近づいてくる。

 感謝の言葉を面と向かって伝えるのは、やっぱり恥ずかしい。

 でも、きっと、機会はこれきりじゃないから。


 道中、僕とここあは他愛もない話をした。

 りりあがいなくなったから家事はどうしよう、とか。

 葬儀とか相続とか、考えるだけで面倒な事柄について話し合わなければいけないから憂鬱だ、とか。

 一人欠けた分、あくあにもがんばってもらわなきゃいけないけど、期待薄だよね、とか。

 両親を呼び戻したいけど、あくあがいるから難しいかな、とか。

 そういえばお金下ろしてこなきゃいけないんだった、キャッシュカード家に忘れてきたから取りに戻らなきゃいけない、面倒くさっ、とか。

 今日の夕飯なににしよう、とか。

 そのすべてにりりあの死が関係していた。大なり小なり関係していた。それでいて、墓場の陰鬱さも地獄のおぞましさもない。

 ここあは双子の姉の死を受け入れていた。

 無理なく、自然体で受け入れていた。

 今後ささやかながらもよいことが待っている人のように、あるいはちょっとした親切を受けた直後の人のように、表情と声が明るいのだ。

 ここあは大丈夫。

 そんな確信を持てたことが嬉しかった。姉のあくあも大丈夫だとたしかめたばかりだから、喜びは二倍だ。

 三人家族が二人になったのだから、ここあ本人も言ったように、これから生活が大変になるだろう。困難も数多く待ち受けているに違いない。

 でも、大丈夫。

 困難でも、大変でも、きっと乗り越えられる。

「じゃあ、このへんでいい?」

 ここあの足は交差点の歩道で止まった。

 片側一車線。それなりの広さの歩道。ほどほどの交通量、まばらな歩行者の数。商店と民家の割合は一対一。きれいでも汚くもない、物好きな写真家でもわざわざ被写体には選ばないような風景。

 激動の二日間を送ったあとの別れの場所としては平凡すぎるが、逆にそれがいい。

「いいよ。ここでお別れだね。二日間、ありがとう」

「どういたしまして。連絡先、渡しておくよ。でも、こっちからはあんまり連絡しないと思う」

「葬儀とかで忙しいしね」

「それもあるけど、普通の友だちみたいに毎日ラインでくだらないやりとりをするのは、なんか違う気がするんだよね。友だちといえば友だちの関係なんだろうけど、そういう意味の友だちじゃない」

「分かるよ――と言いたいところだけど、ごめん、ちょっと分からない。やってみる前から距離を置く理由、なくない? 結果的にそうなったのなら、それはまあ仕方ないかなって思うけど」

「それはそうだけど。上手く言えないけど、佐伯とそういうのは嫌なんだよ。べたべた慣れ合いの関係は」

「混浴を強制しておいて――いやまあ、あれは物理的な近さだけど」

 上手く言えないなら深く追求しても無駄ということで、話題を切り上げてIDを交換する。

 残念な気持ちはある。ちょっとどころかむちゃくちゃある。とはいえ、本人の意思が最優先。それをなによりも尊重しなければいけない。

 ここあの性格だから、蓋を開けてみれば、うっとうしいくらいメッセージを送ってきそうな気もするし。

「それから葬儀だけど、身内だけで済ませるつもりだから。佐伯は心の中でりりあの冥福を祈っておいてよ」

「そうだね。僕もそれが一番いいと思う」

「おやおや、どうした。やけに理解力がいいじゃん。まるで生まれ変わったみたい」

「生まれ変わったのはここあだろ」

「そうかもね。――ばいばい、佐伯」

 僕に背を向け、肩越しに振り向いて満面に笑みで手を振り、軽やかに去っていく。

 ここあはさっさと顔を前に戻したので、見えていないのは分かっていたが、僕は手を振り返した。そして、彼女とは逆方向に向かって歩き出した。

「最後まで苗字呼びだったな。佐伯、佐伯って……」

 苦笑いでひとりごちる。

「気のきいた別れの言葉も言えなかったし。一応、読書は人並み以上に嗜んでいるはずなんだけどな……」

 ただし、落胆の気持ちは全然なくて。

 心は、むしろ静かに高まっていて。

 足取りは、ここあが去っていくときのそれのように軽やかで。

 居ても立っても居られない気持ちで、スマホを取り出して電話をかける。

「母さん、今日の夕飯なに? いや、なんか腹減ったから。昨日今日とちょっと友だちと外を歩き回っていて。誰の家に泊まったか? そんなのどうでもいいじゃん。いや、隠すつもりはないよ。実はカプセルホテルに泊まったんだ。友だちの家じゃなくて。駅前にあるの、知らない? いや、嘘じゃないってば」

 なにがあっても壊れそうにない、強いという意味ではなく壊れそうにない家族の一員と話していると、日常に戻ったな、という感じがひしひしとする。

 行って、そして戻ってきたのだ。帰ってきたのだ。

 起伏が少なくて、それゆえに退屈かもしれないが、捨てたものではない世界に。


 激動の一日の翌日は、ここあからはなんの連絡なかった。

 こちらからラインしようかとも思ったが、やめておいた。

 翌々日、昼下がりでも夕方でもない中途半端な時間に、ここあからは初となるメッセージが届いた。

『あくあ、告別式で大泣きしてたよ。マジうける』

 ここあが僕に連絡を寄越す意思があったこと、二日ぶりにここあの言葉を受け取れたこと、冗談を言えているくらいだから精神状態は悪いわけではないらしいこと、あくあとはそれなりに仲よくやっていること――四重くらいの意味で僕は嬉しくなった。

『感情が出やすいタイプなのかな、あくあさんは。葬儀は今どのあたり? 返信する余裕はあるみたいだけど』

『火葬場だよ。骨が焼き上がるのを待ってる。待ち時間長すぎて悼む気持ちが薄れてきた』

『それは、まさに僕が体験したのと同じ状況だね』

『なにそれ』

『一回君に話したよ。父方のお祖父ちゃんが死んで泣いたけど、火葬場で待たされる時間が長すぎてあくびをしたっていう話。ここあが忘れちゃっているんだよ』

『あー、そんなこともあったね。言われて思い出した。いろいろあったせいで失念しちゃってたんだな、きっと』

『そうだね、いろいろあったから。ここあはこの二日間、元気にやってた?』

『元気だよ。ついでにあくあも。斎場で出されたごはん普通に食べてた』

『服、着てる?』

『似合わない喪服着てる。あくあは痩せてるから死に装束のほうがぴったりなんじゃないの』

『そういうこと、本人に言っちゃだめだよ。また戦争になる』

『言わない、言わない。あくあが動いてくれないから、あいつの仕事まで押しつけられて休む暇もないくらい』

 その暇ができたからこそ連絡を寄越してきたのだろうが、断続的に小さな用事を言いつけられているのか、それともここあの中では最優先事項ではないのか、チャットのように即座に返信が送られてくるわけではない。

 顔が見えない。文章形式。やりとりに切れ目が生じる。

 同じ会話とは言い条、対面のときとは状況がまるで違っていて、相手はまぎれもなくここあなのに別人と会話しているようで、強く戸惑いを覚えている僕がいた。

 その戸惑いが返信の文章を打つ指を鈍らせ、間が空いたことでここあ側の間も引きずられるように拡大して、やりとりがどんどん間延びしていく。

 きっと、それがここあの心理状態になんらかの影響を与えた、ということなんだと思う。

『ちょっと親戚に呼ばれてるから、行ってくる』

 話の流れを無視して、そんな素っ気ない文章が送られてきた。

 ここあは嘘をつかない。会話を切り上げるために用事をでっち上げたとは思わないが、時間をとられる用事ではないのではと感じた。

 すっぱりと斬り捨てられたようで、上手い返しが見つからず、返信の文面を構築できない。

 案の定、ここあからのラインは途絶えた。

 出会いは劇的だったし、いっしょに過ごした二日間は充実していたが、けっきょくは他人同士のままだったのかな、僕たちは。

 さびしかったし、納得がいかない思いもあったが、心は駆け足でその現実を受け入れていった。


 クラスメイトたちは、一之瀬りりあの死を受け入れるというよりも忘れていった。

 もともとりりあは交友関係が狭く、存在感のない少女だったうえに、葬儀は遺族の希望で身内のみで執り行われた。

 ようするに、彼女の存在を忘れ去るにはこれ以上ないくらいの好条件が揃っていたわけだ。

 自らが通う高校の校舎の屋上から飛び降りて死ぬという、センセーショナルさをものともしないほどの好条件が。

 忘れていったのは僕も同じだ。

 特殊な形で、間接的ではあるが深くりりあと関わったから、忘却の速度が人よりもいくらか遅いだけで。

 ここあと日常的にやりとりしていれば、りりあの話題もときどきは出ただろうから、また違った展開になっていただろう。

 しかしあいつは、火葬場からメッセージを送ってきて以来、いっさい連絡を寄越してこない。

 近況報告や事情説明は特になかったから、忙しいとか、のっぴきならない事態に巻き込まれたとかじゃなくて、連絡をする意義が見つけられないだけなのだろう。

 自宅の場所は知っている。会いに行こうと思えば会いに行けるし、実際に会えたはずだが、今のところ一度も足を運んでいない。様子を見に行ったことすらない。

 あくあに強襲されたトラウマのせいではない。気まずさはたしかにあるが、足を運ばない理由になるほどの大きさではない。

 ここあはもう、僕が積極的に関わるような人ではないのかな。

 そんな気がするのだ。

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