第7話





海の家での仕事も手順書の文字が頭に焼き付くほど覚え、

呼吸や息抜きの仕方も覚え、

二日目は円滑に業務を進めることが、

出来ている―――と思う・・。


最初は海の家バイトということもあり、肉体労働についてはともかく、

真夏の暑さの中で肉体労働となるとそれは甲子園球児みたいなものだ。

もちろん、特別な訓練とか、練習をしてきたわけでもない。

そもそも、騙されてここへ来た―――のだ・・。


砂浜の上で長時間立ちっぱなしだったり、

大量の注文に対応して調理や配膳をこなしたりする。

体力に自信がない人にはもちろん厳しい環境だ。

さらに海沿いは陽射しが殺人レベルに強く、

熱中症になるリスクも高い、

水分補給や休憩のタイミングが非常に重要だが、

もちろんそんなの海の家未経験の俺には分かるわけもないから、

三十分に一度を目安にして水分補給をし、

しんどくなりそうだな、汗を掻き過ぎているなと思ったら、

エアコンのガンガン利いた部屋へ逃げ込む。


ボスのキャラクター通り、この海の家には複雑な料理もあるし、

何しろ突然魚をさばいて刺身を提供したりするわけだが、

そうはいえども、基本的にはすぐに提供できるメニューが多い、

複雑だったり時間のかかる調理はしない。

その分、提供スピードを求められることもあるため、

テキパキ働く意識が重要だし、

そういう中で特化した要素も見えて来る。

ボスの調理技術、勇太の焼き、マコちゃんの売り子的な技術という風に、

そういう中で俺が何らかのプロフェッショナルになる必要は、

多分ない。ボスや勇太やマコちゃんのそういう役割分担は、

もっと長い時間が必要だ。二週間後ならともかく、

二日目でそんなスペシャリストになれる方がおかしい。

これは消去法だ。

だからこそ、みんながやっている基本的な仕事を覚えて、

好き嫌いせずどれでも出来るユーティリティープレイヤーを目指す、

これが俺の考えだった。みんながそれぞれの作業をしている時に、

別の仕事が出来るのでもいい、レジをするでもいい、

ロッカー利用者に説明するのでもいい、

そしてなるべく技術向上を目指す、でも無理をしない、

という風に考えて挑んだ。


人付き合いだって苦手だし、喋るのだって苦手だ。

でも挨拶をしよう、ちょっとでも声を大きくしよう。

百パーセント改善することはできなくとも、

数パーセントならちょっと頑張れば手が届く範囲内だ。


もしかしたらボスの、

『お前は俺のことをお父さんと呼んでもいい』

という謎の許可は、そういう風に自分の役割を見出して行動しているのを、

評価したからなのかも知れない。

実際、ボスやマコちゃんは本当に何でも出来る。

だから、ボスやマコちゃんというのは余計なことまで何でもこなす。

ボスなんか糞忙しい時に、

客がなんかさっぱり料理が食べたいなと言った瞬間に、

お金さえ出せば冷蔵庫のもので何か作ってやるぜ、と仰る(?)


カッコいい、すごい、だけど、

ボス、糞忙しい時に何をしているんですか、あなたは(?)


でも、他の海の家ではともかく、この海の家では、

ボスのそういうキャラクターがあって、

お客が来てくれてみたいなところもある。

居酒屋メニューを難なくこなして、ビールの売り上げに貢献する、

それがボスの凄さだ。

ただ、一体この人何がしたいのかなと思える瞬間は―――ある(?)


たとえばマコちゃんは、この海の家の唯一の女性店員だ。

SNSの宣伝もしていると聞いた。

ボスとべクトルは違うけど、

本当に気が付けば何から何までこなそうとする。親子だな、と思う。

そして彼女はこの海の家の完全なキー・プレイヤーだ。

ボスや勇太のどちらか一人いなくても仕事は何とか回るだろうが、

マコちゃんが抜けたら、この海の家の仕事はとんでもなく詰まる。

彼女の真面目さ、優秀さ、そして向上心の賜物と言える。

だのに、それを踏まえても、無理しすぎである。

(勇太はサボりすぎであるのと同じことだ)

そんな無茶苦茶な努力、神業が長時間続くわけもなく、

休憩がたまに必要になる。たまに水分補給せずに、

仕事を続け過ぎているのを見かねてジュースを持って行ったりする。

忙しい職場で冷静さって結構重要だ。


彼女は前に熱中症でぶっ倒れたことがあると聞いたけど、

もうちょっと自分の能力の限界と相談すべきだと思う。

あるいは、彼女が抜けた時、

この海の家がどんな風になるのかを明確に理解すべきだと思う。

ただ、マコちゃんのそれは、海の家への純粋な愛からきていて、

亡くなった母親の場所、

祖父から続く場所を守りたいという気持ちだろうか、

彼女がこの海の家の何処か懐かしくて優しい雰囲気を作っている。


そして勇太は、女性客が来ると、仕事そっちのけになる。

いや結局、この海の家ではそれが許されるぐらい、

プロフェッショナル志向が強いのだ。

ボスは勇太の欠点を余りある長所で相殺しようとし、

マコちゃんはもしかしたらあのきつい態度で、

改善を企んでいるのかも知れない、多分(?)

どちらも正しい、

ただ、勇太は結局勇太である(?)

あと、勇太が焼いてる間、鼻歌でピンクレディーの『UFO』

とかいう、とんでもない昭和歌謡を歌ってる。

どう突っ込めばいいのか分からないまま、

『ペッパー警部』で応答するしかない。

ボスやマコちゃんがいる時はいいが、

二人が離れて勇太と俺だけとなると、

俺一人だけで仕事をこなす場面が確実に存在する。

初日より二日目、そういう対応が増えた気がする。

客をいかに待たせないか、どう円滑に回すか、

それがまだ新人で、二進も三進も分からない俺のあたるべき仕事だった。


人の多い時間、人の少ない時間。

その時もっとも必要とされる役割分担は何かと俺は考えた。

そしてそういうことが二日目の朝の時点でちゃんと分かった時、

一体、この海の家では、

どれほど非効率な作業が行われているんだろうと思った。

もしかしたら、もう一人ぐらい雇って、

レジと注文ぐらい固定にするべきかも知れない。

多分、そもそも、客の多さに対して働く人が少なすぎるのだ。

俺一人増えるだけでも何かの足しになるどころか、

いなかったらどうなってたんだろうなという雰囲気すらあり、

そもそも、みんなプロフェッショナルすぎて、

そこは誰かやってくれるだろうという瞬間が結構多い。

こういうのって、プロフェッショナル集団の中で、

割合よくあることなのかも知れない。

実は特別なことなんかは一切いらず、

普通のことが求められている、と。

そんな具合だから、それを卒なくこなすようにした。

言い方は悪いけれど、この海の家には、

俺のような普通の考えの人がいないのだ。


最初は額に冷たい汗が浮かび、

手のひらが湿っぽくなるほど緊張していたけれど、

戦力外通告という冷酷な宣告を受けることもなく、

肩の力を抜いて、深く息を吸い込みながら仕事に臨んでいる。

この場所に溶け込めているかも、と思う。

初めての仕事とは思えないほど、朝から順調だった。

必要とされているのが分かれば、

しっかりしなきゃいけないと思うし。


焼肉屋では油煙が髪の毛の一本一本に絡みつき、

家に帰っても衣類から炭火の匂いが離れないというし、

工場のアルバイトでは軽作業という募集要項が嘘のように、

汗が目に滲みるほどの倉庫バイト、

軽作業って嘘吐くなよ、

ヘルニア級の超肉体労働になることも―――ない・・。

まあ、勇太の言葉はすべて嘘だったが(?)

ほんの僥倖かもしれない。

世の中にはスケルトン札さながらの、

学生をダシにしたやくざな商売もあると聞く。闇バイトもそうだ。

賃金未払い、名ばかり研修、無給の地獄。​時

パワハラまがいの指導、サービス残業の強要。

そんな地雷原のような求人情報すら有り触れている。

キャッチセールスや訪問販売の、

『営業アシスタント』という名目で雇われ、

実際は違法すれすれの押し売りをやらされる。

SNSで募集される『簡単なお仕事』には、

パチンコ店での偽装客やサクラ行為、

果ては薬事法違反の健康食品販売の片棒を担がされることもある。

労働基準法第六条の中間搾取の禁止規定すら無視した、

ブローカーまがいの業者も跋扈している。

しかもそれが普通に誰にでも開ける可能性のある、

迷路の入り口。

バイトというのも初めての経験だけど、

自分は恵まれてるんだろうなという気が本当にした。

そして心の奥には、もっと大きな何かが存在していた。

それは、俺の心に深く根を下ろした思い、

―――マコちゃんがいるからだ。


それは午前と午後の切り替え、陽射しが最も高くなる時間。

浜辺では、波の音が砂に吸い込まれ、

遠くで誰かがビーチボールを打つ音が跳ね返っていた。

クラゲ除けネットの向こうには、

光を反射する無数の水面がきらめいている。


「舞、何処行ったんだろ?」

マコちゃんが眉間に小さな皺を寄せて、

周囲の人の波に視線を泳がせ、

唇を薄く震わせながら心配そうな声音を漏らす。


砂浜は色とりどりのパラソルと水着姿の人々で、

まるで絵の具をこぼしたキャンバスのような、

有象無象の人だかりである。

浜辺にはクーラーボックスが点在し、

中には氷と共に缶ビールやペットボトルの麦茶、

スポーツドリンクが詰め込まれている。

いよいよあやしい匂いや光を発散し、

なめらかに硬い硝子さえ越えて来る。

まるで巨大な万華鏡の中にいるような錯覚。

不安という名の毒が空気中に充満し、

理性という透明な防御壁すら侵食し始め、

心臓の鼓動が次第に速くなり、口の中が乾いてくる。

日焼け止めクリームのココナッツオイルの甘ったるい香り、

BBQコンロから立ち上る炭火と肉汁の煙、

磯の香りと混じった有機物の発酵臭が複雑に絡み合って、

夏の浜辺独特の濃密な空気を作り出している。

確かに舞ちゃんの小さな体躯は、大人達の影に隠れて見えない。

彼女の特徴的な黄色い水着、

ワンピースタイプで、胸元に向日葵の刺繍があり、

頭に巻いた青いギンガムチェックのバンダナの女の子・・。


俺は右手を口元にメガホンのように当て、

咽喉の奥から声を絞り出して周囲に響かせる。


「舞ちゃん、お昼食べるよー!」


陽炎が立ち上る砂の上で、潮風が頬を撫でていく中、

俺はようやく舞ちゃんの姿を海の浅瀬に見つけた。

ピンク色の浮き輪を小脇に抱えている―――が。

「ん、様子がおかしい」

心臓が高鳴る。浮き輪に頼りきっていない。

パニック状態特有の硬直した動作。

不自然な肩の傾き、水を蹴るリズムが途切れている。

舞ちゃんの両腕が不自然にばたつき、顔が青白く見え、

瞳孔が一瞬収縮する。

舞ちゃんの手が水面を叩く叩く叩く、

必死に叩くパシャパシャという音、

小さな手のひらが水を叩く音水しぶきが上がる、

透明な水しぶきがきらきら光る太陽の光を反射して。





一目散だった、他に何も見えないほど緊急を要する案件だった。

ダッ、と砂を蹴って走り寄り、足首まで海水に浸かり、

波の抵抗で膝がよろめきながら、

足が砂に沈む一歩一歩が重い砂粒が足指の間に食い込む、

太陽が背中を焼く汗が額に浮かぶ、

波の音がだんだん大きくなる、

舞ちゃんの姿がだんだん大きくなる、

懸命に舞ちゃんの元まで駆け抜ける。

そこから先は泳いで、

小さな体を両腕でしっかりと抱き締めた瞬間、

張り詰めていた胸の奥の何かがほどけるような安堵感が全身を包んだ。

その小さな身体は、鳥のように震えている。

息を詰めるような感触の中、濡れた肩。濡れた髪。

しがみつく指先。

安堵で力が抜けそうになるが、まだ終わっていない。

舞ちゃんを抱っこしながら、

足裏に砂粒がざらざらと食い込む感触を感じながら砂浜へ戻る最中に、

舞ちゃんが俺の肩に小さな顔を埋めて、

しゃくり上げるように泣き出した。

あれは恐怖だった。

もしかしたら絶望だったのかも知れない。

鼻水と涙で湿った頬が肌に触れる。

鼻水も出始め、呼吸が浅く早くなっている、

典型的な過換気症候群の症状。

海水が咽喉に入った時の苦しみや、

足が攣って身動きが取れなくなった恐怖のせいかもしれない。

もがき苦しんで、小さな手足をばたつかせても、

どうにもならなくなって―――そういう最悪の結末だって、

十分に起こり得たのだ。


靴下はいつも何故か片方だけ、

親指の付け根あたりに穴が空く。


「うええええん!」


生命の危機に晒された小さな魂が、

自分を守ろうとする本能に突き動かされた絶叫。

舞ちゃんの泣き声が潮騒に混じって響く。

幸い、取り返しのつかない事態にはならなかったが、

ふくらはぎの筋肉が痙攣を起こして溺れかけていたらしい。

あるいは、その前後にパニックに見舞われたのかも知れない。


「もう大丈夫だよ、大丈夫だよ」

と、俺は舞ちゃんの背中を優しく撫でながら、

囁くように言葉をかけるが、

同時に氷の欠片を背骨に沿って滑り込ませられたように、

背筋がぞくりと寒くなる。

舞ちゃんと遊ぶ約束をしていたが、

仕事が忙しくていままで後回しになっていた。

もちろんそんなの仕事だから仕方ない、責任はない、

なんて言ってくれる人間の言葉を優しいとは思わない。

自分に何かが出来たと気付いた人間は、

そこから際限なく想像する生き物。

離岸流の話や、足が攣って溺れる話、

ならびに舞ちゃんぐらいの年齢では浅瀬でも溺れる話など、

知っていて当たり前のことのはずなのに・・・・・・。


昨日の夜、舞ちゃんとぬいぐるみを使って、

おままごとをしていた光景が、

映画のワンシーンのように鮮明に脳裏に蘇った。

子供は常に大人が盾となって守らなくてはいけない存在なのだ。

浅瀬だから―――と、油断していた。

そんな浅墓な理由で、実際には十分に起こり得る事故の可能性を、

完全に見落としていた。

自然は、そのほんのちょっと油断に厳しさを突きつける。

自分やマコちゃん以外にも大人はいるのに、

誰もそういう危険性があると認識していない。

責任の分散現象だ。大勢の人がいる状況では、

個々人の責任感が希薄になり、

誰かがやるだろう、という集団心理が働く。

夜逃げや、SNSによる責任追及が思い浮かぶ。

海の家のことが思い浮かぶ。

もちろんそれが大きくなることはないかも知れない、

今回みたいによくある話で済むのが大半なのかも知れない。

浅瀬だから。

浮き輪があるから。

それは十分に起こりうることかも知れない―――のに。


『水遊びはまだ危ないから、砂でお城を作って遊ぼうね』

そう声をかけることだって簡単にできたはず。

『水遊びは大人と一緒に、後でやろうね』

と一言添えることも。

分かってる、子供は大人の想像の斜め向こうを行くし、

そんなのセーフティネットでも、ストッパーにならないことは。

でも、心の奥が震えていた。

胸の中央に鉛の塊が沈み込むような重さを感じ、

視界の端がぼんやりと霞んでくる。

それを怠ったのは、明らかに俺の不手際であり、

監督責任を果たせなかった証拠だった。

身体の小さな子供にとって海は、

けして気軽に遊べる安全な場所ではないのだ。


分かってる、

そんなの無意味だ、結果的にはなるようになった。

けれど、舞ちゃんを抱き締めた瞬間の安堵感には、

嘘をつけない気がした。

自分はこの子の命を預かる立場にいたのだ。

それは法的責任などとは一切関係がなかった。

もちろん砂遊びで熱中症になる可能性もある。

人さらいだっていないとは言えない。

何だってそうだ、こんなこと一概には言えない。

だけども舞ちゃんぐらいの年齢で、眼を離すことが、

どんなに危険なことかなど、

年の離れた自分が分かっていなければならない。


年の離れたというのはもう『子供』ではなく、

その時に『大人』と変わりないのだと気付かされ―――る・・。

マコちゃんのところまで舞ちゃんに気遣いながら戻ると、

彼女は頬から血の気が引いて青白くなっていて、

唇が小刻みにぷるぷると震えている。

舞ちゃんに怒るのかな、

それとも俺を責めるのだろうか―――本当に一瞬はそう思ったけど、

「舞、ごめんね、本当に無事でよかった」

と、膝を砂の上について舞ちゃんと同じ目線になり、

母親が我が子を包み込むように優しく抱きしめていた。

子供に安心感を与える本能的な行為。

眼尻に溜まった透明な雫は、汗とは明らかに違う性質のもので、

頬を伝って落ちそうになっている。

「タク、ありがと」


夕食の時間になっても、マコちゃんは舞ちゃんから、

一歩も離れようとしない。ただ、あまりにも密着し過ぎて、

舞ちゃんに、「おねえちゃん、くっつきすぎー」

と小さな手で押し返される始末だ。

それはトラウマ体験後の過保護反応で、

保護者が過度に子供を監視・制限する行動パターンだ。

ただ、普段からお姉ちゃんとして慕われている、

マコちゃんの信頼補正で、「まあ、いいけどね」

と舞ちゃんは苦笑いを浮かべている。

テーブルには冷えた麦茶、鯖の味噌煮、

そして、舞ちゃんのために作られた卵焼きが並ぶ。

どちらも、彼女の大好物らしい。


また今回の一件の影響もあってか、

たくみおにーちゃんから、おにーちゃんにランクアップした。


「でも、本当、何もなくてよかった」

と、勇太が普段の軽薄な調子とは打って変わって、

真剣な表情で呟く。

勇太だったら、いかにも、よかったよねーなどという、

投げ遣りで無責任な感じで言いそうだけど、

こいつがこれほどシリアスな顔つきをするなんて、

と意外には思うけれど、勇太もそこまで頭の軽い人間じゃない。

あるいは、海の家の職業柄、

水難事故を本当に身近に感じているからだろう―――か・・。

経験は人をこうまで変えてしまう。


昼食の時のことが思い出される。

おにぎりを頬張りながら、俺が今回の一部始終を説明し、

ボスや勇太やマコちゃんや俺を含めた大人達による反省会が始まった。

結局それは当たり前のことばかりなのだが、

そういう注意喚起が、危機回避へと繋がるのだ。

その時も勇太は眉間に深い皺を刻み、

いつもの人懐っこい笑顔を完全に消していた。

その場にいる全員の中で、一番真剣に、

そして深刻に今回の出来事を受け止めているのは、

間違いなくマコだった。

仕事や日常の雑事は確かに大切だけれど、

何よりも一番大切なのは、目の前にある大切な命なのだな、

と心の奥底から思い知らされる一瞬だった。


「ごめんね、ごめんね、舞。

わたしがちゃんと見てなかったから・・・」


マコは舞ちゃんの細い腕に自分の腕を絡ませて、

肌と肌を触れ合わせるスキンシップを続ける。

ついには、舞ちゃんを大切なぬいぐるみを、

ぎゅっと抱きしめるような仕草で包み込んでしまう。


「おねーちゃん、くるちー、おにーちゃん、たすけてー」


舞ちゃんの甘えるような声が、一日の終わりを告げ始めた空に響く。

でも、何だかその光景は微笑ましくもある。

本当に大切なものは、ああやってしっかりと両腕で抱きしめて、

自分の体温を伝えていないと守れないのだな、

としみじみと胸の底から感じ入る。


「巧、改まってだが、本当にありがとう」

と、ボスが深々と頭を下げながら言ってくる。

「いえ・・・」



お礼を言われる筋合いが本当にあるのかという気もしたし、

―――元を正せば、自分の不注意が招いたことでもある。

最低、俺はマコのように自分の素直な気持ちを言えてない。

本当は自分にだって責任があると言いたいのに、上手く言えない。

いまだってそう―――だ。

責任回避というつもりではないが、その傾向はあると思う。

こういう時に、何をどう話せばよいのか思いつかなくなる、

自己開示の困難。

まるで舞台上で台詞を忘れた役者のような心境だった。

手のひらに汗が滲む。

そしていざ、本当は自分だって十分に責任があると認めて、

謝罪したいのに、咽喉の奥で言葉が詰まって上手く言えない。

今だってそうなのだ。

終わりよければすべてよしなんていうわけにはいかない。


統計によれば、日本国内の水難事故は年間約一五〇〇件発生し、

その内の約半数が死亡事故に至る。

特に五歳から九歳の幼児の事故率は、他の年齢層の三倍に上る。

浅瀬での事故も全体の約三〇パーセントを占めており、

水深が浅いから安全という認識は完全な誤解なのだ。

浮き輪の安全性についても、そうだ。

実は多くの人が過信している。ポリ塩化ビニル製の浮き輪は、

尖った貝殻や硝子片で簡単に穴が開くし、

気温上昇による空気膨張で破裂することもある。

このたった二件を知っているか知っていないかだけでも、

物事に対する見方は変わる。


潮汐による水位変化、

離岸流による沖合への引き込み、

不規則な波浪による転倒リスク・・・・・・。


「浅瀬でも子供は危険だ。

これからはちゃんと見ておかないとな」

と、ボスが自分自身に言い聞かせるように、

戒めの言葉を口にする。

そこには、海の事故を目撃した人間の、

翳りのようなものがあった。

そしてそれは、マコちゃんにもあった。

「うん」と、マコは肯きながら、舞ちゃんの頭を撫でる。


充血した両眼は、先程―――マコちゃんが泣いたからだろうか。

でもそれは舞ちゃんがどうのこうのというよりも、

もっと別のことが深い影を落としているように思えた。

人間の心に刻まれた傷は、時として予想もしない瞬間に疼き出すものだ。

海の消えてゆくワインレッドが、

レイリー散乱による夕焼けが、この一日の重い体験に、

ある種の美しい句読点を打っているように見えた。



  *



🕯️マコちゃん視点『小さな火を灯した日』



夜の部屋。六畳間の和室。

畳表の藺草が月光の下で金色に光る繊維一本一本まで見分けられる。

縦横に走る畳の目は精緻な幾何学模様を描き、

その上に窓の影が完璧な平行線を刻んでいる。

影の境界線は鋭く、光と闇の対比が刃物のような鮮明さで空間を切り取っている。

カーテンは青色で、織り目が月光を受けて微細な凹凸を浮かび上がらせている。

風もないのに、わずかな空気の流れで裾がミリメートル単位で揺れ、

その動きが壁に投影される影のパターンを絶えず変化させている。

マコは畳の中央よりやや右寄りに座している。

体重の分布で畳がわずかに沈み、その周囲の繊維が微かに盛り上がっている。

膝は胸に引き寄せられ、細い足首が重なり合って、

素足の指先は畳の縁に軽く触れている。

足の爪は短く整えられ、月光の下で真珠のような光沢を放っている。

黒髪は肩甲骨の中ほどまで届き、一房一房が光を受けて青みがかった反射を見せ、

髪の表面には無数の細かな波打ちがあり、

頭の動きに合わせて光の粒子が髪を滑り落ちていく。

前髪は眉毛の上で不揃いに切られ、数本の毛先が額に影を落としている。

肩の上下運動は一分間に十八回。

吸気で鎖骨が持ち上がり、肋骨の線がわずかに浮き出る。

吐気で肩甲骨が内側に寄り、背中の曲線がより深くなる。

白い綿のパジャマは体の輪郭に沿って柔らかく垂れ、

袖口から露出した手首には静脈の青い線が透けて見える。

窓の外から聞こえる波音は三つの層に分かれている。

最も深い低音は砂浜に打ち寄せる大波の轟音で、

中音域には波が砂利を引きずる擦過音があり、

無数の小石がざらざらと擦れ合う音色。

高音域では泡が弾ける微細な音が、

まるで遠くの鈴を鳴らすような透明感で空気を震わせている。

この三層の音は規則的なリズムを刻み、十二秒に一度の周期で、

強弱を繰り返し、マコの呼吸のリズムと完全には同期していないが、

時折偶然重なり合う。


机の上の硝子細工は全長八センチメートル。

硼珪酸硝子製で、透明度の高い素材の中に、

微細な気泡が三つほど封じ込められている。

鳥の種類はツバメを模しており、翼を最大限に広げた飛翔の瞬間を捉えている。

翼の先端から尾羽の先まで、一つ一つの羽根の形状が精密に彫刻されている。

月光が硝子の表面で屈折し、内部で複雑な反射を繰り返す。

特に頭部の球面では光が集束し、青白い輝点を形成している。

この光点は地球の自転に合わせてゆっくりと移動し、

一時間で約三ミリメートルの速度で鳥の体表を這っている。


マコの右手の人差し指が畳の縁をなぞっている。

指先の圧力は畳の表面を傷つけない程度の力加減。

指紋の渦巻き模様が畳の繊維に微かな跡を残し、

指が通り過ぎた後もしばらくその痕跡が残っている。

指の動きは不規則で、時に直線的に、時に小さな弧を描く。

動きの速度は毎秒二センチメートル前後だが、時折完全に停止し、

まるで何かを確認するような間を置く。

窓の隙間から入り込む風は、幅〇.三ミリメートルの細い隙間を通過し、

風速は毎秒〇.八メートルで、室内に入ると温度差により上昇気流となり、

天井付近で渦を形成している。

この気流がカーテンの下端に当たり、布を毎秒一.二センチメートルの振幅で揺らす。


カーテンの動きは完全な周期運動ではなく、

風の強弱により不規則な変動を示している。

カーテンが動くたびに、硝子細工の影が壁面で踊り、

影の形状が鳥が実際に羽ばたいているような錯覚を生み出している。

マコが顔を上げる瞬間、首の筋肉に軽い緊張が走る。

胸鎖乳突筋が収縮し、頭部を約十五度持ち上げる。

瞳孔は直径四.二ミリメートルに拡張し、暗い室内の光量に適応している。

視線は部屋の対角線上の一点に向けられているが、

焦点は定まっていない。眼球の微細な動きは通常の頻度より少なく、

深い思索状態にある人特有の眼球運動パターンを示し、

睫毛は上下合わせて片眼につき約百五十本、

月光を受けて一本一本が繊細な影を頬に落とす。

唇の動きは咀嚼筋と口輪筋の協調運動により生み出されている。

唇は厚さ三ミリメートルほどで、血管が透けて薄紅色に見える。

動きの振幅は最大二ミリメートルで、音声を発する時の口の形を再現している。

舌の位置や歯の接触パターンから推測すると、

発音しようとしている音素は「あ」「り」「が」「と」「う」の組み合わせ。

しかし声帯の振動は起こっておらず、

空気の流れも最小限に抑えられている。

まるで心の中で念じている言葉が、

無意識に口元に現れているかのような動き。


動きがあった。

マコの左手が宙に向かって伸ばされる動作は、肩関節の屈曲と外転、

肘関節の伸展が組み合わさった複合運動。

手首から指先までの距離は十八センチメートルで、

その軌跡は放物線を描いている。

指先は何かを掴もうとするような形状を取り、

親指と人差し指の間隔は約四センチメートル。しかし空中には何もなく、

指は空虚な空間を掴んでいる。この動作は三.七秒間続き、

その後力が抜けて手は自然に膝の上に戻る。

両手が胸の前で組まれる瞬間、十本の指が複雑に絡み合う。

右手の親指が左手の甲に重なり、両手のひらが軽く接触している。

指先の圧力分布は均等ではなく、中指と薬指により強い圧力がかかっている。

この手の形は祈りの姿勢とも見えるが、

同時に何かを大切に抱きしめているようにも見える。


硝子細工の青い光が一瞬強く輝く現象は、

月の位置の微細な変化と雲の移動により生じている。

月光の入射角が〇.三度変化したことで、硝子内部の全反射条件が変わり、

光の集束点が移動した。

この変化は人間の眼には瞬間的な輝きの増強として認識される。

実際の光量変化は五パーセント程度だが、暗所に適応した瞳孔の感度により、

実際以上に劇的な変化として知覚される。

マコの網膜にこの光の変化が映る瞬間、視神経を通じて脳に信号が送られ、

一瞬の驚きの感情を引き起こしている。

マコの右頬を伝う涙は、涙腺から分泌された塩分濃度〇.九パーセントの液体。

液滴の体積は約〇.〇三ミリリットルで、

表面張力により完璧な球形に近い形状を保っている。

涙が頬を伝い落ちる速度は毎秒二.一ミリメートルで、

皮膚の微細な凹凸と産毛により軌道が決定されている。

液体の屈折率は一.三三で、月光を受けて小さな光の筋として輝いている。

涙が顎のラインに到達するまでの時間は約七秒で、

そこで一旦停滞した後、重力により落下する。

マコの表情筋は涙を流しているにも関わらず、

悲しみの典型的なパターンを示していない。

眉毛の位置、目尻の皺、口角の角度は中性的な状態を保っており、

複雑な内面状態を表している。


遠くから聞こえる風鈴の音は、金属製の管と舌の衝突により生み出されている。

基音の周波数は約八八〇ヘルツで、第二倍音が一七六〇ヘルツ、

第三倍音が二六四〇ヘルツ、美しい和音を形成している。

音波は途中で建物や樹木により散乱・吸収されるため、

高周波成分が減衰し、柔らかく丸みを帯びた音色として室内に届く。

マコが硝子細工に近づく動作は、まず膝を床から離し、

足裏に体重を移すことから始まる。

立ち上がる際の重心移動は完璧にバランスが取られ、

音を立てることなく滑らかに実行される。

硝子細工に向かって伸ばされる手は、指先から鳥の表面まで、

二.八センチメートルの距離を保ち、

手のひらの温度とガラス表面の温度の差により、わずかな対流が生じ、

微細な空気の流れを皮膚が感知している。


月光が硝子細工を通過し、マコの掌に映る虹は、

プリズム効果により可視光が分解されて生じている。

虹の大きさは直径約一.五センチメートルで、

赤から紫までの全スペクトルが明瞭に分離されている。

手のひらの皮膚の微細な凹凸により、各色の光は複雑なパターンで散乱している。

特に生命線と感情線の溝では光の集束が起こり、

より鮮やかな色彩となって現れている。


再び動くマコの唇は、先ほどとは異なる音形を作っている。

舌の位置と唇の形状から、今度はさよならという言葉を無音で発しているように見える。

「さ」の音では舌先が上顎に軽く触れ、「よ」では唇が軽く前に突き出される。

「なら」では舌が複雑な動きを見せ、最後の「ら」で舌先が再び上顎に触れる。


マコが振り返る方向にある椅子は、背もたれのあるキャスター付き回転椅子で、

背もたれには軽微な摩耗の跡がある。

月光の届かない位置にあるため、椅子の輪郭は周囲の闇に溶け込み、

存在感が曖昧になっている。

マコの視線は椅子の座面から約六〇センチメートル上の空間に向けられ、

マコは確実に誰かがそこにいることを想定した動作を取っている。

空いた椅子に向かって伸ばされるマコの手は、

握手を求めるような形状をしている。手のひらは垂直に向けられ、

指先は自然に曲がっている。

この手の形は親しい相手との別れの際の握手の姿勢と一致している。

手が空中で約三秒間静止する間、微細な筋収縮により手指がわずかに震えている。

これは感情的な緊張と、実際には存在しない相手の手を握ろうとする、

脳の錯覚により生じている現象である。

波音の音量が増大する。

沖合で発生した大きな波の集合が海岸に到達したためだ。

音の変化とマコの動作には直接的な因果関係はないが、

人間の無意識レベルでは音の変化が、

感情状態に微妙な影響を与えている可能性がある。


マコが床に座り直す際の動作は、先程とは明らかに異なる意図を持っている。

椅子の方向に正対するように体を向け、

距離も先程より約三〇センチメートル近い位置を選んでいる。

この座り方は対話を想定した配置で、

心理学的には相手との心的距離の近さを表している。

両膝はやや開き気味で、リラックスした状態を示している。

背筋はわずかに前傾し、積極的な対話の姿勢を取っている。

硝子細工の鳥が羽ばたいているように見える錯覚は、

複数の要因が重なって生じている。カーテンの揺れにより光と影のパターンが変化し、

硝子表面での光の反射点が移動する。

同時に、マコの視線の微細な動きにより網膜上の像が変化し、

脳が動きとして解釈している。

この錯覚は誘導運動と呼ばれる現象で、

静止した物体が動いているように知覚される視覚の特性であり、

特に暗所では、わずかな光の変化が実際以上の動きとして認識される傾向が強くなる。


マコの手が頬の涙を拭う動作は、親指の腹を使って下から上に向かって行われる。

拭き取られた涙の量は約〇.〇五ミリリットルで、

手の体温により瞬時に蒸発する。

涙を拭った後の頬の皮膚表面には、塩分の結晶が微量残存している。

この結晶は肉眼では確認できないが、皮膚の表面張力をわずかに変化させ、

独特の感触を生じさせている。

マコの表情は涙を拭う動作の前後で変化しておらず、

機械的な反応として涙を除去している。

空いた椅子に向かっての頷きは、親しい相手への挨拶や了解。

頷きの動作は一.八秒かけてゆっくりと実行され、最下点で〇.五秒静止した後、

元の位置に戻る。この動作パターンは実際に相手がいる場合の頷きと、

完全に一致しており、マコの意識レベルでは、

確実に誰かの存在を感じていることを示している。


月が雲に隠れる。

高度約三〇〇〇メートルの巻雲の通過によるもの。

雲の密度は比較的薄く、月光を完全に遮断するのではなく、

約七〇パーセント減光させている。この光量変化は約二分三〇秒続き、

その間室内の照度は低下する。

雲の移動速度は毎秒八.五メートルで、

風向きは西南西から東北東に向かっている。

雲が通過する際の光の変化は段階的で、

雲の縁の部分では回折効果により複雑な明暗パターンが生じる。


マコが眠りに落ちる過程は約十二分間かけて進行する。

最初に眼球運動が停止し、続いて筋肉の緊張が段階的に弛緩していく。

呼吸パターンは覚醒時の毎分十八回から毎分十四回に減少し、

より深くゆっくりとした呼吸に変化する。

膝を抱えた姿勢のまま眠りに就くのは、

無意識的な自己防衛本能と安心感の追求によるものである。

この姿勢では体表面積が最小化され、体温の保持に有効だ。

床の硬さにも関わらず、精神的疲労により深い眠りに落ちている。


部屋で唯一覚醒している硝子細工の鳥は、

月光を受け続けて静謐な光を放っている。

硝子の熱容量は小さく、室温の変化に敏感に反応する。

夜間の気温低下により、ガラス内部で微細な熱収縮が起こり、

内部応力の分布が変化している。

しかし、これらの物理的変化は外観には影響せず、

鳥は翼を広げた美しい姿を保持している。月光の角度が変化しても、

硝子の屈折率と形状により、常に一定の光度を維持している。

まるで永遠の番人のように、夜の部屋で眠るマコを見守り続けている。

海からの波音は地球の自転と潮汐力、風の作用により生み出される。

この音は何千年、何万年と続いており、マコが生まれる前から、

そして彼女が眠りについた後も変わることなく響き続ける。


  *


あの時、まるでカメラのファインダーを覗き込むように、

浅瀬の海を凝視した瞬間が蘇る。

レンズ越しの世界のように、波打ち際の泡沫が一つ一つ、

水晶の破片のように光を反射していた。

透明度の高い水面下には、砂粒一つ一つが陽光に照らされて金色に輝き、

小さなキュウセンベラやハゼの稚魚達が、

まるで点描画の筆触のように水中を舞っている。

その動きは、ブラウン運動を思わせるランダムな軌跡を描きながらも、

捕食者から逃れようとする本能的な群れ行動の法則に従っている。

カメラの距離調節リングを回すような感覚で、

瞳孔を細め、睫毛を微かに震わせながら、

意識の焦点を徐々に合わせていく。

遠景から近景へ、そして再び中景へと、視点は流動的に移ろう。

焦点距離の変化に伴う圧縮効果により、

遠景の山々は次第に平面的に圧縮され、

前景の人物たちは立体的に浮かび上がってくる。

臨場感――その緊迫感は、空気中に張り詰めた見えない糸のように、

俺の全身を包んでいた。

その緊迫感が、塩辛い潮風と共に肌を刺し、

心臓の鼓動が耳の奥で太鼓のように響く。


タイムリミットがある、というシチュエーション。

心理的時間は重力場の影響による時間遅延効果を受けたかのように、

粘性を帯びて流れて―――いる・・。


タイムリミットという名の砂時計が、粒々と音を立てて落ちていく。

古い柱時計の切れたゼンマイが、最後の一回転を終えるように、

時間が止まりかけていた。

口ごもる雷鳴の時、遠い空で稲妻が紫色の血管のように走り、

重たい雲が腹に響く低音を孕んでいた。

もし後一分でも遅れていたらどうなっていたのだろう。

その問いは、夜明け前の暗闇のように俺の心にのしかかり続けている。


量子力学の多世界解釈における無数の平行宇宙の可能性のように、

俺の意識の中で無限に分岐し続けている。

シュレーディンガーの猫のパラドックスのように、

観測されなかった現実における舞ちゃんの状態は、

生と死の重ね合わせの中に存在し続けているのかも知れ―――ない・・。


抱き締めた時に小刻みに震えた、濡れた髪から滴る海水と、青白い唇。

冷たい身体の感触が、まるで氷の彫刻を抱いているかのように、

今も掌に残っている。

たとえば手術用メスの刃部分に触れた時のような、

生理的戦慄を誘発する金属的冷感。

おにーちゃんと慕ってくる、

小鳥のような声で笑う、保護欲や庇護欲を誘う舞ちゃんが、

海藻のように力なく、ぬいぐるみのように動かなくなる。

生後間もないツバメの雛が巣から落下した直後のように、

まるで電気回路のヒューズが切れた時のように、

目蓋の裏に焼き付いた、生気を失いかけた小さな顔。

あれは―――怖い体験だった。

内臓が凍りつくような、血が逆流するような恐怖。


重大事故が起こってから、そんなことを言っても、

割れた器は元には戻らない。どれほど後悔の言葉を並べても、

それは枯れ葉が風に舞うように虚しく散っていくだけだ。

悲しいだけだ。

取り返しのつかないことが起こる前に、大人は、

あるいは小さな子供を助けられる側は、もっと真剣に、

もっと神経を研ぎ澄まして考えておかなくてはいけないことだった。

砂浜にはライフセーバーもいる。

ユニフォームに身を包み、

日焼けした逞しい腕で双眼鏡を構えながら、

海を見守っている彼等の存在はこの上なく頼もしい。

だけれど、いつもライフセーバーが助けてくれるとは限らない。

この広い海のすべてをいつでも完璧に監視できるなんて、

監視カメラやAIの導入をしても難しいだろ―――う・・。

そして海は気まぐれな獣のように、牙を剥く。

心の中には、雲のような記憶の断片が去来している。

白い雲が青空を流れるように、様々な感情と思考が交錯する。

記憶の断片が、千切れ雲のように流れては消える。



マコちゃんは、明らかに自分自身を責めているようだった。

普段は快活な彼女の顔に、今は重い翳りが差している。

伏せられている彼女の長い睫毛の向こう側には、深い井戸があり、

その暗い影の奥には、

深海のような謎に満ちた二つの瞳がある。

瞳の奥で、何かが静かに燃えているような、

あるいは凍てついているような、孤独になりたがる人の心を、

そっと覗き込みたくなる。

触れたら壊れそうな硝子細工のような沈黙。


自分だけの孤独な世界に閉じこもりたがる人の心を、

じっと見詰めたく―――なる・・。

顕微鏡の対物レンズを四〇倍から一〇〇倍、

さらに四〇〇倍、さらに超高倍率四〇〇〇倍まで段階的に上げて、

細胞の微細構造を詳細観察したくなるような、

人のあまりにも複雑な心。

舞ちゃんのあわや水難事故という一件以降の昼間の作業は、

表面上は順調に進んでいた。

マコちゃんは海の家の通常作業に加え、レンタル品の点検・整理、

商品在庫確認、冷蔵庫内の飲料の補充、トイレと更衣室の清掃なども、

何か支障があったというわけではない。

しかし、マコちゃんのテンションは終始沈んでおり、

会話は必要最低限で、沈黙時間が増加し、

普段の明るさは影を潜め、声の大きさにいたっては半分ほどだった。

そして休憩時には海の方というより、

舞ちゃんのことをいつも視線の隅に入れて見守っていた。




それを気遣ってか、ボスや勇太がいつもより働いているように見えた。

俺も微力ではあるけれど、マコちゃんが無理をしないように、

彼女の穴を少しでも埋めようと努めた。

チームだからだ。

仲間だからだ。

肉体的ダメージに比べて、精神的ダメージはもっと根深い。

傍観者効果。

複数の人間が同一の状況を認識している場合、

個々人の行動開始の閾値は上昇し、

結果として誰も積極的な行動を取らない状態が発生することがある。

もしかしたら、団内の調和を維持するために、

批判的思考が抑制され、問題の直面が回避される『集団思考』とか、

メンバーが私的に状況を問題視していながら、

他者も同様に感じていることを知らないため、

公的には問題がないかのような態度を取る『多元的無知』

かも知れない―――。


だ。


それでも何とかしたいという気持ちがあるのだ。

しかし俺は何と声をかければよいのか、適切な言葉を見つけられず、

舌が口の中で固まったように動かない。

ボスも、勇太も、そんな彼女の様子を見ていながら、あえて何も言わない。

まるで申し合わせたかのような沈黙を見ると、

やっぱり何か心に深い傷跡を残すような、古い記憶の澱があるのだろう。

過去の亡霊が、部屋の隅で息を潜めているような・・・・・・。

慰めの言葉をかけてあげたい―――けれど、言葉は、

咽喉の奥で魚の小骨のように引っ掛かる。

元気を出して、と励ましてあげたい―――けれど、その言葉が、

どれほど空虚に響くか分かっている。

準備のできていない心にそんなことを言えば、

彼女を怒らせることも十分に考えら―――れた・・。


時には遠慮会釈なく、自分自身を責めることも、

生乾きの傷口に塩をすりつけるのも、

人間にとって必要な過程だ。

適切な危機と葛藤を経験することは、

健全な自我同一性の確立に不可欠だ。

魂の浄化作用。

そうでなければ、困難に直面した時に他人ばかりを責め、

自分の責任から逃れようとする根の腐った人間になってしまう。

人間は本当に反省し、

内省しなければいけない時というのがあるのだと思う。

骨の髄まで染み込むような後悔と対峙しながら・・・・・・。


一見明るそうに見えるマコちゃんにだって、

陽の当たらない影の部分があり、人生における通過儀礼があり、

それ相応の体験が刻まれている。

きっとそれは責任感が強い証拠、繊細な心の証という気もした。

蝶の羽のように脆く、美しい何か。

人それぞれ納得して次に進める。傷は時間が癒すという。

人はそれぞれ、自分なりの方法で納得し、次の段階へと歩みを進めていく。

しかし・・・・・・。


食事が終わって布団を胸まで引き上げ寝床に入った後でも、

箸を置く音さえ控えめだった夕食の静寂と、

マコちゃんの真面目な顔を思い出していたら、

―――いや、あれは真面目な顏じゃない、傷ついた顔だ。

割れた鏡に映る顔のような。

眼つきのよくない、とらえどころのない過去に魅入られた、

どす黒く腐った芯のある林檎にある虫食いのような眼。

瞳孔の奥で、何かが蠢いて―――いる・・。

あれはメンタルをやられている人の眼だ。

そんなことを思い出していたら、

眠気が霧のように遠のいた。

天井の木目が、暗闇の中で蛇のように這っている。

襖の銅の引手に手を掛ける。

冷たい金属の感触が、現実に引き戻す。


「はぁ・・・・・・なんか、寝れないなぁ・・・」



ボスや勇太は、マコちゃんを叱責したり責めたりするでもなく、

(もしそんなことをしたら、俺だって彼女を庇っただろうが、)

かといって、こんなこともあるさ、元気を出そう、

と簡単にまとめて片付けてくれなかったことも、

胸の奥に小石のようにつかえている。

とはいえ、自分に出来ないことを他人がやってくれるなんて、

虫のいい話だ。

二日目にして早くも一日目とは様変わりした、

表面上は明るいけれど、葬式のような湿っぽく重い夕食の時間。

味噌汁の湯気さえ、悲しみを運んでいるような気もした。

部屋全体が見えない病魔に侵されているような、

空気が澱んで腐敗しているような、ものういなやましさ。

人間は無意識レベルで他者の表情、身振り、

音調、姿勢を自動的に模倣するものだ。

壁にかかった時計の秒針が、異様に大きく響く。

それに、マコちゃんの影響力はそれだけ強い。

そっとしておいてあげたい、という気持ちなのだろう。

カール・ユングが提唱した『自然治癒力』の概念。

世の中には、何でもかんでも、

簡単に解決できるわけではない問題というものが存在する。

戦争だってそうだし、平和だってそうだ。

そして人の心の中だってそうだと思うのだ。

傷は、時に静かに抱えておくしかない。

それは長い、長い夜だった。

レントゲン写真が患者の胸部を透かして見るような、

すべてを見通してしまう透明で冷徹な夜だった。

部屋から静寂に包まれた廊下へ出て、

古い木造の床を軋ませながら、

トイレへ向かおうとした時、

がらがらと玄関の方から微かな音が聞こえてきた。

金属製ローラーが金属製レールの上を転動する際の摩擦音と、

木製扉が枠材に接触する際の衝撃音。

夜の月光が、廊下の床板を銀色の水溜まりのように濡らし、

影が長く伸びて、別の世界への入り口を報せる。


「ん?」


用を足した後、気になって玄関の方へ足を向けてみた。

陶器の便器の冷たさがまだ太腿に残っている。

確かに誰かが外へ出ていく音が聞こえた。

衣擦れの音、息遣い、扉の軋み。

気のせいではない。鼓膜がまだ振動している。

勇太か、ボスかな、と最初は思った。しかし・・・。


「・・・・・・」


時刻は既に零時を回っている。針が十二の文字を指し、

新しい一日が静かに始まる時間。

ちょっと気になったのだ。

胸騒ぎのような、蟻が背筋を這うような・・・・・・。

玄関を見渡すと―――ボスのサンダル、擦り切れた茶色の革。

舞ちゃんのサンダル、ピンクの花がついた小さなもの。

勇太のサンダル、スポーツブランドのロゴ入り。

自分のサンダル、買ったばかりの紺色・・・。

そこには、あるべき、一つのサンダルがなくなっていた。

マコちゃんの、白い鼻緒のついたサンダル―――が・・。



ざざざ・・・・・・。

ざざ・・・。


「ふぅっ・・・・・・」


外に出ると、潮の香りが肺を満たす。

家の中よりもはるかに濃厚だ。

マコちゃんが、海の家の前に設置された横長の木製のベンチに、

一人静かに腰を下ろしている。

彼女の細い肩のラインが、月光の下でほのかに浮かび上がっている。

軽度の猫背姿勢、頚椎の前屈約十五度、両手は膝の上で組まれ、

足首は約八〇度の背屈状態でつま先を砂地に軽く接地させている。

波は激しく打ち寄せることもなく、かといって完全に静止することもなく、

かすかな水音を立てながら彼方へ流れていくのでもない。

ただ緩慢に、互いにぶつかり合いながら揺れ動いている。

それはまるで、言葉を交わすことのない会話、

ウェーブ・トーキング。

水と水がぶつかり合い、泡を生み、また消えていく。

永遠に続く対話のように。

濃密なインキを満たした夜の海に浸っている、という気もした。

足首まで闇に沈んでいるような、空と海の境界線が消え、

世界が一つの巨大な深淵になったような夜。

声高に自己主張する芸術作品よりも、むしろ囁くように、

低く静かに呟く芸術を愛好する、そんなメランコリックな親和気質。

ドビュッシーの『月の光』のような、

印象主義音楽の繊細な和声進行を思い出す。

でも、真夜中に女の子が一人でこんな場所にいるのは、

やはり感心できない。

警察庁の犯罪白書によれば、性犯罪の約六八パーセントが夜間に発生し、

(午後一〇時〜午前六時)

特に人通りの少ない海岸部や公園などの開放空間での発生率が高い。

彼女の横顔が、古い絵画の中の聖女のように、悲しみを湛えている。

それがカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの代表作、

『海辺の僧侶』を想起させる。無限の海原を前にした孤独な人間の姿を通して、

存在の根源的な孤独と、それと同時に宇宙との一体感を表現している。

葡萄の種子を吐き出すその向こう側で・・・・・・。


  *



「夜は何も見えないでしょ?」


と俺は言う。

マコちゃんの声が、潮風に混じって耳朶を撫でていく。

その声音には、昼間の明るさとは違う、

どこか翳りのような色合いが滲んでいた。

足元の砂地は、日中の太陽熱により蓄積された、

熱エネルギーを徐々に放射している。

砂の熱容量は岩石系物質としては比較的小さいため、

日没後の冷却速度は速い。


海岸から三キロほど内陸に位置するこの小さな漁師町では、

零時を過ぎると世界は完全に海の支配下に置かれる。

潮風は塩化ナトリウムの結晶を無数に含んで肌に付着し、

遠くでディーゼルエンジンを唸らせる夜漁船の低周波が、

まるで巨大な生物の寝息のように空気を震わせて―――いる・・。



「タク、どうして」


ストン、と隣に座る。

座面の冷たさが、浴衣越しに太腿に伝わってくる。

木目に染み込んだ潮の匂いが立ち上り、

夜気の湿り気を含んだ空気が、肌にまとわりつくように流れていく。

ベンチの右端には『YUKI ♡ TAKESHI '95』という古いカップルの、

イニシャルが彫り込まれ、

(「これ絶対バカップルだな、そして別れた」と勇太が言い、

「いや、妊娠は兎の本能、子宝めぐまれ、ヤンキー無双(?)」と俺。

「いや、両親に結婚反対されて駆け落ち、

沖縄へ逃亡、のちに親と和解し、

いまはヤクザの事務所を継いでいる」とボスの一言)

左側には経年劣化で緑色に変色した苔が薄く付着している。

闇の中にぽっかりと口を開けている貝殻のような、マコちゃん。

月明かりが幻想的に薄く射し込む中で、

彼女の横顔がぼんやりと浮かび上がっている。

頬のラインが柔らかな曲線を描き、唇の端がかすかに震えている。

薄ぐもりの川の底のように、波打ち際が光っている。

遠く水平線の向こうで、漁船の灯りがぽつり、ぽつりと瞬いている。

光は水面で屈折し、スネルの法則に従って様々な角度に分散される。

時として強く、時として弱く明滅するその様は、

まるで巨大な生物の心臓の鼓動を可視化したようなリズムを刻み、

まるで星座を水に溶かしたようだ。

油を刷いたように鈍く光る金波、銀波。

月光が波頭を捉えるたび、液体の金属が流れるような光沢を放つ。

その輝きは一瞬で消え、また新たな波が同じような光を纏って現れる。

永遠に続く光の輪舞。


「誰かが出ていく音がたまたま聞こえたから」


自分の声が、思いのほか掠れていることに気付く。

咽喉の奥が少し乾いていて、

唾を飲み込む時の小さな音まで聞こえそうな静寂の中にいる。

と言ったあと、間を置いて、


「それに、寝れなかったんだ」


布団の中で天井を見上げていた時間を思い出す。

自分の部屋の天井には、小さなシミがいくつかあって、

それが暗闇の中では奇妙な形に見える。

まるで得体の知れない生物のような形に見えてくる。

それに眠れない夜には様々な音が異様に大きく聞こえ、

時間という怪物が俺を嘲笑っているように思える。

時には隣の部屋から聞こえる勇太のいびき、

(UFOの鼻歌はしないんだな? ペッパー警部なら、するかもよ)

時には遠くを走る車の音、時には猫の鳴き声。

普段なら雑音として処理される音が、

すべて意識の俎上に上がってしまう。

窓の外を見ると、街灯の光や月の光が、

薄いカーテンを透かして部屋に入り込み、

壁に微かな影の模様を作っている。

そんな中で、マコちゃんのことを考えていた。

彼女は今、何をしているだろう。

眠っているのだろうか。

それとも俺と同じように、眠れずにいるのだろうか、と・・・・・・。



「・・・・・・どうして、結構疲れているでしょ?」


マコちゃんの声に、心配そうな響きが混じっている。

彼女の視線が、横から俺の顔を見つめているのを感じる。

その視線の重さが、頬の辺りにほんのりとした温もりを残していく。

考えてみると、結構なシチュエーションだとふっと想い、

頬が赤くなるが、まあ夜だ。

血管の中を血液が駆け巡る音が、自分の耳にだけ聞こえているような気がする。

心拍が少し早くなっているのを自覚する。

海の家で働いている事情そんなの当たり前のことだが、

それでも人気のない海辺で、気になっている女の子と二人きり。

これがロマンチックでなくて何だろう。

映画『君の名は。』や『秒速5センチメートル』で見たような、

青春映画のワンシーンそのもの。

ただし現実はフィクションより複雑で、微妙で、予測不可能だ。

ぐっと胸に力を入れる。深呼吸をすると、潮の香りと、

どこか甘いマコちゃんの体臭、

シャンプーか何かの香りが混じって鼻腔に入ってくる。

肋骨が軋むような緊張。


「まぁ、なんというか、マコちゃんが気になってね」


言葉を発した瞬間、自分でもその言葉の持つ重量を感じる。

空気の中に、目に見えない何かが漂い始める。

勇太現象(?)


「へ?」


マコちゃんの小さな驚きの声。

息が少し弾んでいるのが分かる。

彼女の身体がほんの少し俺の方へ傾いたような気がして、

ベンチの軋む音が微かに聞こえる。

その音は乾いていて、まるで古い船の甲板を歩いているような気がした。

彼女の驚きの表情を想像する。

きっと眼を少し見開いて、唇を軽く開けているだろう。

頬には薄っすらと紅潮が広がっているかも知れない。

頭の中で、冷静な別の自分が呟いている。

どこからどう考えても、口説き文句か、ポエム(?)


夜中に女の子に向かって『気になる』なんて言葉を使ったら、

そりゃあ恋愛的な意味に取られるのは当然だ。

現代日本の高校生男子の恋愛アプローチとして、

この台詞は確実にベタの部類に属する。

場合によっては、馬鹿かも知れない。

SNSの恋愛相談サイトやYouTubeの恋愛ハウツー動画で、

頻繁に使用される定型句。

創意工夫に欠け、独創性はほぼゼロ。文学的価値もあまり高くない。

けれど、そんな言葉を言った俺の、

穴があったら隠れたい度数驚きの一〇〇〇〇パーセント。

どやねん(?)


「あっ、い、いまのは、そういう意味じゃなくて、

気になるっていうのは、心配! そう、心配っていう意味!」


慌てて手をひらひらと振る。

その動作で、夜風が顔に当たって、火照った頬を冷やしてくれる。

しかし、眼線が合わせられないのは、

どこかでやましさを感じているからだという気もする。

サンダルがなくなっているのを見てそっとしておく、

ということだって出来たのに・・・・・・。


眼を逸らした先には、砂浜に打ち上げられた海藻や、

漂流物が月明かりの中でぼんやりと見える。

ペットボトルのキャップ、誰かが忘れていった子供用のスコップ。

昼間は気づかなかった海岸のもう一つの顔だ。


わざわざ声をかけて、

こんな夜中に二人きりになる状況を作り出してしまった、

自分への複雑な気持ち。

友達として心配している気持ちと、

異性として意識している気持ちが、複雑に絡み合っている。

心臓の音が、太鼓のように響いている。


「舞ちゃんの一件以降、ずっと、マコちゃん元気なかったから、

その、ボスや勇太も、心配しているようだったし・・・・・・」


やばいぞ、何喋っても、

変なことを言っているような気分になる。

手のひらが少し湿っていて、それを無意識に浴衣で拭く。

その動作も、彼女に見られているような気がして、また恥ずかしくなる。


「いきなり、饒舌だな、やましいことでもあったの?」


やっぱり、見破られている。

マコちゃんの声に、いつもの茶目っ気が戻ってきている。

しかし、その茶目っ気の奥に、何か探るような響きも感じられる。

というか、近付いて上目遣いになるのやめてくれないかな。

一〇センチ、いや、もっと近いかも知れない。

彼女の瞳が、月明かりの中で潤んで見える。

長い睫毛が影を作って、その下で瞳が静かに輝いている。

鼓動が首筋にまで響いて、血管が脈打つのを感じる。

顔だって、きっと赤くなっているだろう。


「ううん、いまは心配しかしていない」

「いまは?」


マコちゃんの声が、少しからかうような調子になっている。

女性特有の直感的コミュニケーション能力。

右脳の直観的処理と左脳の論理的処理を統合した、

高次認知機能が発揮されている。

彼女の息が、かすかに俺の方向に流れてくる。

温かくて、少し甘い香りがする。

歯磨き粉の匂いかも知れない。


「もう、からかわないでよ!」

「あはは、ごめんごめん」


彼女の笑い声が、夜の静寂の中で鈴のように響く。

その笑顔を見ていると、浅瀬での舞ちゃんの一件以前の、

率直に言うなら朝、マコって呼んでよって言った、

あの屈託のない彼女が戻ってきたような気がして、少し安心する。

そのさ、と話を舞ちゃんの話へ戻す。

話題を変えることで、さっきまでの甘い雰囲気から少し距離を置こうとする。

でも、心の奥では、あの瞬間をもう少し続けていたかったという気持ちもある。

マコちゃんはいつも通りだったけど、

剥き出しに下卑た真似を演じているという気もした。

彼女の表情を注意深く観察していると、笑顔の端に、

ほんの少しの強張りがあることに気づく。

眼の奥に、何か押し殺したような感情が渦巻いているのが見える。

まるで舞台の上で演技をしているような、そんな印象を受けた。

マコちゃんのそれは空元気かも知れない。

人ってすぐに何でも話してくれる人ばっかりじゃない、

きっとその奥に、敵意を含んだような何かが待ち伏せしている。

防衛機制という言葉が頭をよぎる。

人は辛い現実から自分を守るために、

無意識のうちに様々な防御メカニズムを働かせる。

小さなトラウマほど見過ごされがちだが、

実は最も治癒困難で長期的影響を与える。

好ましくないことが起きると貪欲な嫌悪が起きて、

それが諸行為を呼び起こしているような気がする。

世界の輪廻のような車輪。

感情が行動を生み、行動が新たな感情を生み、

それがまた次の行動を引き起こす。終わりのない循環。


「俺だってちゃんと舞ちゃんを見てなかったわけだし、

だから自分を責めるのはもうやめにしない?」


自分の声が、思いのほか優しく響いているのに気づく。

マコちゃんの肩が、ほんの少し震えているのが見える。

スッと暗い声が聞こえた。

それは、彼女の奥底から絞り出されるような、重い響きを帯びていた。

まるで深い井戸の底から聞こえてくるような、

遠くて、暗くて、切ない響き・・・・・・。


マコちゃんが俯腑いているのが分かった。

月明かりの中で、彼女の髪が顔を覆い隠している。

肩のラインが、小さく丸くなって、

まるで自分を抱きしめるような姿勢になって―――いる・・。


「昔ね、友達が川の事故で亡くなったの。

小学校四年生の時。夏休みに友達と川に遊びに行って―――私は、

風邪で休んだの。でも友達は行って、それで・・・・・・」


マコちゃんの繊細な心の声が聞こえているような気がした。


「もし私が一緒に行ってたら、止められたかもしれない。

でも私は行かなかった。それがずっと心に残ってて・・・・・・」

だから今日の舞ちゃんの件で、昔の記憶が蘇ってしまったのだ。

彼女の涙の理由が分かった気がした。


「だから自分を戒めようって」


その言葉が、夜の空気の中に重く沈んでいく。

波音が、まるでその言葉に応答するように、

より深く、より低く響いている。

波の打ち寄せる音が聞こえてくる。

永遠に続く、海の呼吸。

ザザーン、ザザーン、という規則正しいリズムが、

彼女の告白を包み込むように続いている。

蝸牛の殻のような迷路は―――閉回路・・。


螺旋状に続く殻の内部構造を思い浮かべる。

一度入ったら出口の見えない、複雑で美しい構造。

小さな不安。それは彼女の心の奥深くに巣食って、

じわじわと広がっていく感情。

指先にささった薔薇の棘のように小さな、小さな不安。

しかし、その小さな棘が、時として最も痛々しく、

そして治りにくい傷を作ることを知っている。


「今でも、時々夢に見るの。あの夏の終わり。

誰もいないプールの水面が鏡みたいに凪いでて、

わたしとあの子―――沙希と、手を繋いで浮いてた。

ただそれだけなのに、あの記憶がずっと胸から離れないんだ」


彼女にとってとても大切な友達だったのだろう。

もしかしたら、マコちゃんは彼女と同じぐらいの友達を、

作れていないのかも知れない、とふと思った。

こんな思い出話、俺にするなんてそうとしか思われなかった。


「沙希はね、風みたいな子だった。

誰かと揉めることもなくて、笑って流して、

でも時々、すごく遠くを見るの。まるで、誰にも言えないことを

空に向かってそっと伝えてるみたいだった」


夜の海は冷える、病める魂のもの狂わしい譫言のように、

しかも喋る声さえ白日夢のような視覚と嗅覚に絡んで、冷える。

ありもしない海藻の匂い、塩の結晶、月光の冷たさ、

それらがすべてが混ざり合っ―――て・・。


海風が強くなって、マコの髪が舞い上がる。

髪の毛が一本一本、まるで生き物のように動いている。

彼女の体温が、俺の隣で少しずつ奪われていくのを感じる。

浴衣の薄い生地では、この夜風は寒すぎるだろう。


「その日の夜、沙希の家から電話が来たの。

台所の蛍光灯がやけに眩しくて、眼が痛かったのを覚えてる。

―――事故だったって。

誰も悪くない。誰にも責められない。

でも、わたしはあの時、何も出来なかったって、

何度も、何度も思った」


言葉が涙のように重い。

一呼吸。遠くで風鈴の鳴る音がかすかに重なる。

彼女の責任感の正体はもしかしたら、

後悔なのかも知れない、とふと思った。


「だから、わたし、舞のこと……ちゃんと守らなきゃって思う。

あの子の泣き声を聞いた瞬間、

まるで沙希の最後の声みたいに感じて、背中が氷みたいに冷えた。

あの時の後悔を、もう誰にも背負わせたくないの」


その言葉には、深い痛みと、それ以上に深い愛情が込められていた。

海への愛と、喪失への恐怖が、複雑に絡み合っている。

そして、マコはぽつりと言う。


「大好きな海に大切な人を奪われるのは、もう嫌だから」

「そっか」


短い言葉だったが、その中に彼女の痛みへの理解を込めた。

時として、多くの言葉よりも、短い言葉の方が心に響くことがある。

その言葉を発した後、しばらく沈黙が続いた。

波音だけが、二人の間の静寂を埋めている。

その沈黙は重くて、でも温かくて、お互いの存在を確認し合うような時間だった。

すっと立ち上がり、両腕を見せるように力こぶを作った。

夜風が服の間を通り抜けて、肌を冷やしていく。

筋肉に力を込めると、血流が良くなって、身体が少し温まる。


「え、何してるの」


マコちゃんの声に、困惑と、そして少しの笑いが混じっている。

俺の突然の行動に、彼女の重い気分が少し軽くなったようだ。

月明かりの中で、俺の影がベンチの上に落ちている。

腕を曲げた影が、地面にくっきりと道化のように映っている。


「俺も頑張るよ、こんなことが二度と起こらないように、

俺も自分を戒めるよ。でも元気出さなきゃ、

人生ではどんなことだって起きるんだから」


自分でも少し恥ずかしくなるような台詞だったが、

マコちゃんに元気になってもらいたい一心で口にした。

マコちゃんの笑い声が聞こえた。

それは、今夜初めて聞く、本当に心からの笑い声だった。


「ふふ、タクは変わってるね」


一拍置いた。

その間に、何か大切なものが二人の間を流れていくような気がした。


「吹っ切れるわけじゃないけど、

タクと話してたら元気出てきた」

「よかった」


彼女の声に、確かに生気が戻ってきている。

表情も、先ほどまでの影が薄れて、

いつものマコらしさが顔を覗かせている。


「わたし、もし男の子だったら、

迷わずタクの肩に寄りかかったな」


その言葉が、夜の空気の中に漂って、俺の心臓の鼓動を速くする。

彼女の言葉の裏には、

でも私は女の子だから、そうはいかないという意味が隠されている。

同時に、本当は寄りかかりたいという気持ちも、

込められているような気がする―――多分・・(?)


この種の仮定法を用いた発言は、リスク回避的な感情表現の典型例。

直接的な告白のリスクを避けながら、相手の反応を探る巧妙な心理戦略。


? (?)


「へ?」


思わず聞き返してしまう。彼女の言葉の意味を、頭の中で反芻している。

心の中で、様々な解釈が渦巻いている。

これは友情の表現なのか、それとも・・・・・・。


「ううん、何でもないの、

戻ろっか、心配かけてごめんね」


俺の反応を見て、マコが少し慌てたような表情を見せる。

彼女も、自分の言葉が持つ微妙なニュアンスに気付いているようだ。

頬が少し赤くなっているのが、月明かりの中でも分かる。

彼女の言葉はさっきの言葉を取り消すように、話題を変えようとしている。

でも、その言葉は既に空気の中に放たれて、俺の心に深く刻まれている。

けれど、確かに眼に少し元気が出てきたような気がする。

瞳の奥に、生命力のような輝きが宿っている。


「うん」


立ち上がろうとした時、

がらがらがら、と玄関の音がけたたましく響き、

タッタッと走ってくる音が聞こえた。

夜の静寂を破って、急に現実的な音が響き渡る。

と、ボスの声が聞こえた。


「あった。やばいぜー、家の鍵あったー。

てっきりなくしたかと思ったぜ、

ウルトラマンにお願いするところだったぜ、

いや、仮面ライダーにお願いするところだったわ、

もうこうなったらガンダムにお願いするしかないって、

おもったぜー、ドラえもんがちきゅうはかいばくだんを、

四次元ポケットから出すような、ハプニングだぜー(?)」



(?)

ワッハッハー、とかわけのわからないテンション。

その陽気で少し呂律の回らない声を聞いて、

現実に引き戻される。大人の世界の、何とも言えない滑稽さ。

真剣な話をしていた直後だけに、そのギャップが際立っている。

ボスの声は大きくて、夜の静寂の中では異様に響く。

近所迷惑を考えているのだろうか。

でも、酔っぱらいにそんな配慮を求めるのは無理な話かもしれない。

特撮ヒーローへの言及は、昭和世代男性の典型的な酩酊時発話パターン。

アルコールにより前頭前皮質の抑制機能が低下し、

幼少期の記憶が表層化している。

千鳥足の影が、月光の下でタップダンスのように揺れ、

楽しそうで何よりだと思う。



(?)



「って、ちょっ、なんで隠れるの?」


ベンチから藪に身を潜める。

葉っぱのざらざらした感触が頬に触れて、

土の湿った匂いが鼻に入ってくる。

土の匂いは湿っていて、蚯蚓や小さな虫達の存在を感じさせる。

気分は夜行性の鳥か、警戒心の強い猫だ。身を隠すという行為が、

何か原始的な本能を呼び覚ましている。

随分前に公園のベンチに座ったら、

足下から巨大なウシガエルが出て来たのを思い出した。

あの時の、突然の驚きと、その後の可笑しさ。


勇太が言ってたのをふと思い出す。

マムシ注意の看板で、うわーここマムシいんのかよって思ったら、

イノシシ出てきたんだよ、いやマジで(?)


「わからない、なんか反射的に・・・・」


彼女はそう弁解する、わけがわからない。

ただ、この瞬間を、

大人達に邪魔されたくないという気持ちみたいなものだろうか。

それとも約七〇〇万年前、人類がまだ樹上生活をしていた頃の遺伝的記憶が、

脳の深部構造に保存されている可能性もあるのだろうか。

でも、とマコちゃんがこっちを見てくる。

息がかかるほど近い距離で、彼女の瞳が俺を見つめている。

新たにそこに芽生えてくる、

磁石のN極とS極のような、男女の不思議な引力。

これまで決して体験することのない親密さ。

心臓の音が、お互いに聞こえそうなほど近い距離。

隠れるという行為が、二人の距離を一気に縮めてしまった。


「でも見つからない方がいいでしょ、

また眠れなくなっちゃうよ」


彼女の声が、耳元で悪戯っぽく囁くように聞こえる。

吐息の温かさが、首筋に触れて、身体を駆け抜ける電流のような感覚。


「確かに・・・」


二日連続の絡み酒は俺だって嫌だ。

だが、それはもっともだが、

よりによってこんな密着するなんて・・・。




彼女の体温が、服越しに伝わってくる。

神経がすべて研ぎ澄まされ、

ロッカールームに男女が閉じ込められたように肌が過敏になっている。

柔らかな身体の線が、俺の腕や胸に触れている。

もぞっと、動くと、太腿や胸の感触が伝わってくる。

彼女の身体の柔らかさ、温かさが、直接肌に伝わってくる。

薄暗がりの中で、悩ましい肢体。

月明かりが、彼女の輪郭をぼんやりと照らし出している。

浴衣の襟元から覗く白い首筋に、少し乱れた髪。

上気した頬、すべてが官能的に見える。

浴衣の衣擦れの音もやらしい。

シャリ、シャリという音が、静寂の中で異様に官能的に響く。

いまや無敵の股間は、

既に親殺しのレベルに達している不思議(?)


(?)


「ちょっ、これ以上くっつかれると・・・」


声が震えている。身体の反応を抑えきれない自分への戸惑い。

ガサササ、音がした。

枝が風で揺れる音か、何かが動いた音か。


「ん、いまなんか、音が?」

と、ボスが気付く。

やばい・・・。

見つかったら、この状況を説明するのは不可能だ。

夜中に、娘と同世代の男が一緒に藪の中に隠れている。

どんな説明をしても、誤解を生むだけだろう。

猫の声真似でもしようかと思ったら、


「あぁ、風で枝でも飛んで来たのか、

まあいいもう一杯飲んで、寝るかー、

マジンガーZのようになー、ワハハー、

いくぜ、やるぜ、ゲッターロボ!(?)」



。安堵の息が、思わず漏れる。

パッと離れながら、お互い気恥ずかしい。

突然の距離の変化が、身体に妙な違和感を残している。

さっきまでの密着状態から一気に離れることで、

身体が急に寂しさを感じているのだ。

腕にあたった胸の感触もくっきりと残っていたし、甘い体温や、

匂いが、ドライヤーを終えた脱衣場のように残っている。

その温もりと香りが、まるで彼女がまだそこにいるかのように、

身体に刻まれている。

頭上に身体が軽くなっていくような月を横切る大旅客機。

遠い空を静かに進んでいく光の点。

恋人同士、家族、ビジネスマン、観光客。

それぞれが、それぞれの物語を持っていて、

そこには、知らない人達の人生が詰まっている。

世界が終わる夢から覚めて見にゆこう―――よ。

現実と夢の境界が曖昧になるような、不思議な夜。

心臓に直撃するような、強烈な感情の波。

恋愛感情、性的な魅力、友情、心配。

どれも一筋縄ではいかない様々な感情が混じり合って、

胸の奥で渦巻いている。


「あ、」

「ご、ごめん」

「しょ、しょうがないよ」


お互いの声が重なって、そして途切れる。

言葉にならない感情が、空気の中に漂っている。


「わたし達も、戻ろっか」

「う、うん」


歩き始める二人の足音が、夜の静寂の中で小さく響いている。

少し離れた距離を保ちながら、

しかし心の距離は、さっきよりも近くなったような気がしていた。

夜の闇が、普段見慣れた景色を変えている。

街灯の光、月明かりが作る影、風で揺れる木々や草木、

遠くで鳴く虫の声、波音。

すべてが、特別な意味を持っているような気がする。

波の音だけが、いつまでも二人を追いかけ、

マコちゃんの部屋の硝子細工が優しく揺れ―――る・・。


  *



📸 Instagram Story - AM 7:00

画像:硝子細工の思い出

caption:昨日は接客に至らないところがあり、

申し訳ありませんでした🌅

今日も愛と真心をこめた接客💙

#感謝 #海の家


♡ 202 💬 8 📤


コメント:

@dad_mochizuki: マジンガー( `ー´)ノ

@mako_beachhouse: @dad_mochizuki 

 お父さん、まだ酔っ払ってるの!?

@yuta_local: 今日も頑張ろうぜ😏

@mako_beachhouse: @yuta_local

 うん、アンタが言うとムカつくけど、頑張ろう👏

@takumi_uminoie 頑張ろうね☀️

@dad_mochizuki: 出陣ジャー( `ー´)ノ

@yuta_local: ボスはまったく、たまらんぜ😏

@takumi_uminoie でも、何かいいね、こういうの☀️

@mako_beachhouse:@takumi_uminoie

 タクのおかげだね、チームワーク抜群だもん、うちら。

 あと、昨日はありがとうね。

@yuta_local: ちょっと待って、昨日って何😏

@dad_mochizuki: 藪に隠れてたことかー( `ー´)ノ

@mako_beachhouse: @dad_mochizuki 

 え、お父さん、気付いてたの!?

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