第10話
三日目の昼は雨が降ってそのまま、
ボス以外はお休みになった。
雲は鉛色に重く垂れ下がり、海面に映る光は失われ、
雨粒が一滴、また一滴と屋根のトタンを叩き始める。
ポツンという鈍い金属音。ピンとたまに高い音程を奏でる。
音が連続すると、やがて太鼓の皮を無数の小さな棒で叩くような、
激しい打撃音に変化する。
「これはコンゴあたりの音色だな」
と勇太が分かったようなことを言った(?)
雲の縁は綿をほぐしたように繊維質で、
風に引き裂かれては再び結合する様子が、
スローモーションの映像のように眼前で展開される、
自然のダイナミズム。
ボスの肩は骨格標本を思わせるほど角張って、
長年の重労働で盛り上がった僧帽筋が、
白いシャツの下でくっきりと浮き出ている。
海の家のカウンターに向かい、
湿った空気の中でも黙々と帳簿を捲っている。
帳簿をめくる指先の動きは職人的で、
紙の質感を確かめるように親指と人差し指で挟み、
頁の角を正確に捉えてパラリと音を立てる。
その横顔に刻まれた皺は、笑い皺、眉間の縦皺、目尻の烏の足跡、
すべてが異なる深さと角度で刻まれ、
まるで地形図の等高線のように人生の軌跡を物語っている。
俺もこんな風になれるのかな、と少し思った。
マコちゃんの細い指が俺の袖を軽く引く。
指は象牙のように白く、爪は薄桃色に透き通っている。
彼女の瞳は雨に濡れた黒曜石のように透明で、
虹彩には茶色と緑の細かい斑点が星座のように散らばっている。
瞳孔の縁は完璧な円を描き、
光の変化に応じて微細に拡張と収縮を繰り返す。
舞ちゃんは黄色いレインコートに身を包み、
表面には雨粒が水銀のように丸く盛り上がって留まっている。
ガラコ(?)
フードから覗く顔は桃のように柔らかく紅潮し、
彼女の睫毛は一本一本が繊細で、雨の湿気で軽く湾曲し、
瞬きのたびに小さな影を頬に落とす。
三人で図書館へ向かう道中、
舗装道路は雨に洗われて本来の黒い色を取り戻している。
普段は埃で灰色に見えるその表面に、雨粒が着地する瞬間、
直径数センチの完璧な円形の波紋が生まれ、十分の一秒ほどで消失する。
その無数の波紋は同心円の幾何学模様を描き、
重なり合って複雑な干渉縞を作り出す。
アスファルトに跳ね返る雨粒が、
無数の小さな爆発を起こし、
サンダルから伝わる冷たさが足の裏を刺激する。
図書館の重厚な扉を押し開けると、
入り口には雨滴を防ぐマットが敷かれ、
傘立てには十本ほどの傘が並んでいた。
蔵書は三万冊ほどの、
古い紙とインクの匂いが鼻腔を満たす。
木製の床は何十年もの足音を吸収し、
木繊維が圧縮される際の微細な破断音である、
ギシ、ミシという音程の異なる音階を奏でる。
床板の継ぎ目には数十年分の埃が蓄積し、
細い黒い線となっている。
マコちゃんと舞ちゃんが児童書コーナーの絨毯に座り込む。
マコちゃんと舞ちゃんが座り込む様子は、絵になる。
マコちゃんの膝は直角に曲げられ、足首は品良く重ねられ、
舞ちゃんは体操座りで、小さな手が膝を抱え込み、
顎を膝頭に乗せている。
その姿勢は猫が毛玉になって眠る時のような丸みを帯びている。
絨毯の表面には無数の小さな繊維屑や髪の毛、
衣服から落ちた糸くずが絡まり、
顕微鏡的な世界の複雑な生態系を形成している。
舞ちゃんの小さな手が絵本を選び、
その表紙には色とりどりのクレヨンで描かれた動物達が、
微笑んでいる。
絵本を選ぶ舞ちゃんの手の動きは慎重で、
まず背表紙に描かれた絵を指先で軽く撫で、
次に本を引き出して表紙全体を眺める。
挨拶しているみたいだ。
「ごほんきかせて」と言われた俺は絵本を読み聞かせた。
『おおきなかぶ』だった。
表紙には鮮やかな緑色の葉を茂らせた巨大なカブが描かれている。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
俺が声に出して読むと、舞ちゃんは身を乗り出して一緒に掛け声をかける。
絵本のページをめくる音はパラリという軽やかな音で、
紙の繊維が空気を切る微かな風切り音を伴う。
マコちゃんの長い睫毛が本の頁に落とす繊細な影、
舞ちゃんの口元に浮かぶ微笑みは、口角が二ミリほど上がり、
上唇がわずかに反り返って白い歯の先端を覗かせる。
いつもは仕事をしている時間だと思うと、
一体何をしているんだろうと首を傾げながらも、
まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、
俺とマコちゃんと舞ちゃんはいて、
その優しい時間がゆっくりと蜂蜜のように贅沢に流れていく。
その間も、雨音は図書館の屋根を叩き続けていた。
時折、雷鳴が遠くで響き、
窓ガラスを伝う雨粒が小さな川を作って流れ落ちていく。
後で聞いたけど勇太は駅へと行きナンパしに行っていたらしいが、
誰もいなかったようだった。
マコちゃんが「こいつ、死ねばいいのに」と言った(?)
夜八時頃、雨が嘘のように止んだ。
洗濯したてのシーツのように清浄で、
空気中の塵や花粉が雨によって洗い流され、
酸素濃度が微妙に上昇している。
アスファルトからは蒸気が立ち上がり、
月光が水溜まりに反射して、まるで地面に散らばった鏡のようだ。
Tシャツの汗の染みは塩分を含んだ水分が綿繊維に浸透し、
その部分だけ色が濃くなって地図のような模様を作っている
そして何故か勇太と砂浜に向かう。
砂は夜の冷気で冷たく、
サンダルの足指の間に侵入してくる細かな粒子が心地よい。
足指の間に侵入する細かな粒子は石英と貝殻の破片で構成され、
一粒一粒は顕微鏡で見れば美しい結晶構造や螺旋模様を持ち、
波の作用で角が削られて滑らかな球形に近づいている。
足指の間の皮膚は機械感覚受容体が豊富で、
砂粒の形状、大きさ、温度、湿度を詳細に分析して脳に報告する。
蟻の如くになりながら通り過ぎ、
蟹の如くになりながら通り過ぎ。
勇太と何故か一緒に砂浜へ出た、
波打ち際では小さなスナガニが慌ただしく横歩きしている。
月は雲間から顔を覗かせ、海面を銀色に染めていた。
「あれがカシオペア座、こっちがアンドロメダ座」
と、勇太が全然見当違いの方をさしながら言った(?)
天の川がはっきりと見え、時折流れ星が空を横切る。
「宇宙って、本当に広いんだなあ」
そして勇太がおもむろ、
「青春のバカヤロー」って叫んだ(?)
夜の静寂の中では二キロ先まで届く可能性があるような、大声。
塩化ナトリウムの微細な結晶、海藻由来の有機化合物、
プランクトンの代謝産物、魚類の分泌物などが含まれている、
海風と、衣服のはためき。
風景を捲る風がひらひらと頬にあたる。
四日目の夜は、
(ミサキさんに教えてもらったらしい、
それは思わせぶりで、どこか神秘的な響きを含んで)
マコちゃんと森の奥へ蛍を二人で見に行った。
足音は落ち葉を踏む度にさくさくと乾いた音を立て、
枝を避ける腕の動きは舞踊のように優雅。
ボスや勇太は辞退し、舞ちゃんも見に行きたかったが、
―――テレビの心霊番組がやるので、辞退した(?)
舞ちゃんは怖い話が好きらしい。
恐怖という原始的感情に対する好奇心の表れ。
扁桃体が恐怖刺激を処理する際に放出されるアドレナリンが、
快感として再解釈される心理機制。
風呂敷の端をつまみあげるように、
血が出てくる怖い話は子供騙しと仰る、天才だ、
俺もそう思った(?)
幽霊なんか十中八九いない、柳か猫、ビニール袋、
時々何か全然違うやつ(?)
使用しているのはパナソニック製のLED懐中電灯、
電池寿命約十時間、照射距離五〇メートル。道幅は約一.二メートル、
両側にはイタドリやクズが茂っている。
虫の音が四方八方から聞こえ、
スズムシやコオロギの美しい音色が夜の静寂を彩っている。
道中、蛇が出てきた。
鱗片は角質化した表皮細胞の集合体。
体長約六〇センチ、胴回り三センチメートル程度の小型の蛇。
それは褐色と黒の縞模様を持つ細身の体躯で、
舌を出し入れしながらゆらりと身をくねらせる。
舌の出し入れ動作は化学感覚器官による空気中の化学物質の採取行為で、
鋤鼻器官に情報を伝達する。
身体のくねらせ運動は脊椎動物の基本的移動機制で、
体軸筋の波状収縮によって推進力を生成する、
―――というのは、動画で教えてもらいたい世代(?)
普通なら驚くべき場面だが、マコちゃんは何の躊躇もなく蛇の胴体を掴み、
手の形状は、手根骨と中手骨のアーチ構造を活用した安全な把持で、
蛇の運動を制限しつつ損傷を与えない絶妙な圧力配分。
そして藪への投擲動作は肩関節の外転、肘関節の伸展、
手関節の尺屈が協調した投球動作。
ようは、藪の中へ放り投げた(?)
その動作は農夫が雑草を抜くように自然で、
情景描写が、感情の延長線上にある。
「ヒバカリ」と言った。
「毒ないの?」
「ないよ」
この情報交換は生存に関わる重要な意思疎通で、
質問者の不安レベルを即座に低下させる安全保証の機能を持つ。
「よくシマヘビと間違える子がいるけど、
よく見ると首のところに白い斑点があるでしょ?」
まず、そんなところを見ない。
頭部が三角だったか、丸いかすら見ていない。
コルセットきつく締めあげた都会の男を、
ビビらせる(?)
蛇に噛まれたというだけで、破傷風、
え、なにそれ怖いという世代(?)
自然との距離感、生き物への恐怖心、
それらすべてが露呈する瞬間。
渓流が糸のように細く見える。月光に照らされた水面がきらきらと光り、
流れる音が静寂を破る。
枝は頼りない骸骨のように白く見え、
風に揺れるたびにかたかたと骨が触れ合うような音を立てる。
蛍が現れた瞬間、世界が変わった。
ルシフェリンとルシフェラーゼの化学反応によって生成される光は、
波長約五百六十ナノメートルの黄緑色で、
アデノシン三燐酸をエネルギー源とする生化学反応。
光の強度は約零点一ルーメン、
それらは黄金の綿毛のように浮遊し、
暗闇の中で点滅する小さな星座を作り出す。
これは人間の脳によるもので、
点状光源の配列からパターンを見出そうとする傾向があり、
これは星座効果と呼ばれる認知現象だ。
暗闇の中での点滅パターンは各個体固有の信号で、
種の識別と雌雄認識に使用される生物学的意思疎通・・・・・・。
「ゲンジボタルのオスは飛びながら光るけど、
メスは草の上で光るの」
マコちゃんが小声で解説してくれる。
きらきら光る静まりかけた波の上のような、
豊かで幻想的な心の内的風景が展開される。
光の点が描く軌跡は詩のように美しく、
見る者の魂を揺さぶる。
二十分ほどマコちゃんと駄弁りながら堪能する。
彼女の声は蛍の光のように柔らかく、
時折聞こえる笑い声が森の静寂に溶け込んでいく。
戻る際、勇太が設置していたテントに遭遇。
彼は我慢大会を敢行するように、
どちゃくそ汗を掻きながら、夏って最高だなと言った。
本当に最高だな、素直になれよ(?)
クーラーボックスから取り出したアイスを分配する。
アイスは冷たく甘く、夏の夜の咽喉を潤す。
「ソロキャンプしようと思っていたら、
これはいいキャンプ仲間を見つけてしまった」
とか、わけのわからないことをほざいていた(?)
やらないぞ。
そこを何とか。
嫌よ。
あと、キャンプ道具はボスに借りていたので、
ソロキャンプ云々が既に嘘だった。
マコちゃんは最初から気付いていた気がする。
最終的に、キャンプファイヤーが原因で、消防車が来た。
コナラとクヌギ。着火剤を使って火を起こすと、
炎は最初オレンジ色だったが、やがて青白い炎に変わっていく。
燃焼温度は約八〇〇度、周辺の気温を五度ほど上昇させる。
ちゃんと鎮火用の水なども準備していたが、
いかんせん、森で煙が上がると山火事かとなる。
「こいつです」とマコちゃんに名指しされた勇太は、
バツの悪そうな顔をしながら謝っていた。
ごみ~ん、と言ったら俺もこの海の家へ来た当初のことを思い出し、
飛び蹴りしようかと思ったことだろう(?)
五日目の朝には、みんなで砂浜のゴミ拾いをした。
一週間に一度、するらしいが、
ボスが海の家組合長ということもあって、
(その時、初めて知った、)
気になったら随時ゴミ拾いするようにしているらしい。
「海は皆のものだからな」
ボスがそう言いながら、プラスチック製のゴミ袋を配った。
地域共同体におけるリーダーシップの発露。
ボスの責任感の強さ、地域への愛着がそこに表れている。
ごみ袋の材質はポリエチレンフィルムで、
厚み約零点零三ミリメートルの高分子膜が風による膨張時に、
約十リットルの空気容積を包含する。
風速三メートル毎秒の微風でも表面積の大きさにより顕著な膨張効果を示し、
収集したペットボトルや、タバコの吸い殻、
流木や海藻なども、ガサガサと音を立てる。
あと、もちろん、
勇太はシティハンター冴羽遼のように簀巻きにされた。
どうしてという素朴な問いが胎生するが、
女の子に声をかけようと、
いきなりゴミ拾いをおっぽり出そうとしたからだ。
女性は二十代前半と思われ、
白いビキニ姿でビーチパラソルの下で日光浴をしていた。
ボスの厳格な表情、眉間に寄った皺、そして低く響く声。
ボスが、
「焼きをきわめてみるかではなく、
焼かれてみるか」と言った。
勇太は「どうして」と抗議したが、
不思議と、誰も彼の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
「ガソリンはないけど、
よく燃えるオイルはある(?)」
ガソリンの引火点約摂氏マイナス四十度に対し、
食用油の引火点約摂氏三百度という相違。
実際の燃焼効率はガソリンの方が高いが、
持続燃焼性では油脂類が優位。
鹿馬海岸の聖火点灯式は、
―――行われなかった(?)
その夜は、みんなで昨年新しく出来たコンビニまで、
アイスを買いに行く。
海岸から約三〇〇メートルの国道沿い。
夜を歩く五人の姿は、
歌舞伎町のホストのそぞろ歩きをふと思い出させるような、
妙にきらびやかな雰囲気があった。
舞ちゃんはオーナーの娘という設定で(?)
コンビニの白い蛍光灯が夜道を照らし、
自動ドアの開閉音が機械的に響く。
店内の冷気が肌を刺し、
冷凍庫から立ち上る白い蒸気が幻想的。
ガリガリ君、しろくま、そして舞ちゃんはPAPIKOと決めている。
チョコレート味のアイスクリームで、容器がユニークな三角錐型。
俺はいつもチョコモナカジャンボ。
咀嚼時のサクッという破断音とクリーミーな融解感。
おにいちゃんとおねだりされて、舞ちゃんと半分ずつ交換し、
不思議なことに二つの味だけでなく、
風味輪郭の拡張で単独では得られない新奇な感覚体験を創出し、
ファミレスでジュースを混ぜるように、
三つの味が試せた(?)
それ何ていうのか知ってるとマコちゃんが笑いながら言った。
「フレイヴァー(?)」
それから庭で線香花火をした。
ボスは子供達の思い出づくりに熱心だ。
ちなみにそこに俺や勇太は入っていないのだが、
ボスは大きな男だった、
曲芸花火をさせようとした(?)
それ何ていうのか知ってるとマコちゃんが笑いながら言った。
「ファイヤー(?)」
小さな火花が散り、儚く美しい光の軌跡を描く。
それは金属粉末の燃焼反応で、
鉄粉、炭粉、硫黄の混合物が約八〇〇度で燃焼し、
火花は溶融した金属粒子の飛散。
パチパチという音は小爆発による衝撃波で、
燃焼ガスの急膨張による圧力波が空気中を伝播する音響現象。
パチパチという音、硫黄の匂い、夜風に揺れる小さな炎。
ボスは缶ビールを片手に満足げに微笑んでいる。
ボスが缶ビールを飲みながら、
「夏ってのは、こうでなくっちゃな」と言った。
感慨深いなと思っていたら、
ボスが、疲れてビール片手に寝ていた。
その、ものうくこころよい寝返りの刹那、
舞ちゃんがビールを掴み、それから嗅ぎ、
「臭い」と仰った、
ほろ苦いホログラフィーのような大人の世界への扉。
はらほれひれはらほれははらふるひろ、
早口で三秒以内に言って(?)
舞ちゃんの無邪気な反応に、
大人の世界への憧憬と拒絶が同居しているのを感じた。
マコちゃんの聖像のようなうす暗い姿がかすかに動く、
心臓のひだを暖めて、
大動脈、小動脈、血管の隅々まで、
宇宙の生命が忍び寄って―――くる・・。
間抜けな音の後に開花の音である破裂音が響き、
海の中に伸びている突堤の先に立っているみたいだった。
誰も知らない遠い国。
天変地異も、流れ星も、機関銃で狙い撃ちされることもなかった、
―――心臓の鼓動以外は。
六日目の夕方は、舞ちゃんのお願いで公園へブランコしに行った。
ボスとマコちゃんの了解で、海の家の終了業務はパスされたが、
勇太は俺だってブランコしたいもんとほざいていた。
子供でも、子供に帰りたいということがある(?)
「は?」というマコちゃんの眉間の皺に寄った声を聞くと、
年齢退行現象も、童心回帰欲求も、
不思議と、ピタッと、大人に帰れた(?)
公園にはブランコ、滑り台、砂場などの遊具が設置されている。
ブランコは鋼鉄製のチェーンで吊られた座面で、
高さ約二.五メートルの支柱に取り付けられている。
チェーンの長さは約二メートル、
座面は樹脂製で幅三〇センチメートル。舞ちゃんが勢いよく漕ぐと、
振り子の原理で前後約六〇度の角度まで振れる。
そして・・・・・・。
「おにいちゃんは、どうしてわたしのおにいちゃんじゃないの?」
と、舞ちゃんと一緒に哲学をした(?)
「血がつながってないからだよ」
と答えると、舞ちゃんは首を振る。
「でも、わたしはおにいちゃんをおにいちゃんだと思ってる。
おにいちゃんもわたしを、いもうとみたいだとおもってる、
だったら、わたしたちはきょうだい・・・・・」
すさまじい破壊力だったことは宣言しておく。
その純粋な論理に、俺は言葉を失った。
この哲学的問いは親族関係の社会的構築性への疑問で、
生物学的関係と社会的関係の区別に関する児童の認知発達を示す。
血縁関係の不在と感情的親近感の存在という矛盾への純粋な疑問。
これを勇太に言われてみたと仮定しながら、
本当にどうしてなんだろうねとすごく言いたくなる(?)
真面目な話、人間の感情や愛情に血縁は必ずしも必要ない。
それは毒親、親ガチャという言葉を持ち出すまでもなく、
養子縁組や里親制度など、法的・社会的な家族関係もあるからだ。
俺は舞ちゃんのことを妹のように可愛いと想い、
舞ちゃんは俺のことをお兄ちゃんだと言う。
いよいよ、ケンジミヤザワの永訣の朝が思い出され、
(けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ)だ、
そしてそうすると、不思議なことに兄妹のような間柄になった。
ただロリコンという疑惑だけは残されており、
それだけは哲学ではなく、嗜好の問題として処理された、
頭を撫でながら、ブランコを押してやりながら、
兄らしいことをしながらも、修羅なのだ(?)
夜にはマコちゃんに誘われて一緒に鍾乳洞を見に行った。
黒い塊が導火線を這うようにまっしぐらに迫り上がり、
動揺が、電波のように移っていく。
日向くさい汗と夏の樹の皮の香りが擦れ違って―――ゆく・・。
鹿馬洞窟は石灰岩質の地層に形成された天然の洞穴で、
全長約二〇〇メートル、最深部は地下十五メートル。
近々料金を取ろうとしているようだが、
いまは募金箱を設置するのにとどめている。
内部の温度は年間を通じて摂氏十五度前後に保たれ、
鍾乳洞はひんやりと涼しく、懐中電灯の光が石灰岩の造形を照らし出す。
石灰岩造形は数万年の水による化学的侵食の結果で、
炭酸カルシウムの溶解と再結晶化による洞窟生成物形成。
鍾乳石と石筍の成長速度は年間約零点一ミリメートルという極めて緩慢な過程。
蝙蝠が天井に逆さまにぶら下がり、光に驚いて羽ばたく音が洞窟に反響する。
「コウモリね」
マコちゃンが説明する。
「キクガシラコウモリとアブラコウモリが住んでるの。
超音波で獲物の位置を把握する、自然界のレーダーシステムよ」
そうなんだーと言いながら、
そうなんだ、そうなんだ、そうなんだ―――何だか・・。
「(何だかデートみたいだな・・・・・・)」と思ったけど、
それを口にする勇気はヘタレの俺にはなかった。
、、、
―――遭難だ。
帰ると縁側でボスと一緒に、
シャボン玉をしていた舞ちゃんに、
(勇太が何故かバットの素振りをしていた、
本当に何故かバットの素振りをしていた、
「ボスにモテたかったら素振りしろ」
とでも言われたのかなと推測)
「かんかんだら、いた?」と聞かれた。
姦姦蛇螺。
青酸い滋味が漿液となり嚥下される刹那の、
狂気と恐怖―――混沌と破壊―――(?)
「かんかんだら、はいなかったけど、
八尺様はいたよ(?)」
マコちゃんが不思議そうな顔をしていたので、
懐中電灯を点けて浮かびあげると、
影が長く伸び―――る・・。
七日目は台風の影響で雨が降って、家でトランプをしたりした、
五十二枚のカードによる組み合わせ計算と対戦相手行動の予測。
ニュースでは台風七号が接近し、鹿馬町も強風域に入った。
中心気圧九八〇ヘクトパスカル、最大風速二五メートル、
最大瞬間風速三五メートル。気象庁は暴風警報を発令し、
住民に外出の自粛を呼びかけていた。
ゲームは大富豪、別名大貧民。階級制のカードゲームで、
最初にカードを出し切った人が大富豪で、
最後まで残った人が大貧民となる。
よくあるように、マコちゃんが大富豪となり、
勇太が大貧民となった。
いつも美味しいところを持っていってしまう、男である(?)
それから、みんなで映画を観たりした。
そうめんという夏の定番料理と一緒に。
そうめん、を。
そうめん、だ。
けして美味しいとは思わないのに、夏はそうめんを食べさせる。
冷やしそうめん。薬味にミョウガ、ネギ、シソの葉。
つけ汁には地元で取れた小魚で出汁を取ったものを使う。
不思議と夏になると食べたくなる、
日本人のDNAというものがあるのだろう―――か・・。
それから何処に隠していたのか、
ボスはスナック菓子などを沢山取り出してきた、
こういうところが、ボスと慕っている由縁である。
そんな風に、ドラえもんの四次元ポケットは、
―――台所の戸棚にあった(?)
最終的に映画は『となりのトトロ』だった。
これまで沢山の映画を観てきて色々浮気してきた、
ハリウッドエンターテイメント、文学映画、SF、ラブコメ、
けれど、子供や大人にも必要な成分は、
その映画一本あればすべてが水戸黄門していた(?)
トトロのお腹へメイちゃんがダイブするシーンで、
不思議と大型犬を飼いたい衝動に駆られた、
家が毛だらけになっても、顔を舐められ倒されても、
それは不思議と止められない妄想(?)
八日目は、
(やっぱりミサキさんが提案したらしいが、)
地元のおばあちゃんと漬物づくりをした。
海の家の常連客である地元のおばあちゃんが、
マコちゃんに漬物の作り方を教える。
身長一四八センチメートル、白髪を頭頂部で小さく結んでいる。
着物は紺地に小花柄の木綿、帯は博多織。
そして齢七四歳。
世代間文化伝達の実践で、伝統技能の継承過程。
米糠に塩、昆布、唐辛子、茄子の古漬けなどを混ぜて発酵させたもの。
糠床の管理には乳酸菌が重要で、pH値4.0前後の酸性環境を保つ必要がある。
毎日手でかき混ぜることで酸素を供給し、
好気性細菌の活動を促進する。
「この糠床はね、お母さんから受け継いだもので、
もう六十年になるのよ」
フサエおばあちゃんの手は糠にまみれながらも、
慣れた動作で野菜を埋めていく。
キュウリ、ナス、カブ、ニンジン。
それぞれ塩分濃度や漬け時間が異なる。
とはいえ、糠床なんて面倒臭いこと、この上ないが、
最初に味見として振舞われた糠漬けされた胡瓜で、
マコちゃんも俺もコロッとした。
「これを毎日食べたいと思うでしょ?」
という見透かした言い方に、コクコク肯いた。
糠漬けの風味複雑性はアミノ酸と有機酸の複合的作用で、
蛋白質分解と炭水化物発酵の生化学的反応が旨味を生成する。
糠漬けはその面倒臭さを明らかに、
オーバーキルしていた(?)
フサエおばあちゃんの皺だらけの手が糠を混ぜる動作は、
職人的で美しい。
釘を入れるとかいう話も聞いた。
俺も手伝いながら、昔話を聞く。
「この海はね、戦争の時も静かだったんだよ」
と語るおばあちゃんの眼に、どんな光景が映っていたのだろう。
戦時中も変わらず打ち寄せていた波の音、
配給制で食べ物が不足していた頃の記憶、
出征した若者たちを見送った浜辺の風景。
鹿馬海岸は軍事的な要衝ではなかったため、
空襲を受けることもなく平穏だった。
当時は履物も草鞋が主流で、ゴム底の靴は贅沢品だった。
それから、やたらめっぽう古い、
超年代物のミシンも見せてもらった。
現在でも動作するが、部品の調達は困難になっている。
そしてそれが、
『となりのトトロ』だった(?)
ベッドタウンならぬベッドハウスへ戻ると、
舞ちゃんが夏休みの宿題をしていた。
自由研究が『かぶとむしの観察』だと初めて知った。
観察記録には詳細なデータが記載されていた。
ゼリー十グラムを食べる、主に夜行性で午後七時頃から活発化、
摂氏25度以上で活動的になるなど、
九歳の女の子とは思えない科学的なアプローチ満載だったが、
大人が入れ知恵しているのではないかと疑われそうだった。
でも、舞ちゃんが賢いというのは正直みんなよく分かっていた。
俺は夏休みの宿題を終わらせ、
(すぐ終わらせる派)
マコちゃんは半分ほど残っているが毎日少しずつやり、
(コツコツ派)
そして勇太は宿題って美味しいのと言っていた。
手さえつけていなかった、
舞台の暗転みたいな一瞬の急激な眠りのあと俺は思った。
常識に囚われるな。
―――きっとそうしていると食べられるのだろう(?)
夕陽が海面を琥珀色に染める午後五時二十三分頃、
舞ちゃんの小さな手、指の長さは大人の三分の二ほど、
第二関節に小さな絆創膏が貼られているが、
B4サイズの画用紙の表面を撫でていた。
紙の繊維が指先の皮脂を微かに吸い取り、ザラリとした感触を返す。
その指先には青い絵の具が付着し、爪の隙間には、
深緑色の絵の具が三日月状に入り込んで、
まるで小さな海藻が挟まったかのように見える。
キャンバスを撫でるたび、
ウルトラマリンとチタニウムホワイトが織りなす青の階調が生まれていく。
九日目の夕方、舞ちゃんと絵を描いた。
舞ちゃんが「海の絵を描きたい」と言い出したその瞬間、
海の家は営業時間を終え、即席のアトリエと化した。
彼女の瞳には、水平線の向こうへの憧憬が宿っていた。
「いいじゃないか。芸術は魂の解放だ」
と勇太が大仰な身振りで賛同する。
そしてイーゼルが五台、テラスの手すりに沿って並べられた。
(何であるの?)
海風でキャンバスが微かに揺れるたび、
まだ何も描かれていない白い画面が夕陽を反射して金色に輝く。
マコちゃんが用意した水彩絵具セットは、
ウィンザー&ニュートン社製の透明水彩三六色セット。
小さなチューブから絞り出された、
カドミウムレッド、イエローオーカー、プルシアンブルーが、
白いパレットの上で虹のスペクトラムを描いている。
(というか、何であるの?)
チームワーク抜群の海の家一同は、そのままスケッチ大会になった。
勇太とマコちゃんと舞ちゃんは水彩絵具で、
俺とボスは鉛筆を選んだ。
スケッチブックのざらついた紙面に鉛筆の芯が触れる音。
炭素とクレイの混合物である芯が紙の繊維に削られ、
一秒間に約〇.〇三グラムの黒鉛が紙面に転写される。
カリカリという小さな摩擦音が、
波の音と絡み合いながら空気を震わせている。
俺の視線は舞ちゃんの横顔を捉えていた。
集中する時の彼女の表情には、年齢を超えた真剣さが宿っている。
ふと疑問が心に浮かんだ。
舞ちゃんは、この場所以外の世界を知りたいと思うことはないのだろうか。
マコちゃんに何気なく尋ねてみる。
マコちゃんの筆が一瞬止まる。
彼女は繊細な水彩技法で波頭の白い泡を表現している最中だった。
透明水彩の特性を活かし、紙の白を生かしたハイライト技法で、
波しぶきの瞬間的な美しさを捉えようとしていた。
「お父さんが春先は温泉、秋頃はディズニーランド、
連れてってくれるよ」
マコちゃんの答えと同時に、浴衣の裾が風に揺れる衣擦れの音が聞こえた。
絹のような繊細な音色が、夕暮れの静寂に小さなさざ波を立てる。
「それに、巧や勇太や、色んなお客さんが来てくれるから、
舞が何処かへ行きたいというのはないと思うけど・・・・・・」
その言葉を聞いた瞬間、頬が熱くなるのを感じた。
都市部の価値観を押し付けようとした自分が、
砂に足を取られたような気分。
見当違いの質問をしてしまったかのような恥ずかしさが、
胸の奥から這い上がってくる。
きっと海の無限の広がりをスケッチしていたから、
そんな気持ちになったのだろう。
この無限に続く水平線が、俺の狭い世界観を嘲笑っているような気がした。
ボスという男の人柄の良さを改めて実感する。
いいお父さんなのだ、ボス、やるぜ。
ちなみに時間制限を設けていて三十分ほど。
一つは夕食があり、一つは夕陽が暮れてしまうから、
一つは長すぎても短すぎてもしんどい。
しかしみんなの絵というのは本当に凄まじかった。
勇太の絵は、パブロ・ピカソの『青の時代』を彷彿とさせる、
歪んだ線と色彩の組み合わせ。
立体派的な視点で海を分解し、再構成している。
筆のタッチが荒々しく、
キャンバスに叩きつけるような勢いで描き込まれている。
「(こいつ絵上手かったんだなあ・・・・・・)」
ボスの絵は驚くほど写実的で、十九世紀のバルビゾン派の風景画。
海の一滴一滴まで丁寧に描き込まれ、
水滴が光を屈折させる様子まで鉛筆で丁寧に描き込まれている。
遠近法を正確に使い、空気遠近法で距離感を表現している。
そのデッサン技術の確かさに思わず見入ってしまう。
「(レベチだ・・・・・・)」
何でも出来る人っているんだなと思うが、その分、苦労することもある。
けれど、この丁寧さがきっとボスの心情なのだろ―――う・・。
ちなみに後でマコちゃんが教えてくれたけど、
ボスは中学高校と、美術部に入っていたらしい。
違うじゃん、お父さん、体育会系じゃない、スポーツでしょ、
全然柄じゃないでしょ、と笑い話の雰囲気にはなったけど、
なるほどなあ、と肯かせられた。
ただ、その話の中でボスが球技が苦手だと教えられた。
思い込んでいると人の本当の姿って、
中々見えてこないものだよあな、と思っ―――た・・。
マコちゃんの水彩画は、まるで透明な薄絹を重ねたような繊細さで、
女性が描いたと肯かせる柔らかさが色彩が紙の上で溶け合い、
夢のような海を創り出している。
透明水彩の特性を完全に理解し、滲みやぼかしの技法を駆使して、
海の表情の移ろいを見事に捉えて―――いる・・。
(ちなみに、ボスがいうまでもなく彼女が美術部だというのは、
何となく察した、望月一家は絵が上手いのだ・・・)
後でインスタグラムに投稿している姿を見かけたが、
その投稿は三時間で百二十七個のいいねと、
二十三件件のコメントを集めていた。
そして俺の絵はといえば、稚拙な代物だった。
小学生以下のレベル。美術の致命的なまでの才能のなさ。
勇太やボスやマコちゃんが見に来た時は思わず隠してしまう。
俺だって下手だと分かっていて、
心だと嘯けるレベルをとうに逸脱しているのは知って―――いる・・。
舞ちゃんが描いたのといって見に来る。
それで俺が絵を見せると、ふんふんなるほどねーと言い、
絵の空白部分、左下の角に何か書き込んでいた。
そんなことしてもこの絵はゴミなんだよと思いながら、
覗き込むと、俺の絵に、おにーちゃんだいすき、
と丸っこい文字で書き込んでいた。
ニコッと舞ちゃんが笑顔を作りながら絵を差し出した。
「おにいちゃんらしい素敵な絵だね」
俺は顔が真っ赤になるのを感じた。
舞ちゃんにはこんな下手糞な絵が俺らしく見えたのだろうか、
年下の女の子だけれど、この子は凄いなと本当に想った。
マコちゃんが「なるほど」と呟きながら、
舞ちゃんの髪を優しく撫でる手付きは、
まるですべてを理解しているかのようで、俺はさらに照れが増し、
俺の気持ちを見透かされているような居心地の悪さと嬉しさが混在していた。
下手糞な絵なので、壁には飾れなくても、
一年に一度は懐かしく見返したくなるような舞ちゃんとの思い出の品。
そして思い出すたびに、
舞ちゃんの子供らしい素敵な絵を振り返ると思う。
十日目は海の家の修繕作業をした。
昨日の段階から分かっていたことだが台風が残していった爪痕で、
屋根の一部が捲れ上がり、雨漏りの跡が天井に茶色いシミを作っている。
それを、みんなで修繕した。
営業時間中のため、主にボスが手の空いた人員を確保して、
作業を指揮していたが、彼の口からは次々と人生論が飛び出してくる。
あと彼の手には電動ドリルが握られ、
腰のツールベルトには様々な工具がぶら下がっている。
「まず現状把握、次に原因究明、そして適切な対処法を選択する、
DIYは人生の縮図だ」
かっけえええええええ(?)
工具を手に取りながら語るボスの表情は真剣そのもの。
マコちゃんが「YouTuberの影響」と苦笑いで解説する。
ボスのスマートフォンには、
『カーメンテナンス』『日曜大工チャンネル』『古民家リノベーション』
といったチャンネルが登録されているらしい。
しかし、かぶれているのは否定できなくとも、腕前は確かだ。
紙やすりホルダーのざらついた感触、さしがねの冷たい金属の重み、
水平器の中で踊る気泡。これらの道具一つ一つに、確かな役割がある。
「人生は必要のないものが多いことで、豊かという見方もある。
例えば、このさしがね一つ取っても、測るだけなら定規でも事足りる。
でも、直角を確認したり、材料に印をつけたり、多機能なんだ。
人間関係もそうだろ?
一見無駄に見える会話や時間が、実は一番大切だったりする」
かっけええええええ(?)
俺は汗で濡れたタオルで額を拭きながら、ボスの言葉を反芻した。
確かに、この二週間の海の家生活で一番印象に残っているのは、
業務中の雑談や、営業後の他愛もない時間だった。
ボスの哲学的な呟きが、金槌の音と混じり合う。
釘を打つ音が規則的に響く中、
額に浮かんだ小さな汗の粒が、真珠のように光っている、
マコちゃんがぽつりと呟いた。
「この場所、ずっと残したいな」
その瞬間、波音が一瞬消えたような錯覚に陥る。
彼女の横顔には、夏の終わりを惜しむような、
けれど同時に何かを決意したような表情が浮かんでいた。
マコちゃんの横顔を見つめながら、俺も同じ気持ちだった。
かすかに、遠慮がちに、囁くように、気弱に、
心の奥で芽生えているのを感じていた。
自分もその時、その場所にいたいな、と、
かすかに、遠慮がちに、囁くように、気弱に、思っ―――た・・。
夜、勇太にやっぱり砂浜へ連れていかれた。
疲れてるから嫌だと首を振ったら、
「青春はバカヤローじゃないんだよ、
青春はアドベンチャーなんだよ・・・!」
それ上手いのか?
その台詞の巧拙はさておき、用意の良さには感服する。
リポビタンDとオロナミンCの二本が、
月光の下で金色に光っている。
コンビニ価格で計算すると約三〇〇円の投資。
この程度の金額で友情を買えるなら安いものだといわんばかりに、
差し出す。
栄養ドリンクのタウリンが血管を駆け巡る中、
俺達は真夜中の砂浜を歩いた。満月に近い月が海面を銀色に照らし、
波打ち際では夜光虫がかすかに光っている。
だからというわけではないがこれが青春の仕掛け装置、
―――やってみなくちゃ分からない(?)
そして夜更け、鳴いた鳥の名前を俺は思い出していた。
あれは確かに、さだまさしが言いそうだった、
閑古鳥(?)
「なあ、俺、どうしてモテないんだろう?」
勇太の質問は夜風に溶けていく。
罪の増すところには恵みもいや増す(?)
とはいえ、とはいえ、稽査しながら思う。
これはボスやマコちゃんに相談すべき案件ではないかと思いつつ、
「俺も、モテないからなあ・・・・・・」と答える。
モテるとは一体何なのだろう?
その答えは、夜の海が水飴のように光る中で、
香りと色彩と音響が互いに応え合いながら、
海という泥の中へ、シルトとクレイの混合物の中へと、
消えていっ―――た・・。
昼の営業を早めに切り上げ、徒歩約十二分の距離にある、
地元の神社の夏祭りへ向かう。
全員が浴衣に身を包んでいる。いつも夕方から浴衣だけど、
それを指摘するのは野暮というものだろう。
「いつも夕方から浴衣だけど、とは言ってはいけない決まり、
ヒェー、これは暗黙の了解、
それ、しきたり、HEY、祭りの始まり(?)」
勇太が普通にラップ調で言ってくれた。
あと、勇太は何故か龍の刺繍入りという派手なものをチョイス。
全部台無しだった(?)
屋台の明かりが提灯の光と混じり合い、盆踊りの太鼓の音が夜空に響き、
屋台の匂いが鼻腔を刺激する。たこ焼きソースの甘辛い香り、
焼きそばの醤油とソースの混合臭、
りんご飴の甘酸っぱい匂い。
子供の頃の記憶が蘇ってくる。
金魚すくいの水槽では、朱色の魚たちが優雅に泳いでいる。
勇太が金魚すくいで「俺の人生みたいだ」とポイの紙が破れて、
金魚が逃げていく様を見て、何か深い哲学的洞察を得たらしく、
意味不明な感想を漏らす中(?)
マコちゃんが綿菓子を買って舞ちゃんに味見させた後、
勇太をスルーして、
俺に味見すると笑顔で聞いて―――くる・・。
「え、いいの?」
「うん、どうぞ」
彼女の笑顔は、提灯の明かりよりも温かく俺の心を照らした。
綿菓子の甘さが口の中で溶けていく感覚と、
マコちゃんとの間接キスの事実が、俺の理性を砂糖のように溶かしていく。
そして、神社の裏で静かに手を合わせる俺とマコちゃん。
提灯に照らされた境内の薄明かりが、杉の古木の間を縫って射し込んでくる。
銀白色のきらめきは、
おそらく本殿の鈴緒の金属部分が月光を反射したものだろう。
疲れた熱い眼が見つけた菜の花畑のような、幻想的な光景。
ポエム度数はいよいよ、高まる(?)
遠くから聞こえる人々の活気ある声。
砂浜に押し寄せる人波よりもさらに多くの人々が詰めかけ、
都会でこんな光景を見ても何とも思わないのに、
田舎でそれを目にすると音楽フェスでもあるのかと錯覚してしまう。
デパートはないけど、イオソはある(?)
スタバはないけど、牛丼チェーン店はある(?)
遠くで響く太鼓の音、笛の音色、そして人々の歓声。
都市部ではもう失われてしまった、
コミュニティの結束が感じられる瞬間だった・・・・・・。
十二日目は星空観察と願い事をした。
厚ぼったい図鑑を閉じるような昆虫採集の軌跡を辿りながら、
午後一〇時三〇分の夜の砂浜で星空を眺める。
色硝子の破片を振り落としているような美しさを漲らせながら、
ペルセウス座流星群がピークを迎えている。
厚手の星座早見盤を手に、砂浜で星空観察会が始まった。
光害の少ないこの場所では、
都市部では見ることのできない微細な星まで観測できる。
天頂付近に輝く夏の大三角。こと座のベガ(織女星)
わし座のアルタイル(牽牛星)
はくちょう座のデネブ。
それぞれの恒星の表面温度、光度、
地球からの距離をマコちゃんが詳しく説明する。
天文学に造詣が深いことを初めて知った。
流れ星が夜空を駆け抜けるたび、砂浜に集まった五人の口から、
小さな溜息が間抜けに漏れる。
舞ちゃんが少し眠そうに欠伸しているが、
眠ってもいいように毛布を持ってきて―――いる・・。
そして、みんなで願い事を言い合う時間。
蜜蜂の呟きのように軽やかに、花粉を落とすように。
「舞ちゃんが元気でいられますように」
「海の家がずっと続きますように」
そんな言葉が夜風に乗って空に昇っていく。
俺は願い事を声に出さず、言葉にせぬまま、
ただマコちゃんの横顔を見つめていた。
眼を見るでもなく、想いを伝えるでもなく、
月光に照らされた彼女の輪郭は、
まるで古い絵画から抜け出してきたかのように美しい。
流星が夜空を横切る瞬間、マコちゃんの瞳に星の光が映り込む。
その瞬間を、俺は一生忘れることはないだろ―――う・・。
十三日目は別れの予感と静かな時間
営業はまだもう少し続くのだが、俺は早起きして朝から静かに掃除。
海の家の思い出という名の後片付けが始まる。
砂まみれになったモップ、塩風で錆びかけた金属製の調理器具、
客が置いていった忘れ物の浮き輪、
この二週間の記憶を頭の中で整理していく。
舞ちゃんの屈託のない笑顔、ボスの人生哲学、勇太の青春論、
そしてマコちゃんの優しさ。
すべてが宝物のような時間だった。
夜、マコちゃんが「来年も来てくれる?」と聞く。
俺は「うん」と答えるが、
雨を含んだタイヤの水飛沫、
そしていまでは思い出しにくい、ビルの谷間の狭い空。
心の中では「来年の自分はどうなってるだろう」と思っている。
来年の自分―――三六五日後の未来はどうなっているだろう、
まだ明日のことも自信をもって答えられないのに・・。
けど、すごく楽しかった。
すごくすごく楽しかった。
だから・・・・・・。
「今日で最終日か・・・・・・あっという間だったな」
感慨のようなものが胸によぎってくる。
あえかなる夢、
空の青はにおやかな霧のように揺らめいて、
無限の高さまでたちのぼってゆく―――。
「そうだね」
マコちゃんの表情には、どこか硬質な美しさがあった。
糸が透けて見える森の背後に隠された、秘密の感情。
―――まだ、マコちゃんと一緒にいたいなぁ、
でも、少し経てば、俺のことは忘れるんだろうなぁ・・。
距離と時間は、記憶を薄れさせる残酷な化学薬品だ。
「最終日、気合を入れて頑張るね」
「う、うん」
何だか今日は、マコちゃんの様子がおかしい。
ずっと何かを考え込んでいるような、思いつめた表情をしている。
それは恋愛関係の終末を予感させる。
それは多分、そういうことだとは思うのだけれど、
心の何処かでは、ああ勇気を出しても心の中でも言えない、
自分のことを好いてくれているんじゃないか、と・・・・・・。
「あ、あのさ・・・」
「ごめん、ちょっと呼び込みしてくる」
突っ慳貪な言い方だった。
二週間程度の関係では、救いの手がないとそれだけで、
関係が終わってしまいそうになる。
ほんのちょっとした誤解や行き違いが致命傷になる。
ぶざまにえぐり取られて露出する、小さな小さな箱庭。
心はへこみ続ける穴のような物体・・・。
「俺なんか、怒らせるようなこと、しちゃったかな・・・?」
それを見ていたボスと勇太と、何故かその場に居合わせたミサキさんが、
(何でいるの?)
顔を見合わせて、無言のまま、溜息を吐き合う。
舞ちゃんが猫の頭を撫でている(?)
その小さな手の動きだけが、この気まずい空気の中で唯一の癒しだった。
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