第2話 クレアとウェイ
風の音で目覚めた。
乾いた空気に舞うのは砂というよりも礫。着物は翻り、膝頭も両腕も硬く、ひび割れている。息がさらわれるほどの突風に雲が流されてゆく。遠くで呼ぶ声が聞こえた気がしたが、空の気まぐれかもしれない。誰だろう、わたしを呼んでいるのは。祖母ではない。祖母は先の月に天に召されたのだから。
わたしたち『龍の背』に住む人々の習慣に従って埋葬された。切り立った岩肌の上に立ち、シラビソの木立を見おろす。急斜面に縋りつくように丸太小屋が点在する。あとはどこまでも森林だ。わたしは暇さえあれば『背の鞍』と言われている岩山に登った。頂から見おろす稜線と、遠くに霞む川は緩やかに曲線を描いて、小さく街が見える。呼び声は突然現実のものとなり、驚いたわたしは崖から足を踏みはずす。
自分の叫び声に驚いて跳ね起きると、そこは寝台の上で、声だと思ったのは窓を打つ音だった。低く唸る叫びは、住んでいた村を思い出させる。身寄りがなくなっても山を下りず、一人で暮らしてきたわたしを連れに来た男は、父の親友だと名乗った。街に住んでいた父は、亡くなる前、その男にわたしの行く末を案じて頼んだのだという。では、父は街の人間だったのか。今さら何故、思い出したのだろう。
母はわたしを産み、そのまま息を引き取った。祖母と二人、麓に下りて農家を手伝ったり、村で水くみに雇われたりしながら、なんとかやってきた。わたしは『龍の背』が好きだった。晴れた日の藍の空も、濃い霧に包まれて髪も着物もびしょぬれになるとき…、一番水が少ない季節の、踏みしめるたびにボロボロと崩れる山肌も。
寄宿学校に来てから月が二回満ち欠けしていた。『龍の背』で眺めた月よりも、霞んで頼りなく見える。冴え冴えとした月が恋しかった。
この話をしてくれたのは、同室のクレアである。彼女は物語を語るとき、まるで自分がその場にいたかのように話す。 わたしはその語りに引き込まれ、知らなかった世界を少しずつ受け入れていった。
ある日のこと、西の王から使節が派遣されてきた。使節と称して現れたが、纏っていたのは戦の気配であった。その日を境に、月の龍の血は地に散り、五つの地に封じられる運命を辿った。
月の龍は勇敢に戦ったが、西の国の奸計にはまって殺されてしまった。西の軍の指導者は、月の龍の武勇を怖れ、甦ることのない様、遺体を切り刻んで葬った。右腕は南の湖の畔に、左腕は東の丘に、右足は西の河に、左足は北の洞穴に、胴はこの地の屋根とも言われた山稜に。そして頭部は西の都に持ち去られたという。それぞれ四肢を埋められた塚を中心に五つの群と、西の国が置いた都ができた。民はそれぞれにかつての長を悼み、弔い、敬った。『龍の背』は月の龍の胴体が祀られているという。
村から出たことのなかったわたしは、国にまつわる伝説を知らなかった。
彼女はわたしが宿舎に到着したのち、一番に私の友人になった。
「まあ、あなた、『龍の背』から来たの?私、『背の民』を初めて見たわ。」
舎監に連れられ、割り当てられた部屋で彼女を紹介されたとき、そう言われた。
わたしは最初にクレアに声を掛けられたとき、驚き、それからたじろいだ。初対面でいきなり『背の民』は珍しいと言う。珍しがられるのは苦手だ。自分がここにいるべきではない生き物であるように感じて身が縮む。同時に、人とは違う特別な者で(実際にはただの人間なのだけれども)あることが少しだけ誇らしい気もするのだ。村の人達がわたしを遠巻きにするように、生徒達が私を見ているなかで、彼女はこだわりない態度で近づき、はっきりとわたしが他の生徒とは違うことを指摘したのだった。
『龍の背』には、ここでは珍しい『背の民』しかいなかった。けれども、やはりわたしは人々から距離を置かれていた。ごくたまに村の外からやってくる旅人と案内の代金を交渉するときなどに、どうしても必要な読み書きがあると、わたしは呼ばれた。水くみの時も、葬式の時も、見えない壁が周囲を覆っていた。
色白のなめらかな肌に似合う栗色の瞳に、村人が時折見せるような卑屈な色はない。他人と上手に話すことに慣れた仕草がわたしを捉えた。村人達に感じたような「だからなんだというの」という反発心は湧いてこなかった。
クレアの生き生きとした瞳は大きく、きびきびと張りのあるしゃべり方をした。
「あの…背の民って?」と、ためらいがちに聞き返した。同世代の女の子と口を利くのは初めてだった。
「『龍の背』に住んでいる人のことよ。街の人間とは生活を隔てて、山の中で暮らしていると聞いていたわ。彼らは決して村を出ないので、謎めいた人々だということになっているのよ。」
わたしの返事を待たずに、舎監が宿舎での決まりを話し始めた。起床時間について、就寝時間について、授業について、休み時間について、集団生活全般について……
祖母と二人で暮らしていたので、同世代の少女が多くいることが新鮮だった。皆同じ形の、同じ色の服を着ていた。今、わたしも制服を着ている。
校舎を歩くとき、窓に映るわたしは他の生徒達と何ら変わらない。だが、気持も他の人達と同じになることはありそうもなかった。『背の民』の中途入学は噂になっていたらしい。廊下を歩いても、講堂に集まったときも、遠巻きに視線を感じて居たたまれない思いをした。
祖母とわたしは『龍の背』でも最も険しい岩山近くに住み、村人とは一歩距離を置いていた。今にして思えば、それは父が街の人間だったことと関係していたのかもしれない。祖母が亡くなっても一人でいることは嫌いではなかった。
身悶えしたまま岩と化した景色も、短い夏に咲く花々も、わたしに力を与え続けた気がする。長く雪に閉ざされる冬の間、祖母は多くの物語を聞かせてくれた。それらは決して忘れてはいけない大切な言霊だった。言葉は心の中を他人に対して上手に伝えるには力が乏しい。しかし言霊を連ねた物語の中には、伝えるべきものを込められる。物語の語り部と聞き手の間だけに芽生えた友情があり真実がある。それらを繰り返し口ずさんだ。
ウェイ、父の親友……が迎えにきたとき、随分迷ったものだ。わたしを包んでくれる場所と離れるのは寂しい。反面、『背の鞍』から望む景色に憧れもあった。いつか嶺を越え、遠く向こうにある景色を目の前にしてみたいと思った。ここには居ない別のわたしになれそうな気がする。では、ここに居るわたしは「本当」ではないのだろうか。
ウェイは、「心配はいらないよ、私に付いてきなさい。」と言った。最初から選ぶ道は決まっているかのように。此処では無いどこか遠くに何かがある、そんな気がして、目の前の世界は限りなく広がっていった。持ち物が無いので身支度は必要なかった。必要なものは全てウェイが用意してくれた。
学校に来てから、多くの人達に囲まれていることで返って孤独になった。ここには真実を分かち合ってくれる物語はない。魔法のように心を満たしてくれた物語はここでは力を失っている。
同室にクレアがいてくれて良かったと思う。彼女はこちらの世界の物語を話してくれた。そして、物怖じしているわたしを少女達の中に引っ張り込んだ。とまどいなから、少しずつその輪の中に溶け込みつつある。
クレアの物語は、わたしが祖母から聞いていた言霊と響き合うようだった。 それは、わたしの中に眠っていた記憶をそっと揺り起こした。
心模様がどうあれ、集団生活に従うコツを理解してきたと思う。教室の中で、宿舎の中での雰囲気を感じ取り、人の話に耳を傾ける。異論があっても口を挟まない。突然、あまりにも違う環境になったため、どうしたいのか自分でもわからないときは、その場に合わせていくことが一番楽なのだ。
山の短い夏に、精一杯働いて得た干し肉や薪木、晩秋、何もかもが枯れ落ちたあとも最後まで残っている、ナナカマドの赤い実を野鳥たちとささやかに分け合い、煮詰めて保存した。それから長い雪の世界が過ぎていくのを、物語を味わいながら、静かに慎ましく過ごしてきた。
寄宿学校ではここに似合った過ごし方をすればいい。
時折、校長室に呼ばれた。部屋にはウェイが待っている。彼は失われた物語を集めている。祖母からわたしへと引き継がれた言霊を研究するのだという。通常、身内の面会日も部屋も定められている。ウェイだけが校長室に通されるので、すぐに噂になった。父の親友と言うには若すぎる、わたしが知っている村の男衆とは全く雰囲気の違う、彼は端正な容貌だった。
村では男女の秘め事は禁忌のように扱われていた。生活用に水をくみ出す仕事に雇われたとき、祀りの下準備に呼ばれたとき、寄り合いのお茶だしを手伝って女達が集まるとき、こっそりと交わされる隠語も忍び笑いも、子供の頃から心に刻まれている。
学校でもそういうところは同じなのだった。違っているのはわたし自身が意味ありげにささやかれる対象になったことだけだ。そのことをわたしに教えてくれたのはリン、同じ学級の生徒だ。
「メイ、いつもあなたに会いに来る男の人は誰。事務室で舎監と話しているのを見たわよ。」
舎監はウェイに良い顔をしなかったようだ。そこへ校長が来て部屋に招いた、一部始終を見ていたらしい。「あのひとはわたしの親代わりよ。」と応えると、訝しげに見つめられた。「親代わりにしては若すぎるわ。」リンは大いに興味を持っている。「いいのよ、隠さなくても。あたしも実家に帰れば、彼が待ってるの。」
ウェイとの仲がどこまで進んでいるのか聞き出そうとするのが可笑しかった。校長室でわたしは語り部、ウェイはそれを筆記する、ただそれだけの間柄だ。祖母から受け継いだ物語を、わたしはウェイに全て渡してしまおうと思っている。
決して文字に記されることのない言の葉の精霊たちを、ひとりで抱えていることは重荷だ。わたしに癒しを求める村人は居ない。母が背の民であっても、外の世界の血を引くものに癒しの言霊は宿らないと思っているのだ。
「きみの背景には学術的価値があるのだ。」とウェイは言った。まだ明らかにされていない歴史が解るかもしれないのだから、口伝を書物にして残すことは、とても大切なのだと。口述筆記を承知したのは、学問のためではない。研究は彼にまかせよう。 わたしと言霊を必要とする人は、誰もいない。でも、ウェイには嫌われたくない。ずっとウェイと同じ「とき」を過ごせるのなら……
でも、それよりは友達ともっと深く付き合えるようになりたい。私は何も知らない、村の背後にそびえる山々の麓では、だれかのことを気にしたり、気を遣うことは無かった。時々は煩わしいと感じるけれども、次の日にはわかってほしい、わかり合いたいとも感じる。わたしはおとうさんがほしいのかも。また祖母のような人を求めているのか、人は他人に自分の欲しい物を求めるけれど、その人なりの生き方を大切にしたい。でも難しい。他人の心をどうして計れようか。
言霊を閉じ込めたその日、わたしの中で何かが静かに目覚めた。
胸の中で朝靄のように漂うにまかせている物語を書物に閉じこめたら、山稜の向こうにある別のわたしになれる気がした。
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