第2話~白銀の囁き~

 朝の光が薄布を透かし、寝室をやわらかく照らしていた。

 毛布に包まれたティナは、まだ心地よい眠気に身をゆだねている。


 その静けさを破るように、母の声が響く。


「……ティナ! いつまで寝ているの。早く起きなさい!」


「ん、ん……」


 起きる気配のない娘に、フィリアは小さく息を吐き、窓を開け放つ。

 鮮烈な光が差し込み、ティナのまぶたを叩いた。


 空は雲ひとつなく澄み渡り、王国祭にふさわしい朝が広がっている。

 風に乗って届く焼き菓子の香りが、鼻先をくすぐった。


「ん~……あと少し……」


 ティナは寝返りを打つだけで、まだ起き上がろうとしない。


「まったく……寝起きの悪さはお父さんそっくりね。――お父さんと先に行ってるわ。鐘が鳴ったら広場にいらっしゃい」


 そう言い残し、フィリアは部屋を後にした。


「……はぁい……もう食べられないよぉ……」


 寝言のような声を残し、再び眠りへ沈みかけた――その時。


 ――《……ティナ……》


 かすかな声が、頭の奥に響いた。

 母の声ではない。誰かが、自分の名を呼んでいる。


(……今の、声?)


 不安を覚えながら、ティナは目を開ける。

 部屋を見回すが、誰もいない。


 懐かしいようで、どこか哀しい響きが胸の奥に残っていた。


 そう思った矢先――。


 ――パン……パン……


 遠くから響く祝砲が、祭りの始まりを告げる。


「あっ! 今日は王国祭じゃない! なんでお母さん起こしてくれなかったのよ〜!」


 ティナは毛布を蹴飛ばし、寝癖の髪をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。

 慌てて服を引っ張り出し、支度を整える。


 胸の奥に残る囁きは、外の歓声にすぐかき消されていった。


 ◇ ◇ ◇


 玄関に向かったが、家の中は静まり返っていた。

 両親の姿はどこにもない。


 扉に手をかけた、その瞬間――


 ――《……ティナ……わたしを……》


 今度ははっきりと聞こえた。

 

 その響きに導かれるように足が動く。

 ティナは両親の寝室へと進んでいった。


 窓から差し込む陽光が、静まり返った部屋を照らす。


「やっぱり気のせ――」


 その言葉が喉で止まった。

 そこにあったのは――白銀の剣。


 昨日までただの装飾に見えていたそれが、

 今はまるで“息づいている”かのように輝いていた。


 遠い昔から自分を待ち続けていた。

 そんな想いが、彼女を包み込んでいく。


 祭りの喧噪は、いつの間にか遠ざかっていた。


 ゆっくりと床を軋ませながら近づき、手を伸ばす。


 白銀の刃は曇りひとつなく、

 鍔の桃色の宝石がやわらかな光を宿している。


 指先が触れた瞬間、胸に温もりが広がった。


 だが、その奥に――言葉にできない、寂しげな響きが潜んでいた。

 やがてそれは形を結び、声となってティナの心に届く。


 ――《……さあ、ティナ……わたしを手に取って……》


 甘美で、けれども哀しい囁き。

 不安と戸惑いが胸を締めつけた。


(……この剣が……呼んでるの?)


 抗えぬまま、彼女は柄を握りしめた。


 ――その刹那。


「……っ!」


 視界は真っ白に染まり、すべての音が消えた。

 残ったのは、自分の鼓動だけ。


 静かな光に包まれ、時間が止まったかのようだった。


 やがて光は消え、寝室は元の静けさを取り戻す。


(声が聞こえるなんて……そんなはず……)


 しかし胸の奥には、温もりと、消えぬ余韻が残っていた。

 まるで誰かに手を引かれたような感覚だけが、心を離れない。


 ――ゴーン……ゴーン……。


 王都の方角から、鐘の音が遅れて響いた。


 その響きが、母との“約束”を思い出させる。


「いけない! 早く行かないと!」


 なぜだか分からない。

 けれど、この剣だけは手から離したくなかった。


 耳の奥にまだ残る囁きを振り切るように、ティナは剣を鞘に収めた。


 止まっていた時が静かに動き出す。

 ――その運命を知らぬまま、王国祭の喧噪へと駆け出していった。

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