ぼくは英語ができない

それにしても、と思う。いったいどうしてぼくはこうも英語ができないのか。いや、これはなんらいやらしい謙遜でもなんでもなく本心を書いている。今年50歳になるぼくは中学生のころに英語教育の手ほどきを受け、そして高校を経て大学は私大の英文科を選んで劣等生なりに英語と向き合ってきた。その後、ちょっとここでは書きづらい事情があって毎日毎日呑んだくれて過ごす時期があって、40の歳に断酒して体力・気力が回復してきたこととメンターの薦めで英語をやり直そうと決意していままで自分なりに英語と接し直す日々を過ごしてきたのだった。そんなふうに考えていくと、留学したりしたわけではないとはいえ英語と向き合った時間もそう短くない。でも、それでも英語はいつも悩まされる。なんでだろうなあ、と首をかしげる。


外部要因に話を持っていくこともできるだろう。日本語の文法構造と英語はかなりかけ離れているというし、日本では日本語ができれば英語が話せなくてもとくにそんなに致命的な不自由を感じず生きていける。日常会話はもちろん日本語で事足りる。一部の会社や学校が英語を公用語として使うこころみを行っているとはいえ、それはまだそう支配的なわけではない。そんな状況でわざわざ難解な英語を学ぼうと考えるモチベーション(動機づけ)を保ちつづけようとするのは実はけっこうむずかしいというか、無理ゲーなのではないかとまで思ってしまう。すくなくとも、ぼくはなんら根気強くもなければ生真面目でもないのでそんな無理ゲーはスタコラサッサと逃げてしまう人間である。


そして、これがかんじんなのだけれどそうした「日本語で事足りる」環境をぼくはいたずらに唾棄・放棄してしまっていいとも思わない。過去の文献を紐解けば、「英語公用語論」(日本の公用語を英語にしましょう、というエリート的・テクノクラート的な提案)が唱えられたことも何度かあったと聞く。もちろん現実的にどだい無理な話であることは言を俟たない。あくまでぼくのとぼしい知見のおよぶ限りで例を出すが、水村美苗『日本語が亡びるとき』や山口仲美『日本語が消滅する』といった書物が教えるように日本語の豊かさ・可能性をもっと誇りに思ってもいいはずだ。


日本語ができれば日本では苦労しない。そして、それをことさらに苦に考えたり劣等感を持ったりする必要なんてない……ならば、ぼくが英語ができなくてあたりまえという話にもなってくる。だって、ここには英語ができなければならないと感じてしまう余地がないから。でも、そこから「個々人」が「いや、そうはいっても英語を読めるように・話せるようになりたい」「英語で自己表現したい」と感じるならもちろんそれはいいことだ(いいに決まっている)。ただ、それが嵩じて「国民」がおしなべて英語を話す国になることをめざすなら、そんなディストピアには住みたくないなあと思う。


なんだか話がややこしくなってしまった。本筋に戻すならば、日本で日本語を用いて自由に暮らせる環境のありがたみを「英語の世紀」(水村美苗)になったからといって手放す必要なんてないということに尽きる。ならば、なぜぼくが英語を勉強し続けるのかという話になってくる。いまは翻訳アプリ・ソフトウェアがさかんに開発されていて、まだまだ精度に問題はあるかもしれないけれどかくじつに向上していると聞く。そんな中でもぼくが英語を学ぶのは、たぶんそれは英語が織りなす新たにシステマティックな枠組みの中に入っていっていったん自分の考え方を分解・解体したいから、といった高尚な(?)目的なんだろうか、と思う。


英語を学べば世界が広がる……と、いちがいに誇大宣伝をしたいとは思わない。英語ができても(ぼくはけっきょく「下から数えたほうが早い」次元でチャプチャプ英語とたわむれているに過ぎないので)いざ主義・主張と向き合ってみればなんだか日本人向けにいかがわしい・閉鎖的なゴタクを並べている人なんてゴマンといる。日本語ができればいい、とぼくは考える。日本語の枠組みの中でだって論理的に考察したりそれこそ「世界に通用する」仕事をこなすこともできる。それでもなお、困難をくぐり抜けて英語をやるということはそこになんらかの自発的な動機づけやみずからに与える報酬がないと無理だと思うのだ。では、ぼくはどうそうした動機を保ってきたのか……動機なんてあるだろうか。次のエッセイで(覚えていれば)そうしたことを記せればと思う。

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