第5話:伝説の始まり

新しい戦術を取り入れてから数日。私たちのバスケ部、正式には「アイドルバスケ部」は、学校の体育館で初めての練習試合に挑んでいた。体育館の扉を開けた瞬間、独特の匂いが鼻腔をくすぐった。古い木の床と、そこに染み込んだ汗と、どこか懐かしいホコリの匂い。その匂いは、私たちがいつも練習しているダンススタジオの、華やかで少し甘い香りのそれとは、まったく違っていた。その違いが、これから始まる戦いの重みを、嫌でも私たちに突きつけてくるようだった。


観客席には、放課後の時間を潰そうと集まった生徒たちが、すでにざわめき始めている。彼らの視線は、バスケのユニフォームに身を包んだ私たちに集中していた。普段、ステージ衣装で見慣れているからか、そのギャップが可笑しいのか、「あ、本当にやるんだ」とか、「お遊びだろ」といった囁き声が、風に乗って耳に届く。


「おいおい、アイドルがバスケだってよ。どうせ、お遊びだろ」


対戦相手である、この地域の高校バスケ部のキャプテン、高橋の声が、体育館の空気を震わせた。彼の視線は、私たちを値踏みするように上から下へ、そして、その瞳の奥には、バスケに対する揺るぎないプライドと、私たちへの軽蔑が混じり合っていた。その言葉が、私たちの心に静かに火をつける。私たちは何も答えなかった。ただ、互いの顔を見合わせ、静かに頷き合った。言葉は不要だった。この試合で、すべてを証明する。その決意が、私たちの間に確かに流れ込んでいた。


試合開始のホイッスルが鳴り響く。


試合は第1クォーターから、私たちのペースで進んだ。内海ミナがドリブルを始めると、その動きはまるでライブのオープニングのようだった。相手選手が重心を右に動かせば、彼女は左へ。左に動かせば、右へ。予測不能な、それでいて滑らかなフットワークは、観客を巻き込むような熱量を帯びていた。それは、何よりもステージで培ってきた、観客の心を掌握する動きだった。相手チームの選手は、その奇妙なリズムに戸惑い、一歩も動けない。


その様子を、観客席で見ていた生徒たちが、こっそりスマホを取り出し、撮影し始めた。SNSには、瞬く間に私たちの動画がアップされていく。


「#アイドルバスケ部すごすぎ」

「嘘でしょ、あのドリブル、マジもんじゃん」

「今日の放課後の体育館、ヤバいことになってるwww」


私たちは、ダンスのフォーメーション移動のように、滑らかな連携でコートを駆け抜ける。諸星カズキが、クールな表情のまま、私の顔の横をかすめるような高速パスを出した。そのパスの強さに、私は一瞬ひるむ。ライブ会場の照明に照らされたステージの上で、完璧なパフォーマンスを目指して何度も繰り返した、あの瞬間的な連携。その感覚が、正確にボールをキャッチする。


「よし!いける!」


私のパスが、内海の手元に吸い込まれる。内海のシュートが、リングを通過し、ネットを揺らす音が響く。それは、私たちの存在を証明する、勝利の音だった。


順調にリードを重ね、第1クォーターは15対4で私たちの優勢。観客席のざわめきは、驚嘆の声へと変わっていた。


だが、第2クォーターに入ると、試合の流れは一変した。相手チームは、もはや私たちを「お遊びのアイドル」とは見ていなかった。彼らは私たちのプレイスタイルを分析し、次第に対応し始めた。特に高橋は、まるで私たちの動きを先読みするかのように、パスコースを塞ぎ、強力なリバウンドで佐藤リナを押し負かした。


「おい、いつまで遊んでるつもりだ!こいつらはアイドルじゃねぇ!バスケの選手だ!ちゃんと対応しろ!」


高橋の叫びが、体育館に響く。それは、私たちへの最大の賛辞だった。だが、その言葉とは裏腹に、私たちの足は次第に重くなっていった。アイドルとしての練習と、バスケの練習。二重生活の代償が、ここにきて現れ始めた。内海はドリブルのリズムを乱され、諸星の高速パスはスティールされる。ガクンと膝にくる疲労感。私は、パスを出そうと手を伸ばすが、指先がピクピクと痙攣する。


「は?パス読まれてんじゃん」「ほら、やっぱりお遊びだよな」というアンチのコメントが、SNSで増え始める。一瞬の優勢が、あっという間に消え去っていく。


第3クォーター。私たちは一度、逆転を許した。

「ああ、もうダメだ……」

「やっぱり、バスケはそんな甘くないよな」

観客席から、絶望的な囁きが聞こえてくる。


その声が、私の思考を暴走させた。

(私たちは、何のためにバスケをやっているんだろう?アイドルとバスケ。どっちも中途半端に終わるんじゃないか?いや、違う。中途半端なんかじゃない。私たちは、私たちにしかできないバスケをやっているんだ。ダンスで培った連携、ステージで鍛えた体幹、そして何より、ファンに最高のパフォーマンスを届けたいという情熱。それらすべてを、バスケにぶつけているんだ!)


「ユイ!大丈夫か!」


内海の叫び声が、私の意識を現実へと引き戻す。私は、内海の方を振り返り、力強く頷いた。


点差が縮まり、ついには同点に追いつかれたとき、先生がタイムアウトを要求した。


ベンチに戻ると、内海は肩で息をし、諸星は冷たいペットボトルで額を冷やしていた。誰もが、疲労の色を隠せないでいた。だが、誰も目を逸らさなかった。互いの瞳に映るのは、勝利への、ただ純粋な意志。


「…行くぞ」


諸星が、静かに言った。その一言に、私たちの心は再び一つになった。


試合は、再び同点。残り時間10秒。


ボールは、相手キャプテンの高橋の手にある。彼は、私たちのゴールに向かってドリブルを始めた。彼の顔には、焦りと、「負けられない」という強い意志が浮かんでいる。


「絶対に、止めろ!」


内海が叫ぶ。私たちは、全力で高橋を追いかける。


高橋がシュートを放つ。ボールがリングに向かって飛んでいく。


その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。私は、ただ、そのボールの軌道を、見つめていた。勝利は、もう手の届かない場所にあるように思えた。


だが、その瞬間、佐藤リナが、その小柄な体からは想像できない跳躍力で、ボールを叩き落とす。彼女の瞳には、普段の内気さはなく、勝利への強い意志が宿っていた。それは、いつもの彼女の、遠慮がちな笑みとは、似ても似つかない、強い、強い眼差しだった。


そのリバウンドボールが、私の手元に渡る。私は、一瞬の間にコート全体を見渡した。脳裏に、ダンスのフォーメーションが浮かぶ。次は、どこに動けばいい?どこにパスを出せば、ゴールに繋がる?


「(パス…!)」


私は、内海にパスを出そうとする。だが、内海は、すでに相手にマークされている。諸星も、私のすぐ隣にいる。私は、再びコートを見渡す。その視界の隅で、ふと、フリーになっている諸星の姿を捉えた。


「カズキ!」


私の声が、体育館に響く。諸星は、一瞬、驚いたような顔をする。だが、すぐにその表情は、いつものクールなそれに戻った。私は、諸星にパスを出した。


諸星は、ボールを受け取ると、リングに向かって走り出す。彼は、勝利というただ一つの目的のために、ただひたすら前へ進む。


そして、諸星が放った最後のシュート。


ボールは、リングに吸い込まれるように入り、ネットを揺らした。


ブザーが鳴り響き、試合は終わった。


結果は、私たちの勝利だった。


試合終了のホイッスルが鳴り響く。


体育館は、一瞬、静寂に包まれた。誰もが、信じられないという表情で、私たちを見ていた。


そして、最初に拍手を送ったのは、相手チームのキャプテン、高橋だった。彼の拍手は、次第に体育館全体へと広がっていき、やがて嵐のようなスタンディングオベーションへと変わった。


高橋は、私たちに近づき、静かに言った。


「すごいな…君たち。本当に、アイドルなのか?」


彼の瞳は、もはや私たちを軽蔑してはいなかった。ただ、純粋な、バスケ選手としての敬意が、そこに宿っていた。


「はい!私たちは、アイドルです。そして、バスケプレイヤーです!」


内海が、笑顔で答えた。


私たちは、バスケを通じて、アイドルとしての新しい輝きを見つけ始めていた。


試合後、私たちは勝利の喜びを分かち合うため、互いに抱き合った。汗と、少し土埃の匂いが混じり合う。その温かさが、私たちの心を震わせる。


スマホを開くと、SNSは私たちの話題で持ちきりだった。


「#伝説の始まり」


そのハッシュタグが、日本のトレンド1位に輝いていた。


私たちは、バスケを通じて、新しい物語の扉を開けたのだ。それは、アイドルとバスケプレイヤー、二つの夢を追いかける、私たちの伝説の始まりだった。

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