第1話~家族の灯火~
すっかり緑に染まった街路樹が、爽やかな風にそっと揺れていた。
戦乱を越えたこの世界は、ようやく穏やかな日々を取り戻していた。
セリス王国の王都は、明日の王国祭を前に華やぎに包まれている。
そんな喧騒から少し離れた庭では――
一人の少女が、父と剣を交えていた。
◇ ◇ ◇
「っそこだ!」
鋭い声と同時に木剣が振り下ろされる。
一瞬の隙を突かれた少女は、尻もちをついてしまった。
「いった〜い!」
「はっはっは、見事に転んだな!」
「お父さん本気出しすぎ!」
父は豪快に笑い、手を差し伸べる。
娘は少しはにかみながらその手を取り、軽く引き上げられた。
陽光を受け、肩にかかる黒髪が風に揺れる。
十五歳を目前にした少女――ティナ・クロード。
幼さを残しながらも、揺るがぬ決意を宿した瞳が父をまっすぐに見据えていた。
「明日は王国祭だっていうのに、稽古は休まないとはな」
父が苦笑まじりに言うと、ティナは胸を張って答えた。
「当然よ! わたし、騎士団に入るんだから!」
幼いころ、剣を掲げて立つ父を見た。
傷つきながらも、ただ“守るため”に剣を振るうその姿――
あの背中は、幼い自分にはあまりに大きく映った。
その時の憧れが、今もティナを突き動かしている。
魔物の影は薄れたとはいえ、遠方ではいまだ人々が苦しんでいる。
その現実を思うたび、ティナの胸には――守る者になりたいという想いが燃えていた。
「昔より動きが良くなったな。何より思い切りがいい。そこを伸ばせば、もっと強くなるぞ」
「ほんと!?」
瞳を輝かせる娘に、父は誇らしげに頷く。
「ああ! この元騎士団長、スタン・コールが言うんだ。間違いない」
感慨深げに見つめられ、ティナは頬をふくらませる。
「……お父さん、今の目つき、変!」
「おっと……失敬」
軽く一喝され、スタンは笑いをこらえながら剣を構え直した。
「どうだ、もう一戦やるか?」
「もちろん! 今日こそは勝つんだから!」
強気な気質は父から、真っ直ぐな瞳は母から。
それがティナという少女だった。
◇ ◇ ◇
庭からは剣戟と笑い声が響く。
台所で夕食の準備をしていたフィリアは、その声を微笑ましく聞いていた。
二十年前、戦乱のただ中で出会った二人。
その果てにようやく得た平穏の中で、彼女は家族と過ごす日々を何よりの宝としていた。
(もうすぐティナの誕生日……。あの子の好きなカボチャのケーキを焼いてあげなくちゃ)
ふとそんな思いを寄せていたとき――
「もう一回! もう一回よ!」
庭から弾む声が響き、フィリアは自然と笑みをこぼした。
◇ ◇ ◇
三人で囲む食卓。
それは今では日常の光景だが、戦乱の中では夢のように遠いものだった。
「ティナ、誕生日に欲しいものはあるか?」
少し照れくさそうに問う父。
ティナは笑って肩をすくめた。
「もう、お父さんったら! 女の子にはサプライズってものがあるの!」
「す、すまん……」
幾多の戦場を駆け抜けた男も、娘の言葉には無力である。
ティナは口を小さく結び、しばし考え込む。
言いたいことがなかなか決まらず、視線を泳がせる。
(どうしてだろう……なんだかあの剣のことを考えちゃう)
それは寝室の壁に、大事に飾られている一本の美しい剣。
表向きは飾りのようでありながら、母・フィリアはいつも欠かさず手入れをしていた。
かつて幼いティナが剣のことを尋ねたとき、
母は寂しげに微笑むだけで、答えてはくれなかった。
少し迷ったあと、ティナは顔を上げた。
「なんでかな……寝室にあるあの白い剣、欲しいって思っちゃった」
――空気が一瞬止まる。
フィリアは硬く表情をこわばらせ、スタンと視線を交わした。
すぐに母はやわらかな微笑みを浮かべ直し、静かに答える。
「あれは……私にとって大切な思い出があるの。……ティナには別の物のほうが似合うわ」
「そっかぁ……。お母さんの大事なものなら、あきらめるね」
素直に頷く娘を見て、フィリアは安堵を胸に微笑んだ。
「大丈夫よ。欲しいものは、きっとそのうち見つかるわ」
食卓の緊張は、いつもの温かな空気に戻っていく。
「じゃあ――王国祭で誕生日プレゼントを探したい!」
「ふふ……それもいいわね」
フィリアが微笑むと、ティナは小さく願いを口にした。
「今年は……お母さんも一緒に来てくれたらうれしいな」
例年、フィリアは家に残っていた。
ティナが何度か誘っても、「私はいいわ、楽しんでらっしゃい」と優しく断られていた。
「そうねぇ……」
一瞬だけ迷うように夫を見たが、スタンは静かに頷いた。
ティナの真っ直ぐなまなざしに押されるように、フィリアは肩の力を抜いて頷いた。
「……わかったわ」
優しい返事に、ティナの顔はぱっと輝いた。
その無邪気な笑顔に、食卓に漂っていた緊張もすっかり薄れていった。
そしていつもの調子で、スタンはおどけてみせる。
「どうだ、ティナ! 久々にお父さんと一緒に風呂に入るってのは!?」
ティナはわざとらしく眉をひそめ、それでも笑顔を隠しきれずに頬をゆるませた。
「それはお父さんがしたいだけでしょ!? 最低!」
笑い声が満ちる食卓。
温かく、どこまでも穏やかな時間が流れていた。
◇ ◇ ◇
その夜、フィリアはなかなか眠れずにいた。
(……明日の王国祭……)
胸の奥に、遠い記憶の影がよぎる。
(気は進まないけれど……あの子の笑顔を見られるなら……)
母としての想いと同時に、過去の幻影が胸をかすめた。
気づけば視線は、寝室の片隅に飾られた剣へと吸い寄せられている。
(あの子が欲しがるなんて……ティナには、普通の娘として……)
思いを寄せていると、隣からスタンの寝言が漏れた。
「……ティナ……フィリア……愛してるぞ……」
その声を聞いた瞬間、フィリアの頬に優しい微笑みが浮かぶ。
夫の寝顔を見つめながら、小さく囁いた。
「わたしもよ、あなた……愛しているわ」
そう呟いて、フィリアはそっと瞳を閉じた。
寝室には、夫婦の寝息が重なり合い、安らぎが静かに満ちていった。
その静けさをよそに――。
窓から差し込む月明かりは、眠る家族を照らしながら、壁に掛けられた剣を淡く照らしていた。
やがて雲がその光を覆い、剣はゆっくりと影に沈んでいく。
まるで、迫り来る運命を示しているかのように――。
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