第4話 リンとイボンヌ



 わたしの母が亡くなると、『龍の背』に住む人々だけに引き継がれてきた秘伝を受け継ぐのはわたし一人となってしまった。もちろん他の語り部も存在するが、多くは形骸化し、月の龍の力を備えた詞を正しく継承するべき者はわたしの他にいない。祖母は、西都からやって来た男との間にわたしを生んだ母を、憎んでいたのかもしれない。我が娘であれば、月の龍の流れを汲む者を迎え入れて婚礼を挙げ、村人にかしずかれて生きるべきものを、その誇りをあっさりと捨て、よそ者と……しかも西都の男と恋をしたのだった。

 愛する娘の裏切りは耐え難かったのだろう。祖母は今度こそわたしを誇り高き後継者に育てようとした。けれども、村の人々はわたしに半分しか『龍の背』の血が入っていないことに反感を持っていた。不思議なことに、純粋な『龍の背』の人間ではないのに、『背の鞍』の祠は、わたしの祝詞に強く反応するのだ。月の龍の鳴動を感じる。それは心地よくわたしを包んだ。


 学校では、同級生のリンは、わたしとウェイの仲だけではなく、『背の民』にも興味を示す。彼女は西都の出身なので、別の出身地の人がどういった生活をしているのか知りたいらしい。

 その主な理由は、わたしがクレアには何でも話して、リンには秘密にしている、という思いこみだった。彼女はクレアを崇拝していたのだと口をとがらす。斎河一体に広大な土地を所有する名家の出身で、上品な仕草と知性を兼ね備えたクレアに憧れている生徒は多い。『背の民 地の龍』という本は、わたしがウェイに語った伝承とクレアに話した『背の民』の生活を元に書き上げられた小説で、わたしが登場するのがなんだか面映ゆい。随所に著者であるクレアの豊かな知性がにじみ出ている。


 意地悪でやったことではないけれど、わたしは崇拝者達をさしおいてクレアを独占してしまった感じになった。海抜の高い山岳地帯で、鉄道もガスも使わず自給自足している人々の世界は、西都の暮らしとはかけ離れていて、それだけでも『背の民』は変わった人々と見なされるようだ。学校の授業では、西都からの視点で歴史が教えられ、西都風の国語を学ぶ。『龍の背』のなかでは珍しく読み書きできるので重宝がられたけれども、わたしの知識など学校で教えられる学識と比べると、本当に狭く限られたものだった。

 勉強は好きだ。知らないことを知ってゆくのは楽しい。そう告げると、リンは頬を膨らませて言うのだ。

「勉強なんてなにが面白いのよ。文字や数字を頭の中に入れたって、なんの役にも立たないわ。

 はやく夏期休暇にならないかしら。夜会には彼に付き添って貰うことになってるの。夜会服も新調するしね。あぁ、その前に試験勉強が待っているんだわ。」


 微笑んで頷きながら、わたしはまた祖母のことを思いだしていた。月の龍に捧げる祝詞を覚えるほかに、学問など覚える必要はないというのが祖母の考えだった。「余計な知識で頭の中を一杯にしたって、愚にも付かない男に騙されるのが関の山で、良いことなど何もない。」という祖母に隠れて、街から訪れた客人に貰った本を読んでいた。それが見つかったときには、「西都の血が流れているから、そんなものを読みたがるのだ。」と怒り、亡くなった母のことを嘆き、そして、涙声で「お前だけはあたしを捨てないだろう?」と確認するのだ。『背の鞍』の祠でわたしに龍が降りてくるのを見ると、祖母は驚いて叫んだ。母も祖母も、もっと前の代の乙女にも、わたしほど強く龍の鳴動を受け取る者はいなかったという。


 リンのクレアに対する崇拝は、学校のなかだけの魅力的な遊びなのだが、イボンヌはもっと重大なこととして捉えている。

 多くを占めている良家の子女にちょっとした対抗意識を持っていて、それは今のところ、クレアに向いていた。「今のところ」というのは、そのうち対象がわたしになるかもしれないので、そう書いておくしかないのだ。

 クレアが優雅な大輪の花ならば、わたしは希少価値のある地味な高山植物で、イボンヌにとって、それらはどちらも己への許し難い冒涜であるように思われるようだ。

 もっとも、本人がそう自覚しているわけではない。多分、寂しいからだとわたしは思う。クレアがまた、そんなイボンヌの気持ちを歯牙にもかけない風なので、余計に反感を募らせている。

 そういった細々とした感情の他は穏やかで充実した毎日に、ウェイが彩りを添えた。

 一々真面目に聴き入るわたしをクレアが笑った。

「イボンヌの話を信じちゃ駄目よ。嘘だらけなんだから。しかも嘘を話すたびに自分で本当のことだと信じちゃうの。」

それでも黙ってイボンヌの話を聞き続けた。

「不幸な身の上だと憐れみを受けたくないわ。私は不幸なんかじゃないもの。」

と主張するイボンヌは毅然として見えた。

 他人の同情をはねつけるわりには、「だって私は誰より可哀想なんだもの。」と唇を震わせる日もあった。益々わたしのことは言えない。伝えればイボンヌの気持を傷つける気がした。

 クレアは忠告する。

「彼女はとにかく転入生とみるとお近づきになって、気を引きたいのね。いいこと?気長につき合うと、そのうちくたびれ果てて倒れるわよ。」


 『月の龍』の妻、チューメイは夫を故郷の国に殺され、嘆きのあまり湖に身を投じたという。哀れだけれども、千年物語の主人公として愛され続けるように、イボンヌは、イボンヌは、チューメイの物語を自分の境遇に重ねて語ることがあった。彼女の作った物語の女主人公になるときだけ、聞き手のわたしを愛した。

 わたしはウェイとクレアが、深刻そうに話しているのを見た。夏期休暇も間近な夜のこと、乾燥した空気に慣れた皮膚を湿気が覆い、眠りが浅かったのか人が動く気配に目が開いた。僅かな時間をおいて、簡素な間仕切りの向こうに誰もいないことがわかった。龍の背でひとり暮らしていたときにはわからなかったけれども、人の温もりのある所で眠る習慣が身に付くと、静寂が頬をかすめていくのが気になった。一緒にいるのがクレアであるならなおさら、彼女がそこいるだけでタールの匂いを一瞬遮り、梅の香が漂う気がする。

 寝台にじっとしていると、時が止まったようで不安になり、わたしはこっそり部屋を出た。校舎と寄宿舎の間に並んだ欅の木立のあいだに人影を見つけた。随分離れていたのだが、月明かりでウェイとクレアであることは判る。声は密やかで会話は聴きとれない。波立つ胸の音が二人のいる場所まで届くよう…部屋に戻るまでよく誰にも見つからなかったものである。


 母が亡くなると、『龍の背』に住む人々だけに引き継がれてきた秘伝を受け継ぐのはわたし一人となってしまった。もちろん他の語り部も存在するが、多くは形骸化し、月の龍の力を備えた詞を正しく継承するべき者はわたしの他にいない。祖母は、西都からやって来た男との間にわたしを生んだ母を、憎んでいたのかもしれない。我が娘であれば、月の龍の流れを汲む者を迎え入れて婚礼を挙げ、村人にかしずかれて生きるべきものを、その誇りをあっさりと捨て、よそ者と……しかも西都の男と恋をしたのだった。

 愛する娘の裏切りは耐え難かったのだろう。祖母は今度こそわたしを誇り高き後継者に育てようとした。けれども、村の人々はわたしに半分しか『龍の背』の血が入っていないことに反感を持っていた。不思議なことに、純粋な『龍の背』の人間ではないのに、『背の鞍』の祠は、わたしの祝詞に強く反応するのだ。月の龍の鳴動を感じる。それは心地よくわたしを包んだ。


 リンは、わたしとウェイの仲だけではなく、『背の民』にも興味を示す。彼女は西都の出身なので、別の出身地の人がどういった生活をしているのか知りたいらしい。その主な理由は、わたしがクレアには何でも話して、リンには秘密にしている、という思いこみだった。彼女はクレアを崇拝していたのだと口をとがらす。斎河一体に広大な土地を所有する名家の出身で、上品な仕草と知性を兼ね備えたクレアに憧れている生徒は多い。『背の民 地の龍』という本は、わたしがウェイに語った伝承とクレアに話した『背の民』の生活を元に書き上げられた小説で、わたしが登場するのがなんだか面映ゆい。随所に著者であるクレアの豊かな知性がにじみ出ている。

 意地悪でやったことではないけれど、わたしは崇拝者達をさしおいてクレアを独占してしまった感じになった。海抜の高い山岳地帯で、鉄道もガスも使わず自給自足している人々の世界は、西都の暮らしとはかけ離れていて、それだけでも『背の民』は変わった人々と見なされるようだ。学校の授業では、西都からの視点で歴史が教えられ、西都風の国語を学ぶ。『龍の背』のなかでは珍しく読み書きできるので重宝がられたけれども、わたしの知識など学校で教えられる学識と比べると、本当に狭く限られたものだった。勉強は好きだ。知らないことを知ってゆくのは楽しい。そう告げると、リンは頬を膨らませて言うのだ。

「勉強なんてなにが面白いのよ。文字や数字を頭の中に入れたって、なんの役にも立たないわ。はやく夏期休暇にならないかしら。夜会には彼に付き添って貰うことになってるの。夜会服も新調するしね。あぁ、その前に試験勉強が待っているんだわ。」


 微笑んで頷きながら、わたしはまた祖母のことを思いだしていた。月の龍に捧げる祝詞を覚えるほかに、学問など覚える必要はないというのが祖母の考えだった。「余計な知識で頭の中を一杯にしたって、愚にも付かない男に騙されるのが関の山で、良いことなど何もない。」という祖母に隠れて、街から訪れた客人に貰った本を読んでいた。それが見つかったときには、「西都の血が流れているから、そんなものを読みたがるのだ。」と怒り、亡くなった母のことを嘆き、そして、涙声で「お前だけはあたしを捨てないだろう?」と確認するのだ。『背の鞍』の祠でわたしに龍が降りてくるのを見ると、祖母は驚いて叫んだ。母も祖母も、もっと前の代の乙女にも、わたしほど強く龍の鳴動を受け取る者はいなかったという。


 リンのクレアに対する崇拝は、学校のなかだけの魅力的な遊びなのだが、イボンヌはもっと重大なこととして捉えている。多くを占めている良家の子女にちょっとした対抗意識を持っていて、それは今のところ、クレアに向いていた。「今のところ」というのは、そのうち対象がわたしになるかもしれないので、そう書いておくしかないのだ。クレアが優雅な大輪の花ならば、わたしは希少価値のある地味な高山植物で、イボンヌにとって、それらはどちらも己への許し難い冒涜であるように思われるようだ。もっとも、本人がそう自覚しているわけではない。多分、寂しいからだとわたしは思う。クレアがまた、そんなイボンヌの気持ちを歯牙にもかけない風なので、余計に反感を募らせている。そういった細々とした感情の他は穏やかで充実した毎日に、ウェイが彩りを添えた。

 わたしはウェイとクレアが、深刻そうに話しているのを見た。夏期休暇も間近な夜のこと、乾燥した空気に慣れた皮膚を湿気が覆い、眠りが浅かったのか人が動く気配に目が開いた。僅かな時間をおいて、簡素な間仕切りの向こうに誰もいないことがわかった。龍の背でひとり暮らしていたときにはわからなかったけれども、人の温もりのある所で眠る習慣が身に付くと、静寂が頬をかすめていくのが気になった。一緒にいるのがクレアであるならなおさら、彼女がそこいるだけでタールの匂いを一瞬遮り、梅の香が漂う気がする。

 寝台にじっとしていると、時が止まったようで不安になり、わたしはこっそり部屋を出た。校舎と寄宿舎の間に並んだ欅の木立のあいだに人影を見つけた。随分離れていたのだが、月明かりでユンウェイとクレアであることは判る。声は密やかで会話は聴きとれない。波立つ胸の音が二人のいる場所まで届くよう…部屋に戻るまでよく誰にも見つからなかったものである_____


 次にウェイがわたしを訊ねてきたとき、何も訊くことができなかった。元々、自分から積極的に他人に話し掛ける方ではない。

「もうすぐ休暇だけど、龍の背に帰ってみるかい?」と尋ねる栗茶色の眼差しをさりげなく外すために、視線はタールの塗られた床板の木目を追い、窓硝子に辿り着いた。欅の枝が揺れていた。口述筆記はもうすぐ終わろうとしている。言葉は口にすると意志を持ち、形のないものに名前を付けると、言霊が宿るという。咄嗟に言葉を繕うことが不得手なので、わからないときはいつも沈黙を守る癖がついていた。『背の民』も学校の生徒達も、わたしと距離をとる。それは生まれ育ちの所為ではなく、わたしが己を表現しようとしないからかもしれない。ウェイとクレアは、頑なな心に強引に入り込んでくるところが似ていた。他者から強く求められて嬉しくない者がいるだろうか。

 ウェイはわたしだけに会いに来ていたのに、と思った瞬間、クレアに嫉妬している自分に気がついた。彼とは「いろいろなこと」を話し合ったが、公然と会うことは、ちっとも特別な人ではない。秘密裏にでも会わないではいられない人になりたいと。


 チェン・パオセンは婚約者としてルオツン女子高等学校生徒のリンと面会していた。本来、女子学校では親族以外の人間とは面会禁止、ましてや男子禁制である。が、パオセンは西都の使者という肩書きを持っている。メイが受け継いだ、月の龍の力なるものには、何か秘密が隠されていると西都の幹部は信じていた。学校を通じて彼女からそれを聞きだし、龍の力を手に入れること。これが彼の仕事なのだ。もちろん、リンには内緒の話である。

 「それでね、クレアったら、いつもメイを従えているのよ。あの子も山猿のくせにすました顔をして。」

遠慮のない言葉に、男は肩をすくめると、後援者の娘である女学生の表情を伺いながら、先を促した。

「きみはクレアを崇拝していたんじゃないのか。そんなに辛辣になるなんて。ちょっと見かけたけれど、メイも可愛い女の子じゃないか。さては嫉妬してるな。」

批判めいた返事を貰って、リンはムキになった。

「あら、クレアは今も好きだわ。知的で優雅で、一緒にいると私もみんなから尊敬されるのよ。そりゃ、学園のお姫様の七光りで威張ろうなんて思ったりはしないの。ただ、メイって自分のことを言わないし…何を考えているのかわからなくてコワイいんだもの。」

 西都のなかでも商業の中心地パーロンで育った少女は、生まれも育ちもかけ離れた同級生の気持ちをどうしても掴めない。多くの友達に囲まれていたい、楽しいことが好きなリンは、愛想のない背の民を目障りに思った。それは逆にメイを意識している証でもあるが、それほど深く己の心を探ってみようとしない。パオセンは扱いやすい少女と見なしていた。

 「コワイとはまた随分だな。今日は話題の彼女にも面会者が来ているらしいじゃないか。口伝を筆記しているんだって?研究熱心な学者もいるもんだね。」

 「難しい話は嫌いだわ。ねえ、それよりも次の休暇では夜会服を新調したのよ。付き添ってくれるんでしょう。」

 「愛らしい小鳥の止まり木にして貰えるのなら、喜んで。」

小鳥の後ろにはバーロンで大きく商売をしている後援者が控えている。彼は資金源を手放すつもりはなかった。

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