第6話 不思議な力

 僅かに苛ついた態度で、パオセンはなおも食い下がった。

「きみは代々の語り部で最も大きな力を持つと聞いた。一体どんな力を見せてくれるんだ。他人に見せられない力か?」

問いつめられても、メイは落ち着いていた。

「『背の鞍』に月の龍を祀った祠があります。そこで禊ぎをして龍を降ろします。降ろすと言っても、なんとなくその気配を感じ取られるような、曖昧なものなんです。ただ、わたしは、純粋な『背の民』ではなかったので、それで…それで龍の背では特別な目で見られていただけ。親族とだけ睦み合える、そういう村なんだもの。

 西都風ではそれはいけないことなのね。でも、龍の背では同じ血筋を繋げていくことが一番大切なことなんです!」

 そうなのだ、わたしは半分西都の、そうではない、パオセンの話を信じればチューメイの血筋も入っているのだ。月の龍の純粋な子孫ではない、と少女は思った。西都からは『背の民』と言われ、龍の背では「よそ者の血が混じっている」と言われた。わたしは一体誰なの。どこに居場所を見つければいいの。心のなかはざらつき、シュイピェンが愛しそうな仕草でクレアを抱きしめた情景が浮かんだ。


 パオセンはおとなしそうな少女の内部に、何か強く激しいものを感じた。あのときと同じだ。夜会で暗唱をしたときの人を圧する力。

「では、何故一部分だけ内緒にしていたんだい?」と疑問を口にした。

「あの…あの、全部さらけ出したら、いえ、全部の伝承を語り終えたら、ウェイはわたしへの興味を失うと思ったんです。」


 ルオツンの制服を纏った肌は青ざめ、夜の寒気に頬だけが色づいて、月の光に照らし出されている。校舎と寮の間に茂る樹木の枝がやけにくっきりと陰影をつけて浮かんでいた。

「お兄さま、こんなことはもうやめましょう。犠牲者が増えるだけだわ。私も、もう警戒人物の名簿に名前が載っているはずよ。」

 母に連れられて、パオセンがクレアの家に入ったのは十三年前だ。幼い女の子が笑っている。物怖じしないで真っ直ぐ近づいてくると、彼に抱きついた。

「今日からお兄さまができるって聞いていたの。妹じゃなくて、弟でもなくて、お兄さまが欲しいって、ずっとお母さまにおねだりしていたわ。」


 パオセンが連れられてきたとき、クレアは真っ直ぐ彼に近寄り、もう一人の兄ができたことを喜んだ。けれどもすぐに周囲の複雑な目をも意識した。パオセンにしてみれば、何不自由なく育った義理の妹を味方に付けて、少しでも立場を有利にしたいという打算があった。子供のクレアには兄のふりをする婚約者である。


 パオセンのそれは、どこか翳りがあったが、妹の方は生き生きと輝いていた。婚約者であり兄でもある男は、この妹の輝きを、少しだけ傷つけてやろうと思った。傷つけて、それから慰めて、自分にいいなりの女にしてやろうと考えた。

 だが、クレアは兄が考えるよりもずっと賢い女だった。名家の跡を継ぐべく育てられた、最初からこの家に君臨している少女。なにより兄が驚いたのは、妹がその賢さを大人に見せないように無邪気に振る舞っていることだった。


 もう一人の兄であるシュイピェンとの出会いを記さなければならない。

 「わたくし、もう難しい本も読めるし、お父さまとお母さまの諍いにも気がついているの。でも…それって、黙ってみないフリをしていた方が、大人は喜ぶのよ。」

 子供は大人の影の部分に敏感なものだ。また難しい本など読む利口な子供も多い。しかし、それを誇示しないでさりげなく大人とつき合っていける知性に、シュイピェンは感銘を受けた。引き取られる前に覚えてきたつまらない遊びなんかで、クレアを傷つけるのは意味がない。それよりも、この女の子をなんとかして自由にしてやれないだろうか。

 ところが、クレアの方は自由になりたいとは思わなかった。家柄も金銭も将来も何もかも最初からある。それがおのれを阻む枷だとは思わない。仲の良かった兄妹は、大人になるにつれて少しずつ道が分かれていった。兄シェいピェンは反体制活動集団の仲間ができた。それは良家の子息によくあることだ。学校へ入れられて勉学に励んだ。

 やがて社会に出ると、世の中には、文盲の人もいれば、底辺でその日暮らしをしている人もいる。庶子で屋敷の外で育ったシュイピェンでさえ、母親の親戚に引き取られて、ある程度安楽な生活をし、近所の子供達からちょっぴり悪さを教えられた程度だ。何の苦労も知らないクレアがもどかしく、またこのままいつまでも清らかでいて欲しい気もした。

 どうして二人の気持ちはこんなにすれ違ってしまったのだろう、と彼は自問した。クレアが決められた婚約者に恋をして、相手もまた彼女への恋を自覚し、非嫡出子の自分が、身勝手で淫蕩な母親とそっくりだと自覚してから…?

「クレア、世の中は一度壊れなくちゃならないんだ。持たざる者が持つためには、流血も認めざるを得ないんだ。」

そう。同母兄弟が愛し合う世界を創るためになら。


 クレアは、その言葉を聞いた瞬間、胸に薔薇の棘が刺さった気がした。おのれの胸を両腕で抱きしめて、なおも繭にこもってしまうような孤独を、メイとささやかに共有した。クレアの気持ちには関係なくメイは続けた。

「死んでしまうなんて。死んでしまうのなら、せめて全部伝えたら良かった。わたしとウェイだけにわかる語り部の真実を分け合えば良かった。けれども、ウェイも、月の龍の力が欲しかったの?

 誰も彼もが、月の龍の秘密だけを求めていた…わたし自身ではなく。もう、…もう二度と誰の理解も求めないわ。」

メイの言葉の後半は悲鳴に近かった。


 クレアは、シュイピェンと一緒に彼女に嘘を付いていた引け目を強く感じていたが、彼女に対する誠実な気持ちは伝えたかった。しかし、心と裏腹にきつい一言が口をついて出た。

「『他人の理解なんて求めない』ですって? 他人を侮辱するんじゃないわよ!」

メイに対して、いつも心を配ってきた。龍の力が欲しいのではなく、メイ自身を好きだから。

 だが、メイは言葉通りに受け取り、クレアが心配していることに気がつかない。

さらに自分自身を傷つける言葉を吐いた。


「『背の民』の言霊がもたらす力を手に入れることしか考えていない人達に、何を理解しろと言うの?誰もわたし自身を求めていなかった。でも、何も求められていないより、奇跡の力をアテにされている方がマシ…。」


つややかな、引き締まった浅黒い肌にもそれとわかるほど、『背の民』の少女の頬から血の気が引いて、そのままゆっくりくずおれた。


 パオセンとクレアが助け起こそうと近づいたとき、少女の体がほのかに白く発光した。白い靄が彼女を包み込むと、ゆっくりと体が浮いた。

「浮いている?」と言ったまま男は絶句した。不安に苛まされてメイに近づくクレアに向かい、白い靄は少しずつ形をとりつつあった。

「この者は少し興奮が過ぎたようだ。心配ない。すぐに気がつく。」

女性の声で西都の言葉だった。まるで水の蛇のようにうねり、メイの全身に巻きついていたものが、うっすらと女性の形を取り始めた。

「あなたは誰?」というクレアには応えず、『背の民』の少女を慈しみに潤んだ瞳で見つめている。


(そんなに気持ちを乱すではない。『あの方』が降りてきてしまう。わたくしの魂の欠片を受け継いだ乙女よ。制御できないようならば、これを…)


 白い靄の、半透明な女性はメイの首に、黒く光る石を掛けた。

 それは龍の背の言葉では『勾玉』と呼ばれる形であり、白い勾玉と黒い勾玉を合わせて円にした図柄を西都では『太極図』と呼ぶ。勾玉型の白い部分が「陽」を、 黒い部分が「陰」を表すという。靄の女性はメイに勾玉を授けるとすぐに消えた。


 しばらく何とも言い表しがたい沈黙が流れていたが、パオセンがそれを破った。

「すごい!伯父の日記にあった通り、『背の鞍』の祠には龍玉が、この黒い石と対になる龍玉があるに違いない。世界を制する力を持つという…。龍の背に行くぞ。」

クレアは目の前で起こった不思議な現象にも馴染めないのに、さらにパオセンの異様な熱情に気圧された。


 「いいかげんにしてください。メイが傷ついているのが解らないの?私も、もうたくさんよ。巻き込まないでいただけないかしら。」

「そうはいかない。メイに龍の背まで案内してもらわねばな。もちろんきみにもつき合って貰う。人質としてね。」

クレアは兄もパオセンのこの熱情に流されていったのだろうかと訝しむ。

「あなた、どこかねじまがっているわ。本当に西都から派遣された監視員なの?お兄さまの死は本当に仲間内の抗争なの?」

クレアの問いには答えず、パオセンは不遜な笑顔を見せた。


 山岳地帯に冒険を求める貴族の若者、高山植物の研究者、または地質学者しか行かない登山専門店がある。パオセンはそこで必要な道具を全部揃えると、龍の背に連なる山岳地帯を縫うように続く鉄道に乗った。二人の少女と、荷物を運ぶ仲間との長旅になる。

 「パオセンさんがわからないわ。夜会の時は、とても素敵な方だと思ったのに。リンがこのことを知ったら、どんなに悲しむかしら。」

というクレアを一瞥して、パオセンは薄く笑った。

「実に名家のお嬢様らしいご意見ですね。それよりも山登りは大丈夫ですか。もうひとりのお嬢さんは慣れていらっしゃると思うが。その白く細い両手足で山道を歩けそうですかね。」

「平気なわけがありませんわ。都会の舗装された道しか歩いたことはございません。それよりも、パオセンさんは大丈夫ですの?」

と強気にやり返したクレアに、

「あんたの兄さんが登ったんだ。私に出来ないことはあるまい。没落したとはいえ、青年貴族の趣味は私も大概手を出している。これ以上ない名案内人のお嬢さんも付いているしね。」

と返事をし、ついでにメイに余計な一言を投げつけた。

「きみ、色気がないね。ほんとに女の子?男の子みたいに見えるよ。」

制服を脱いで、龍の背で着ていた木綿を巻き付けた少女は、買い出しに来ている山奥の少年にも見えた。

「パオセンさんは何故龍の力が欲しいんですか。」

と話を向けてみる。

「きみは、ルオツンで生活して息苦しくならなかったか?」

と強い調子で言ったが、それはメイに対する答えではなく、まるで演説だった。


「同じ制服を着て、同じ宿舎で寝泊まりして、同じ規則を守る。毎日がつまらないものだから、きみみたいな変わり種がやってくると、物珍しげに近づいてきて、自儘な理屈で崇拝したり、蔑んだりする。きみ自身の価値はきみが決めるものだ。それを、女の子達は、言葉で自分を持ち上げて、きみを侮辱する。くだらないと思わないか?出自や財産なんて何代か前の親が、悪事でも働いて手に入れたか、偶然の時流に乗ったか。それだって永遠に続くものではないし、たまたまそこに生まれたのは彼女たちの実力でもない。きみは、『誰もわたし自身を求めない』と叫んだが、きみの価値は、そこいらの良家の子女なんかよりも素晴らしいんだ。自分で気がついていないだけさ。」


 メイはまたしても黙ってしまった。彼の言葉の前半は、確かにメイ自身が感じていたことである。『背の民』であろうが、西都の名家であろうが、わたしたちはただの学生で、勉学がおのれの身になった者は、その価値が高まるのだと思った。だが、人間の価値とは何だろう。知識があればいいのか、高貴な血が流れていればいいのか、ルオツンの卒業証書を持っていれば価値のある人間なのか。少女にはまだよく分からなかった。


 ハイマツと短い夏のクロユリ、それ以外は岩ばかりの荒涼とした山々の景色のなかで、彼女は自由だった。そのときも、誰も彼女自身を求める人はなく、それを悲しいとは思わなかった。学校へ入った途端、何故、他人に気持ちが通じないと寂しい、と気がついたのだろう。

 「私とクレアの目にもはっきり見えた、水の蛇はきみを守り、女性の姿できみを抱きしめた。覚えていないんだって?惜しいね。自在に操ることが出来れば強い能力なのに。…あれはチューメイだったのか。チューメイがきみを守っているということは、伯父の血だね。龍の背で、代々の乙女にそれほどの力がなかったのは、血族結婚の繰り返しのせいではないのかな。月の龍はチューメイの魂に惹かれて降りてくるのか。」

問われてもメイには解らない。記憶にないのだ。

 「なんだか全然メイの問いの答えになっていませんわ。私たちの学校生活と龍の力を手に入れることに何の関係もありません。」

とクレアがずれて行きつつある問題を元に戻した。山猿少女と違って扱いにくい才女に多少の苦手意識を自覚したが、パオセンは手前勝手な持論を展開した。


「学校を出たって、社会も同じことさ。貴族の大学を出たって、貴族にも階級があり、同じ階級でも長男と次男と妾の子では扱いが違う。本人の資質や実力を見いだす奴がいないんだから、肩書きでも基準にしなきゃ、何も決められやしないんだ。小さな社会で、僻み妬み嫉みの接着剤で足の引っ張り合いをしている。こんな世の中なんかつまらない。壊してやりたくならないか?」

「壊したくありません。私にはとても美しい世界ですもの。醜くい世界だったとしても、月の龍の奇蹟なんていう、大昔の伝説に頼るつもりはないわ。パオセンさんもご自分の力で何か大きなことをなさったらいかが。」

「気の強いお嬢様だな…。さすがルオツン一の才女だ。」

パオセンは口の達者なクレアを一応褒めた。確かに、自分は何の力もない若造だった。このままつまらない世の中でつまらない一生を送るのはゴメンだと思う。それはシュイピェンも同じだったろう。クレアの家に引き取られるまでの彼は下層の人々の暮らしを知っていた。ある日突然、そういった人々の、小さな努力を何のこだわりもなく受け取り、優雅な生活をしている階層を目の当たりにすれば、疑問を感じることだろう。

美しい妹に女を感じたときに向かう情熱は、パオセンから見れば限りなく子供のお遊びだった。本当に生活で精一杯な人々に政治運動に身を任すような暇はない。その日をどう暮らしていくか、それしか考えられない。思想家の演説に耳を傾けたりはしないのだ。結局恵まれた坊やの世間知らずな活動に過ぎない。この女はどこまでそれを知っていたのだろう。狭い貴族社会と女の子ばかりが集まっている学校の中で、ただ、少しでも家に有利な貴族の男から愛されるのを、待っているだけの彼女たち。女を磨いて、男を誘うだけの女…パオセンの母親のように、またシュイピェンの母親のように。そしてそれを判っていながら、女を品定めする男達のような人間に、クレアはならないのかもしれない、と考えた。


 龍の背に一番近い、山あいの寂しい駅に降り立つと、一同は村長の家に向かった。山に登るにはまず、村長の家に行き、食料を買い受け、案内を雇うのが普通だ。その家まで丸一日、メイの住んでいた山小屋までさらに一日かかる。『背の鞍』へ登るにメイメイの足で半日。慣れない者が日のあるうちに往復して、山小屋へ戻るのは難しそうだった。

 計画を練りながら村長の家に行くと、そこには歴史民俗学者のウェイが待っていた。驚く一同に学者は笑って言った。

「なに、何度かここには研究のために訪れている。ルオツンの校長からメイがいないと聞いて、きっとここに来るのではないかと待っていたんですよ。この歳になると、山道は厳しいね。」

 それは若い者も同じだった。履き慣れない登山靴で足は痛み、重い荷物で体の節々が痛んだ。特にクレアは疲れ切っていた。メイ一人、身軽に荷物を上げ下ろししていた。パオセンの歪んだ計画など何も知らない学者は、皆の中心に座り込んで地図を広げた。『背の鞍』の祠を最高地点に南の斜面に村が広がる。西には太古からのカルデラ湖が水を湛え、その向こうに森林限界を超えない山々が連なり、斎河の支流が細く曲がりくねっていく。学者はその独特な地形と、月の龍の伝説を重ね合わせて、説明を始めた。『背の鞍』を調査するならば、全員がある程度の基礎知識を持つべきだと考えている。この面々に疑問を感じないところが、浮世離れしていた。


 メイは皆にわからぬよう、村長に呼ばれた。

「かつら。どういうつもりなんだ。一度は村を出たものを、急に戻って何しに来た。なんでよそ者を引き連れてくるんだ。」

「ごめんなさい…。なんとかしますから。村のみなさんに迷惑はかけません。ほんとうです。」

村長は怒気も顕わだったが、その口調には畏れも混じっている。かつらの制御不能の不思議な力で、『背の鞍』に天変地異をひき起こされたら、村は全滅、月の龍は気まぐれな神なのだ。

「とにかく適当に調査して帰って貰え。」

しっかり受け取った礼金は無駄遣いしない。

必要最低限の保存食と水を分けて、一晩泊めたら出ていくだろう。

と村長は算段した。


 その夜、村長の家の庭、といってもシラビソとダケカンバが突き立つ林だが、二人の少女は、黒い木立の隙間から眩しいほどに光る星々を眺めた。

「綺麗ね。メイはいつもこんな空を見ていたの。ああ、それにしても足が痛いわ…ふふ。」

クレアは疲れてはいたが心の方は元気なようだ。

「かつら、桂って言うのね、本当の名前。ごめんなさい。立ち聞きしてしまったわ。以前兄と会っていたところを見られたからおあいこね。ほんとの名前を西都風に勝手に変えちゃうなんて、やっぱりどこか変だわ。」


メイが黙っているのはいつものことなので、クレアは話を進めた。

「何故、かばってくれたの?兄は私に筆記の一部を託してよこしたの。とても大切な文章だから気を付けて保存してくれって。大切っていうのは、龍の秘密が書いてあるからなのか、文学的に素晴らしいのか、私にもわからなかったの。文章をそのまま読むと、チューメイと月の龍の恋物語ね。とても美しい悲しい物語だわ。」

 黒々とした林の上に、濃紺の空が明るく透きとおっていた。かつらは重い口を開いた。

「だって、あのままじゃ、クレアもお家も傷つけられると思ったの。わざと語らなかった部分もあるのはほんとよ。シュイピェンさんは、初めて、私の語りを褒めてくれた人だったから…とても嬉しくて。生まれて初めて人に認められた気がしたの。とても美しい物語だと。これほど美しい世界に入って行けたらいいのにな、って、とても悲しそうに仰った。あの…、きっと、クレアと二人、白い牡鹿と牝鹿になって、月の龍と地の龍の住まう狭間の地に、永遠に立ちつくしていたいと願われたのだと思うわ。凛とした大気の中で、静寂に包まれて。」

空を見上げるかつらの眼には、星よりももっと遙かなものが見えているんだろうか、とクレアは一瞬不安になった。

「パオセンをなんとかしなくちゃいけないわ。」

兄の死も疑いの目で見ているクレアに頷くかつらは、少し外れた返事をした。

「パオセンさんの孤独をなんとか癒すことは出来ないかしら…」


 山岳地帯に冒険を求める貴族の若者、高山植物の研究者、または地質学者しか行かない登山専門店がある。パオセンはそこで必要な道具を全部揃えると、龍の背に連なる山岳地帯を縫うように続く鉄道に乗った。二人の少女と、荷物を運ぶ仲間との長旅になる。

 「パオセンさんがわからないわ。夜会の時は、とても素敵な方だと思ったのに。リンがこのことを知ったら、どんなに悲しむかしら。」

というクレアを一瞥して、パオセンは薄く笑った。

「実に名家のお嬢様らしいご意見ですね。それよりも山登りは大丈夫ですか。もうひとりのお嬢さんは慣れていらっしゃると思うが。その白く細い両手足で山道を歩けそうですかね。」

「平気なわけがありませんわ。都会の舗装された道しか歩いたことはございません。それよりも、パオセンさんは大丈夫ですの?」

と強気にやり返したクレアに、

「あんたの兄さんが登ったんだ。私に出来ないことはあるまい。没落したとはいえ、青年貴族の趣味は私も大概手を出している。これ以上ない名案内人のお嬢さんも付いているしね。」

と返事をし、ついでにメイに余計な一言を投げつけた。

「きみ、色気がないね。ほんとに女の子?男の子みたいに見えるよ。」

制服を脱いで、龍の背で着ていた木綿を巻き付けた少女は、買い出しに来ている山奥の少年にも見えた。

「パオセンさんは何故龍の力が欲しいんですか。」

と話を向けてみる。

「きみは、ルオツンで生活して息苦しくならなかったか?」

と強い調子で言ったが、それはメイに対する答えではなく、まるで演説だった。


「同じ制服を着て、同じ宿舎で寝泊まりして、同じ規則を守る。毎日がつまらないものだから、きみみたいな変わり種がやってくると、物珍しげに近づいてきて、自儘な理屈で崇拝したり、蔑んだりする。きみ自身の価値はきみが決めるものだ。それを、女の子達は、言葉で自分を持ち上げて、きみを侮辱する。くだらないと思わないか?出自や財産なんて何代か前の親が、悪事でも働いて手に入れたか、偶然の時流に乗ったか。それだって永遠に続くものではないし、たまたまそこに生まれたのは彼女たちの実力でもない。きみは、『誰もわたし自身を求めない』と叫んだが、きみの価値は、そこいらの良家の子女なんかよりも素晴らしいんだ。自分で気がついていないだけさ。」


 メイはまたしても黙ってしまった。彼の言葉の前半は、確かに自身が感じていたことである。『背の民』であろうが、西都の名家であろうが、わたしたちはただの学生で、勉学がおのれの身になった者は、その価値が高まるのだと思った。だが、人間の価値とは何だろう。知識があればいいのか、高貴な血が流れていればいいのか、ルオツンの卒業証書を持っていれば価値のある人間なのか。少女にはまだよく分からなかった。

 ハイマツと短い夏のクロユリ、それ以外は岩ばかりの荒涼とした山々の景色のなかで、彼女は自由だった。そのときも、誰も彼女自身を求める人はなく、それを悲しいとは思わなかった。学校へ入った途端、何故他人に気持ちが通じないと寂しい、と気がついたのだろう。

 「私とクレアの目にもはっきり見えた、水の蛇はきみを守り、女性の姿できみを抱きしめた。覚えていないんだって?惜しいね。自在に操ることが出来れば強い能力なのに。…あれはチューメイだったのか。チューメイがきみを守っているということは、伯父の血だね。龍の背で、代々の乙女にそれほどの力がなかったのは、血族結婚の繰り返しのせいではないのかな。月の龍はチューメイの魂に惹かれて降りてくるのか。」

問われてもメイには解らない。記憶にないのだ。

 「なんだか全然メイの問いの答えになっていませんわ。私たちの学校生活と龍の力を手に入れることに何の関係もありません。」

とクレアがずれて行きつつある問題を元に戻した。

 山猿少女と違って扱いにくい才女に多少の苦手意識を自覚したが、パオセンは手前勝手な持論を展開した。

「学校を出たって、社会も同じことさ。貴族の大学を出たって、貴族にも階級があり、同じ階級でも長男と次男と妾の子では扱いが違う。本人の資質や実力を見いだす奴がいないんだから、肩書きでも基準にしなきゃ、何も決められやしないんだ。小さな社会で、僻み妬み嫉みの接着剤で足の引っ張り合いをしている。こんな世の中なんかつまらない。壊してやりたくならないか?」

「壊したくありません。私にはとても美しい世界ですもの。醜くい世界だったとしても、月の龍の奇蹟なんていう、大昔の伝説に頼るつもりはないわ。パオセンさんもご自分の力で何か大きなことをなさったらいかが。」


「気の強いお嬢様だな…。さすがルオツン一の才女だ。」

パオセンは口の達者なクレアを一応褒めた。確かに、自分は何の力もない若造だった。このままつまらない世の中でつまらない一生を送るのはゴメンだと思う。それはシュイピェンも同じだったろう。

彼はクレアの家に引き取られるまで、下層の人々の暮らしを知っていた。ある日突然、そういった人々の、小さな努力を何のこだわりもなく受け取り、優雅な生活をしている階層を目の当たりにすれば、疑問を感じることだろう。


 シュイピェンの美しい妹に女を感じたときに向かう情熱は、パオセンから見れば限りなく子供のお遊びだった。本当に生活で精一杯な人々に政治運動に身を任すような暇はない。

 その日をどう暮らしていくか、それしか考えられない。思想家の演説に耳を傾けたりはしないのだ。結局恵まれた坊やの世間知らずな活動に過ぎない。この女はどこまでそれを知っていたのだろう。

狭い貴族社会と女の子ばかりが集まっている学校の中で、ただ、少しでも家に有利な貴族の男から愛されるのを、待っているだけの彼女たち。女を磨いて、男を誘うだけの女…パオセンの母親のように、また、シュイピェンの母親のように。そしてそれを判っていながら、女を品定めする男達のような人間に、クレアはならないのかもしれない。


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