第6話

翌日もまた、

空は透明な青磁の釉薬を流し込んだかのような快晴だった。

地平線の彼方まで続く紺碧の海面は、

陽光を受けて無数の銀鱗のような煌めきを放ち、

波頭の白い泡沫が刹那的に生まれては消えていく。

潮風は塩分を含んだ湿った空気となって頬を撫で、

遠くから聞こえる波音が規則正しいリズムを刻んでいる。

日常の風景に海が存在するという現実は、

まるで異世界に迷い込んだかのような、

不思議な感覚を呼び起こす。


近くの岩場では、ムラサキウニ、アオウニが海藻を食べ、

イソギンチャクが触手を揺らしている、

と、朝食の時に望月さんが教えてくれた言葉がよぎる。


イギリス南西部、

エクセター大学の心理学研究チームが発表した論文によれば、

沿岸都市部の住民は内陸部の住民と比較して、

うつ病や不安障害といった精神疾患の発症率が、

統計的に有意に低いという。

海洋性気候がもたらす負イオンの効果、

そして水平線を眺めることで生まれる心理的な開放感が、

脳内でセロトニンの分泌を促進し、

結果として精神的な安定をもたらすのだという。

無用の美なんてとんでもない。


​つまり―――リア充製造機、

太陽が好き、子供は風の子、

リア充女の尻追い掛けるの法則(?)

そして夏が終わると煙になる、馬鹿だから(?)

​​​​

​​​​アサヒィスゥパァドゥルァァ​ァァイ​・・・!


「こんにちはー! かき氷いかがですかー!」


望月さんの声が、潮騒と混じり合いながら、

海風に乗って運ばれてくる。

彼女の声質は清涼感のある鈴のような音色で、

聞く者の心に爽やかな印象を残す。

今日もまた、白地に青いストライプの入ったエプロンを腰から外し、

首からは手書きの価格表が記されたホワイトボードを紐で下げている。

頭には「BEACH HOUSE」の文字が刺繍された紺色のキャップを被り、

その下から栗色の髪が柔らかくカールを描いて頬にかかっている。

先程まで彼女は、狭いキッチンスペースで氷を削る機械を操作したり、

キッチンの鉄板で焼きそばを炒め、

ジュウジュウと音を立てさせていたかと思えば、

レジカウンターで客との金銭のやり取りをしたりと、

忙しく立ち働いていた。

望月さんは、一人で複数の仕事をこなすマルチプレイヤーだ。

その動作は無駄がなく、

長年の経験に裏打ちされた熟練の技を感じさせる。

ところで、昨日との相違点がある。

それは舞ちゃんがいること―――だ・・。


「おねえちゃん、あそんで!」


舞ちゃんの声は、まだ幼さの残る高い声調で、

甘えるような響きを含んでいる。

その年頃の子供というものは、

大人からの注目と愛情を強く求める時期なのだろう、

という直感的な理解が胸に浮かぶ。

仕事をする、お金を稼ぐ、それが生活に影響するというのも、

まだ、きちんと理解できていないのかも知れない。

構ってもらいたい子供の気持ちが分かる反面、

その言葉が空振りするだろうなという予感はあった。


昨日、俺達は一緒にお人形遊びをした。

俺がパパ役を演じ、舞ちゃんはママ役とムスメ役を、

一人二役で器用にこなした。

舞ちゃんが「ママは仕事してるから、ムスメはお留守番なの」

と言い出す場面は、彼女の理解力の高さを想起させる。

だからさっきの、

「おねえちゃん、あそんで?」

という言葉も、一応言ってみようということなのかも知れない。


発達心理学における『愛着理論』では、

舞ちゃんぐらいの年齢は安全基地としての大人への依存と、

自立への欲求が共存する時期だ。

エリク・エリクソンの心理社会的発達段階論では、

『勤勉性対劣等感』の段階にあたり、承認欲求が特に強い。

まだ子供だけれど、そういう子供時代を生きた自分にも、

一つや二つ、身に覚えがある。いや、身につまされる。


ところで登場人物はすべてぬいぐるみであり、

パパは緑色のビロードで作られた甲羅を持つ亀、

ママは白いファーに桃色の内耳を持つうさぎ、

ムスメは茶色い毛玉のような小さな犬のぬいぐるみであった。

この家族、明らかに何かがおかしい。

だが、子供にとって、世界そのものが役割劇でできていて、

大人が思うような論理的な枠組みなど、

彼等の空想には関係なく、

その無秩序な創造性が、

遺伝子の新しい可能性の模索のようにも思えてくる。

途中から、ニヤニヤと人を食ったような笑みを浮かべた勇太が、

土地の地上げ屋という唐突な役柄で参加してきたのだが、

何故かくじらのぬいぐるみを使っていた(?)

いやいや、それも通常運行。

それを微笑ましく見守っていた望月さんが、

今度はヒットマン役で物語に加わったのだが、

彼女もまた何故かたぬきのぬいぐるみを手にしていた(?)

   

   

―――


ボスも笑い声が気になったのか俺達の様子を見に来たが、

プライドが邪魔したのかどうかは分からないが、

けしてぬいぐるみには手を伸ばさなかった(?)

蛇や、かもめ、それからイリオモテヤマネコ、シャチ、

象やコアラ、それだって売れ残りというわけじゃない。


「(ボスなら―――蛇やシャチあたりもいいが、舞ちゃん相手に、

俺や勇太がいるので、可愛い声を出すのを躊躇った―――、

という可能性が存外―――あたりか・・・)」


結果的に勇太と望月さんによる妙な味付けによって、

シュールな犯罪ドラマのような展開になってしまったが、

ふっとドナルド・ウィニコットの移行対象理論の実践例を思い出す。

ぬいぐるみという中間対象を通じて、

現実と幻想の境界を学習する。

亀のパパは長寿と安定性の象徴、

うさぎのママは多産と母性の象徴、

犬のムスメは忠誠心と愛情の象徴として、

無意識的に選択されている。

勇太の地上げ屋役は、社会的役割の模倣学習の一環だ。

くじらという海洋哺乳類の選択は、

この海辺環境との関連性を示している―――かも知れない(?)

勇太の地上げ屋役をきっかけに、ボスが饒舌に補足情報を入れ、

実際の町の開発計画や観光資本との摩擦をリアルに語り始め、

異様に殺伐としたミステリーの舞台は整ってしまった(?)


望月さんのヒットマン役とたぬきの組み合わせは、

日本の民話的要素である化かし合いと、

現代的な職業概念の融合を表している―――かも知れない(?)


昔、正義って何か分からなくなったことがあってね、

と望月さんは語ったが、白と黒は立場次第で正反対にもなるから、

正義はイメージ語みたいだ。勧善懲悪や因果応報だって、

この国の高等民族の犯罪を隠蔽するし、

正義の味方の警察が無実の人を殺してしまうこともある。

しかしもちろん、そんな感傷が一石を投じる必要性など、

子供らしい、このぬいぐるみ遊びにまったく必要なかった(?)


しかしそれは海辺の町という舞台で繰り広げられる、

寓話的な現代の神話―――だ・・。


「ねえ、パパ。ムスメは、もう遊びたくないの」

最後に舞ちゃんがそう言った時、俺は少しだけ息を呑んだ。

というか、俺は一体どんなドラマを見せられているんだろうと、

頭を掻きむしりたい気さえ、した。

亀のぬいぐるみをそっと床に置き、

彼女は海の方をじっと見つめていた。

その瞳には、昨日までの無邪気さとは違う、

何かを知ってしまった者の静けさがあった。

望月さんは、たぬきのぬいぐるみを手にしたまま、

「灯台、昔はあったんだよ。あの岬の先に」

と呟いた。

「でも、観光客の邪魔になるって言われて、壊されちゃった」

ボスは黙っていた。

ただ、くじらのぬいぐるみを見つめていた。

その目は、何かを語りかけるようで、

何も語らないようでもあった。


そして、そっとボスが立ち上がり、

アイスを食べようかと言った、食べるー、と舞ちゃんが言った。

無垢と暴力の境界は、そのように簡単に更地になってしまった。

俺や勇太や望月さんの一瞬の別の言葉など、

子供の世界には必要ない―――のだ・・。


「ごめん、舞、いま仕事中だから、

少しだけ一人で遊んでて、休憩に入ったら遊ぶから」


望月さんの表情は優しさに満ちており、

無下に切り捨てるような言い方はしない。

理想的な姉の姿を体現している。

あるいは聖母的な母親役を。

しかし彼女は仕事と私事を明確に区別する、

大人としての責任感も併せ持っている。


舞ちゃんの顔に、微かな不満の色が浮かぶ。

下唇を少し突き出し、眉間に小さな皺を寄せた表情は、

遊んで欲しいという欲求を無言で訴えかけている。

むくれたくなる気持ちも分かりつつ、

これが大人と子供なんだよなあという気もした。

確かに俺も望月さんも子供だけど、

働くことで大人の顔をする。

それはもしかしたら、仮面を付け替える劇のようなものかも知れない。

とはいえ、子供というものは、

過度に構われても健全な成長を阻害され、

かといって放置されすぎても愛情不足から問題を起こす、

という微妙なバランスの上に存在している生き物。

忍耐を学ぶことは重要だが、

同時に自分の意見を表明することができない、

そういう大人へと成長してしまう危険性も孕んでいる。

俺は両者の間に立ち、仲裁者の役割を果たすことにした。


「あとで俺と水遊びしよう」と言うと、

「はぁい」

と舞ちゃんの顔が、まるで花が開くように明るい笑顔に変わった。

子供の感情の変化の速さと純粋さに、驚かされる。

性格悪い芸能人が、自分の都合のいい相手にだけ、

愛想良く振舞うのとは全然違う。

と、そこで望月さんが俺に声をかけてくる。

ふわぁ、と小さな欠伸が口から漏れた瞬間、

望月さんの唇が三日月のような形に曲がり、

楽しそうな笑い声が咽喉の奥から湧き上がってくる。


「昨日はお父さんの相手、お疲れ様。

というか、途中から、絡み酒の相手みたいになってたけど」


見てたのなら止めてよと思う。

いや、怒りたい気持ちもないわけもないのだが、

―――彼女の瞳の奥まで笑いの光が宿っていて、

その愛らしさに怒りなど吹き飛んでしまう。

笑顔は世界を救うというように、様々な研究も思い浮かぶけど、

率直に、底知れないエネルギーというのを感じる。


ボスは望月さんの子供時代の写真を手に取り、

「欲しいだろう、家宝にしたいだろう、しかし、やらん」

と何度も執拗に繰り返した。

その度に俺は、本当に盗んでやろうかという不謹慎な考えが、

頭をよぎったのも事実である(?)


「んもう、望月さんのせいだよ」

そう言った瞬間、彼女の瞳が咎めるような光を帯びる。

眉が僅かに寄せられ、唇が小さく尖る仕草は、

まるで拗ねた子猫のようである。

「舞は名前で呼んでたのに、わたしは苗字なんだ」

そう言いながら、彼女は俺との物理的距離を縮めてくる。

都心部の高級コーヒー店の価格設定を参考にした、

絵画セールスが-ルのような巧妙な心理的アプローチ、


(?)

違う、フット・イン・ザ・ドア・テクニック。


人間というものは、本来あるべき自分の立ち位置から逸脱している時、

離れていることへの不安として空間的な隔たりを感じるもの。

心理学でいうところの心理的距離、

社会的距離といった概念がここに当てはまる。



女性は匂い袋(?)



「ねえ、マコ! マコって呼んで!」


何だか急にサザンオールスターズの歌が、

流れ始める不思議(?)

いや、実際のスピーカーからはまったく異なる曲が流れていたし、

あれは確か『チャコの海岸物語』だったはずである。

田原俊彦を参考にしたということだったはずだけど、

何故か、頭の中ではタイ人とかベトナム人あたりの、

拙い日本語を想起させる。

不可思議ワンダーランドな南国感の極致、

そしてそういう解説は一切いらないのに書きます(?)

あと、俺はシャコみたいに猫背でありながら、

海老ぞっている(?)

でも漫画やゲームでは知らなかった、

夏の海ではスピーカーからこんな歌も流れるのだ。


夕方、山下達郎が流れるとじーんとする不思議、

英語の歌詞が流れてくると、

瞬時にして異国情緒に包まれる、

わびさびとか、もののあはれなんか一切ない、

もっとプリミティブで、もっと混沌とした、

感覚のジャングル(?)


―――というようなことを盛大に打ち上げ花火したのは、

え? という一語で表せる。

強烈な戸惑いの時のヒトの思考回路は水走りする忍者であり、

それはもちろん、イグアナである(?)


「え、えっと―――ま、マコちゃん」


ふふっと笑うと、胸元にパシパシとスキンシップしてくる。

この身体的接触を通じて、女性は男性の記憶に、

自分の存在を刻み込んでいくのである、

という愚かしい考えが脳裏をよぎった。

だが、陽キャと陰キャという立場が接触すれば、

そのようなことは通常範囲内の出来事である。

リア充女性の生物学的魅力は、進化心理学でいう、

『性的選択理論』に基づく。

健康的な肌の色艶、均整の取れた体型、

活発な行動パターンは、繁殖適応度の高さを示す、

シグナルとして機能する。

夏季の開放的な服装は視覚的刺激を増加させ、

男性の脳内でテストステロン値を上昇させる。


「よくできました! さあ、今日も稼ごう、タク」



思考停止する不思議、

そんなオリジナルの呼び方、ちょっとズルい・・・。

しかし、もしもボスにこの呼び方を聞かれでもしたら、

一波乱は避けられない。

それだけでまた絡み酒の相手をさせられることになりそうな予感が、

胸の奥にほんの少しだけ芽生えるのであった。


朝食の時、望月さんが、夕方になると、

海面に『グリーンフラッシュ』と呼ばれる緑色の光が、

一瞬見えることがあると教えてくれた。

これは太陽光の屈折現象により、

緑色の波長だけが最後に見える光学現象だ。


​​​

​​​​アサヒィスゥパァドゥルァァ​ァァイ​・・・!(?)



  *


📸 Instagram Story - AM 10:00

画像:レインボーかき氷

caption:限定十名のレインボーかき氷、完売しました!

ありがとうございました✨

かき氷メニューの人気No.1はブルーハワイです💙

#感謝 #海の家


♡ 81 💬 8 📤


コメント:

@dad_mochizuki: 娘よ、写真うまくなったな

@mako_beachhouse: @dad_mochizuki 

 お父さん、インスタやってたの!?

@yuta_local: ふっ、素敵すぎるぜ😏

@mako_beachhouse: @yuta_local

 アンタは!仕事をして💦

@dad_mochizuki: 娘よ、こいつは誰だ?

@mako_beachhouse: @dad_mochizuki 

 お父さん、焼きとうもろこしの人よ!?

@yuta_local: もう新人にインスタ暴露するぜ!

@mako_beachhouse: @yuta_local

 え、タクってインスタグラムしてるの?



  *


🎮分岐型ノベルゲーム風シナリオ


―――午後2時47分、監視塔より


俺の名前は田中。この海岸でライフセーバーを始めて3年目になる。

日本ライフセービング協会認定の、

ベーシック・サーフ・ライフセーバーとして、

今日も命を預かる重責を背負っている。

今日も今日とて、変わらない夏の午後。

気象観測装置のデジタル表示は容赦なく現実を告げている。

気温37.2度、湿度78パーセント、南西の風3.4メートル毎秒、

波高1.2メートル、水温26.8度。

UV指数は非常に強いを示す赤いランプが点滅している。

海況は表面上良好だが、離岸流の発生しやすい気象条件が整いつつある。

双眼鏡—ニコン製の防水仕様、

倍率10×42—を手に取り、海面を系統的に走査する。

レンズを通して見える世界は、現実よりも鮮明で、同時により残酷だ。

視界に入るのは典型的な夏の海岸風景。

家族連れは色とりどりのパラソルの下で団欒し、

カップルは波打ち際で写真を撮り合い、

大学生らしき若者のグループがビーチバレーに興じている。

彼等の笑い声が潮風に乗って運ばれてくる。

みんな楽しそうに海を満喫している。

海の家の前では、いつものようにマコトさんが働いている。

そして―――あの小さな女の子、舞ちゃんがいる。

舞ちゃん人懐っこくて、よく俺にも手を振ってくれる。

今日は浮き輪を持って、浅瀬で遊んでいる。


―――午後3時12分


双眼鏡の視野を調整し、焦点を合わせる。

舞ちゃんの位置を目視で測定する。

岸から約30メートル、水深は推定1.8メートル。

まだ浮き輪に捕まって、楽しそうに波に揺られている。

彼女の表情に恐怖の色はない。

むしろ、未知の冒険を楽しんでいるようにさえ見える。

しかし、俺の経験がアラームを鳴らしている。

舞ちゃんは確実に沖に向かって流されている。これは離岸流だ。

離岸流—リップカレント。

海岸に打ち寄せた波が沖に戻る際に形成される、

幅10〜30メートル、流速毎秒1〜2メートルの強い流れ。

泳力のない者にとっては死の罠となる。

俺の脳内で緊急事態対応プロトコルが起動する。

しかし、同時に冷静な分析も行われる。

舞ちゃんはまだパニック状態ではない。浮き輪もある。

すぐに生命の危険があるわけではない。


【第一分岐点】

A) すぐに行動を起こす

B) もう少し様子を見る


🎮 ルートB選択:「もう少し様子を見る」

【3分後...】


俺は双眼鏡を構えたまま、舞ちゃんの様子を観察し続ける。

レンズ越しに見える彼女の表情は、

まだ無邪気な好奇心に満ちている。

小さな手で浮き輪の縁を握り、波のリズムに身を任せている姿は、

まるで海の揺り籠で眠る子供のようだ。

まだ大丈夫だろう。

この判断の根拠を俺は心の中で整理する。

舞ちゃんは浮き輪を正しく装着している。浮力は十分だ。

泳ぎも上手だと聞いている。

マコトさんから「舞は水泳教室の子より泳ぎが上手」

という話を聞いたことがある。少し沖に出ているが、

まだパニックにはなっていない。

パニックが最も危険な要因だ。

冷静でいる限り、救助の可能性は高い。


マコトさんも気づいていないようだ。

店の奥で何かしている。

俺は他の海水浴客にも注意を払わなければならない。

若い男性グループが少し無茶な遊び方をしている。

一人が他の仲間を肩車して海に投げ込む、

いわゆるチキンファイトだ。

これは頸椎損傷のリスクが高い危険行為だ。

そちらにも目を配る必要がある。

俺の左耳に装着したイヤホンから、

定期的に他セクターの報告が聞こえてくる。

「セクター1、遊泳者数約120名、特記事項なし」

「セクター2、日傘が強風で飛ばされ海上に。回収作業中」

「セクター4、前時報告の接触事故、軽傷者の処置完了」


平和な午後の海岸。しかし、俺の胸の奥では何かが蠢いている。

第六感というほど神秘的なものではない。経験に基づく直感だ。


―――午後3時18分


腕時計のアラームが静かに振動する。

5分おきに設定した自主的な巡視時間の知らせだ。

俺は再び双眼鏡を構える。

舞ちゃんの位置が—明らかに危険域に入っている。

岸からの距離は約50メートル。水深は推定3.2メートル。

これは完全に遊泳禁止区域だ。

海底の地形図を頭の中で思い浮かべる。

この位置は急に深くなる場所だ。離岸流の勢いも強くなる。

舞ちゃんの表情が変わった。

さっきまでの無邪気な笑顔が消え、

きょろきょろと周囲を見回している。

距離感がつかめず、岸が遠く感じているのだろう。

恐怖の兆候が現れ始めている。

俺の心拍数が上がる。


海面を見る俺の目に、不吉な兆候が映る。

舞ちゃんの周囲の水面が、他の場所と微妙に異なる色をしている。

深緑色、深い海域特有の色だ。

そして、彼女の周りを流れる水の動きが、

明らかに岸向きではなく沖向きだ。

離岸流の勢いが増している。

流速は推定毎秒1.5メートル。

大人でも抗うのが困難な速度だ。


【第二分岐点】

A) 今すぐ救助に向かう

B) まず無線で他のライフセーバーに連絡する


🎮 ルートB選択:「まず無線で他のライフセーバーに連絡する」

【連絡中...】

「田中です。緊急事態発生。セクター3、

小さな女の子が離岸流で流されています。

7歳、浮き輪装着、岸から50メートル沖合。応援を要請します」

無線の向こうから、わずかなノイズと共に返事が返ってくる。

「こちら山田。セクター1で溺者発生中。

成人男性、意識不明で心肺蘇生処置実施中。

今は動けない。救急車と海上保安庁への通報済み」

山田は経験15年のベテランだ。

彼が動けないということは、相当深刻な事態だ。

続いて別の声が聞こえる。

「佐藤です。セクター5、了解しました。そちらに向かいます。

到着予定時刻は―――約5分後です」

佐藤は俺より年下だが、水泳の実力は上だ。

しかし、彼のいるセクター5は海岸の反対端、

約800メートル離れた場所だ。

全力で走ったとしても到着まで最低でも5分はかかる。

その間に舞ちゃんはさらに沖に流される。

俺の手のひらに汗が滲む。無線機のグリップが滑りそうになる。

「本部、こちら田中。状況は刻一刻と悪化している。

対象者は7歳女児、泳力は限定的。単独救助の許可を求める」

「本部です。田中さん、救助艇の出動も検討しますが、

到着まで8分かかります。現場の判断に委ねます。

ただし、単独救助の場合は十分注意してください」


―――午後3時22分


無線による連絡調整で貴重な時間が砂のように経過した。

その間、舞ちゃんは確実に沖に流され続けている。

俺は双眼鏡で彼女の様子を確認する。状況は明らかに悪化していた。

舞ちゃんの表情が一変している。

さっきまでの困惑から、明確な恐怖に変わっている。

小さな眉がハの字に下がり、口元が震えている。

浮き輪を握る手の力が強くなり、指先が白くなっているのが見える。

そして最も危険な兆候、彼女が浮き輪から手を離しそうになっている。

恐怖によるパニック反応だ。

子供は恐怖を感じると、しばしば浮力体を手放してしまう。

これは溺者の典型的な行動パターンだ。

周囲の海水浴客は誰も気づいていない。

最も近い位置にいる中年の男性、推定40代、子供連れでさえ、

岸から約20メートルの場所で自分の子供に気を取られている。

舞ちゃんの位置は彼らの視界の外だ。

マコトさんも店の中だ。


海面の状況をもう一度分析する。風向きが微妙に変わっている。

南西から西南西に。この変化により、

離岸流の方向がわずかに東にずれている。

舞ちゃんは沖に流されると同時に、

隣のセクターに向かって流されている。

これは救助作業をさらに困難にする。

波高も少し上がっている。1.2メートルから1.4メートルに。

わずかな変化だが、小さな子供には大きな影響を与える。

波が彼女の顔にかかり始めている。


【第三分岐点】

A) 一人で救助に向かう

B) 大声で周囲に助けを求める


🎮 ルートB選択:「大声で周囲に助けを求める」

【最悪のシナリオ】

「助けて! 小さな女の子が溺れています!」

俺は監視塔の上から、海岸に響く大声を張り上げる。

訓練で鍛えた腹式呼吸により、声は最大音量に達する。


「助けて! 海上で事故発生!

小さな女の子が溺れています! 誰か助けてください!」


しかし、俺の声は容赦ない現実によって阻まれる。

海岸特有の環境音、波音、風音、

そして人々の歓声が混じり合った音響の壁だ。

俺の声は風にかき消される。

そして人々の歓声。子供たちの笑い声、若者たちの騒ぎ声、

家族連れの会話、これらが混じり合い、

俺の警告を音響的にマスキングしてしまう。

数人が振り返るが、状況を理解するまでに時間がかかる。


―――午後3時25分


俺の絶叫から約2分が経過。

ようやく数人の海水浴客が状況を理解し始める。

その時、最も恐れていた事態が発生した。

舞ちゃんが浮き輪から離れた。

双眼鏡越しに見える光景は、俺の網膜に永遠に焼き付くことになる。

小さな手が必死に水面を叩いている。

医学的に溺者反応と呼ばれる典型的な動作だ。

腕を水面上に持ち上げ、下向きに押し下げて浮力を得ようとする本能的反応。

しかし、この動作は実際には浮力を妨げ、沈没を早める。

何かを呟いている声。でも、誰にも届かない。


海水浴客の一人、30代と思われる男性、

体格は中肉中背が、状況を理解し、海に向かって泳ぎ始める。

しかし、彼と舞ちゃんの距離は約40メートル。

しかも彼は一般的な遊泳者であり、離岸流に対する知識も技術もない。

離岸流から脱出するには、流れに対して直角に泳ぐ技術が必要だ。

しかし、多くの一般遊泳者は本能的に岸に向かって直進しようとする。

これは流れに逆らう最も非効率的な方法だ。

結果として、救助者自身も二次災害の危険にさらされる。

案の定、その男性も離岸流に捕まった。

彼の泳ぎが急に重くなり、進行速度が著しく低下する。

彼もまた救助を要する状況に陥りつつある。


―――午後3時27分

マコトさんがやっと気づいた。

店の奥から飛び出してくる彼女の表情は、

人間が経験し得る最も深い恐怖を表している。

母性本能による直感的な危機察知だ。

彼女の瞳孔は散大し、顔色は血の気を失って蒼白になっている。

口は開いているが、最初は声が出ない。

呼吸筋の痙攣により、発声が困難になっているのだ。

「舞! 舞!」

ようやく絞り出された声は、喉頭の筋肉の緊張により、

普段より高く、震えている。

彼女は波打ち際まで駆け出すが、そこで立ち止まる。

マコトさんは泳げない。これは以前、雑談の中で聞いたことがある。

私、実はカナヅチなんです、という彼女の笑顔が、

今は残酷な現実として俺の記憶に蘇る。


俺はようやく監視塔から降りる決断を下す。しかし、もう遅い。

塔の階段、13段の鉄製階段を降りるのに約15秒。

砂浜を走って海岸線に到達するまで約30秒。

そこから舞ちゃんの位置まで泳ぐのに、最低でも3分。

計算上、俺が舞ちゃんに到達するまでに約4分かかる。

しかし、溺者の生存限界時間は、水温26.8度の海水中で約6〜8分。

舞ちゃんは既に水中で3分以上もがいている。

残された時間は少ない。


―――午後3時30分


俺が海に飛び込んだ時、舞ちゃんの姿は波間に消えていた。

最後に見えた光景、小さな身体が海面下に没する瞬間は、

物理学的には単純な現象だった。

人体の比重は約1.02。海水の比重は約1.025。

わずかな差だが、肺に水が侵入し、

浮力が失われると、人体は沈降する。

俺は全力で泳いだ。フリースタイルのストローク、

毎分約70回。推進力は1ストロークあたり約2.3メートル。

計算上、時速約10キロメートルで舞ちゃんの最後の位置に向かった。

しかし、海中での視界は限られている。

水深4.5メートルの海底まで潜るが、

濁った海水により視界は約2メートル。

舞ちゃんの小さな身体を発見することはできなかった。

俺の肺活量は約4,500ml。

息を止めて潜水できる限界時間は約90秒。

それを超えると、俺自身が溺者になる。

何度も潜り、何度も浮上する。そのたびに希望は薄れていく。


―――午後4時15分

海上保安庁の船が到着。

彼等の装備は俺たちライフセーバーとは次元が違う。

水中呼吸装置、水中カメラ、音響測深器。

科学的かつ組織的な捜索が開始される。

マコトさんは砂浜に崩れ落ち、泣き叫んでいる。

父親である吾郎さんも真っ青な顔で様子をうかがっている。


「何故―――何故、助けられなかったんだ・・・」


俺自身への問いかけ。

この言葉は、俺の職業的アイデンティティを根底から揺るがす。

ライフセーバーとしての俺のキャリア—3年間で成功救助51件、

軽微事故処理89件は、この一件の失敗によって完全に無意味になった。

統計学的には99.2%の成功率だが、

残り0.8%の失敗が、一人の少女の命を奪った。

プロとしての誇り、責任感、そして人命救助への使命感、

すべてが粉々に砕け散った。


―――午後6時30分

捜索は続いている。でも、もう希望は薄い。

タクミという青年が、マコトさんの肩を抱いて慰めている。

彼の眼にも涙が浮かんでいる。

彼もまた、自分を責めているのだろう。

「もしあの時、自分がもっと注意深く見ていれば」

という後悔が、彼の表情に刻まれている。

俺は報告書を書かなければならない。

海上保安庁への事故報告書、

ライフセービング協会への事故分析報告書、

そして警察への事情聴取調書。

「午後3時12分に要注意対象を発見。

適切な初期対応を怠った結果、重大事故に至る」

この一文が、俺の職業人生の終わりを意味する。


【1週間後】

舞ちゃんの小さな身体は、翌日の朝、午前6時23分に発見された。

発見場所は事故現場から約800メートル東の岩礁地帯。

潮流と海底地形の複雑な相互作用により、

予想以上に遠くまで流されていた。

海上保安庁の潜水士が彼女を発見した時の状況を、

俺は公式報告書で読んだ。

水深7.2メートルの海底、昆布の茂みに引っかかるようにして、

舞ちゃんは眠っていた。

法医学的には、死因は溺死、肺内への海水侵入による窒息死。

推定死亡時刻は午後3時35分。

俺が海に飛び込む5分前だった。

葬儀には多くの人が参列した。海の家の常連客、地元の人々、

そして俺達ライフセーバーチーム。

マコトさんは一言も話さなかった。

ただ、舞ちゃんの遺影を抱きしめているだけだった。

その写真は、今年の夏祭りで撮影されたものだった。

かき氷を手に持ち、口の周りを青く染めて笑っている姿。

わずか2週間前の、あまりにも生命力に溢れた瞬間だった。


【告発と責任】

8月20日 警察署署

業務上過失致死の疑いで事情聴取を受けた。

取調室は蛍光灯の白い光に照らされ、

コンクリートの壁が圧迫感を与える空間だった。

取調官は50代の刑事、名前は伊藤警部補だった。

彼は淡々と質問を続けた。

「午後3時12分の時点で、あなたは対象者の危険を認識していましたね?」

「はい」

「にも関わらず、即座に救助行動を取らなかった理由は?」

「まだ浮き輪もあり、パニック状態ではなく、

他の海水浴客への警戒も必要で・・・・・・」

「それは言い訳に過ぎません。

ライフセーバーの最優先任務は何ですか?」

「人命救助です」

「その通りです。あなたは3度、判断を誤った。

1回目:様子見を選択。2回目:連絡を優先。

3回目:他人への依存。プロとして、どう思いますか?」

俺は答えることができなかった。彼の指摘は完全に正しかった。

法律的にも、道徳的にも、職業倫理的にも、俺は失格だった。

最終的に起訴は見送られた。

「業務上の判断ミスではあるが、明確な注意義務違反とは言えない」

という検察の結論だった。

しかし、法的な責任を免れても、

道徳的な責任は永遠に俺の肩にのしかかり続ける。


俺はライフセーバーを辞めた。

「田中さん、あなたのせいじゃない」と同僚は言った。

「いいえ、これは事故ではありません。

俺の判断ミスです。プロとして失格です」

「もう一度チャンスを―――」

「舞ちゃんにはもう一度のチャンスはありません」

この会話で、俺の3年間のライフセーバー人生は終わった。


早期発見・早期対応が何より重要だという教訓を、

やすやすと見逃した、行動できなかった。

人を殺したようなものだ。

「もう少し様子を見る」なんて選択をしなければ・・・・・・。


海の家は閉店することにしたそうだ。

マコトさんは精神的なダメージから立ち直れずにいた。

医師の診断は、重度うつ病、PTSD併発。

抗うつ薬セルトラリン50mg、抗不安薬ロラゼパム1mg、

睡眠薬ゾルピデム10mgの投薬治療を受けていたが、

改善の兆しは見られなかった。

彼女は舞ちゃんの部屋を片付けることができずにいた。

ぬいぐるみ、絵本、色鉛筆、すべてが事故当日のまま残されていた。

時計も午後3時30分で止められていた。

舞ちゃんが海に消えた時刻だった。


望月一家が町を離れたのはその二か月後だった。

何処に行ったのかは誰も知らない。

タクという青年も姿を消した。

彼もまた、自分を責めているのだろう。

あの日、もし彼がもっと早く舞ちゃんに気づいていれば、と・・・。

海岸には献花台が設置されている。

小さな花束と、子供達が描いた舞ちゃんの絵。

「まいちゃん、げんきでね」

拙い字で書かれたメッセージが、海風に揺れている。


【6ヶ月後】

新しいライフセーバーが配置された。

若い、やる気に満ちた青年だ。

俺は時々、あの海岸を歩く。

もう監視塔に上ることはないが、海を見ずにはいられない。

あの日の選択を、何度も何度も反芻する。

もし、最初に行動していれば―――。

もし、連絡より行動を優先していれば―――。

もし、周囲の助けを待たずに飛び込んでいれば―――。

でも、もしは現実を変えない。

舞ちゃんは帰ってこない。

マコトさんの笑顔も、もう、戻ってこない。

あの夏の幸せな時間も、永遠に失われた。

それが人の命に携わる仕事だと、自然に教えられた。


そして暗がりに立っている幽霊のように、

時折若いライフセーバーに、

この苦い経験を伝えるのだろ―――う・・。


【決断の重み】

ライフセーバーという仕事は、一瞬の判断が生死を分ける。

俺は3回、間違った選択をした。


すぐに行動せず、「様子を見る」ことを選んだ

一人で向かわず、「連絡」を優先した

自分で飛び込まず、「他人の助け」を求めた


どの分岐点でも、正しい選択肢はあった。

でも、俺は一度も正解を選べなかった。

プロとしての責任。命を預かる重さ。一瞬の迷いが招く悲劇。

この経験は、俺の人生を永遠に変えた。

そして今でも、海を見るたびに舞ちゃんの笑顔を思い出す。

「おにーちゃん、またあそぼうね」

もう二度と聞くことのできない、小さな約束。


【GAME OVER】

BAD END: 「取り返しのつかない選択」

もう一度最初から始めますか?

[YES] / [NO]

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