第5話
夕刻の陽光が西に傾き始めた頃、海鳴りが絶え間なく響く、
望月家の食卓に着席していた。
築百年は優に超えるであろう日本家屋は、
海岸線からわずか十メートルという至近距離に威風堂々と佇んでいる。
厚い檜材で組まれた梁は時を経て飴色に変化し、
その表面には無数の木目が波打つように走っている。
襖の和紙は微かに黄ばみ、そこに陽が斜めに射し込んで、
古雅な陰影を作り出している。
潮の香、海藻を干す匂い、
それから味噌樽から立ち上る発酵の香りがする。
それは俺の記憶の奥底に眠る、祖母の家の記憶を呼び覚ます。
波濤が砂浜を洗う音は、耳を澄ませば確かに子守唄のような、
律動を刻んでいる。
一拍、二拍、三拍―――。
規則正しく繰り返される海の呼吸に、
心拍が自然と同調していく。
「親戚の葬式があってもいいように、デカい家を建てすぎた」
というボスの言葉が真実か虚構かは定かでないが、
この屋敷の規模は確かに常軌を逸している。
十二畳の座敷が三間、八畳間が四間、
それに加えて台所、風呂場、仏間。
仏間には望月さんの祖父母と、それから母親だろうか、
白黒の写真が飾られていた。
そのモノクロームの遺影は、何かを語りかけるでもなく、
ただ静かに、俺をじっと見つめている。
廊下は鶯張りになっており、
歩くたびにキュッキュッと乾いた音を立てる。
廊下の両側には、古い写真や家族の思い出が飾られた棚があり、
淡い光がそれらを優しく包み込んでいる。
指先で窓枠を撫でると、微細な砂粒がざらりと感触を残した。
海風に運ばれてきた塩分が木材の表面で結晶化し、
白い粉となって堆積している。
鉄部は錆び、漆喰の壁面には細かなひび割れが、
蜘蛛の巣のように走っている。
これが塩害というものか・・・・・・。
姑がいびりそうなシチュを想像してみる。
指先で窓の縁に触れて、あら埃が、だ(?)
玄関の隅には、箒で掃いても掃いても溜まっていく細かな砂粒が、
まるで砂時計の底のように堆積している。
その砂粒は顕微鏡で見ると、石英や長石の結晶が混じった、
美しい粒子なのだが、生活する上では厄介な存在でしかない。
強風にも悩まされると聞いたことがある。
山っていいよねってそういうところから思うけど、
土砂崩れが起きたり、昆虫が多かったりするから、
どちらがいいとか、何かいいとかって本当に幻想だなと思う。
都市部なら排気ガスや騒音。
何処に住んでも人間は何かしらの不便と向き合わなければならない。
それに海へ遊びに行ったあと、
どこからこんなに砂が出て来るのかと思うほど、
砂が出てくるのを覚えていたし・・・・・・。
勇太の声が座敷に響く。
「相変わらず望月家の飯は、べらぼーにうまいぼーっすね」
その口調には親しみと遠慮のない率直さが混在している。
学校でこのような発言をすれば調子がいい奴と冷笑されるが、
ここでは家族の一員として受け入れられている証拠だった。
食卓に並ぶ刺身の切り身は、
まさに宝石箱を開けたような色彩の饗宴だった。
マグロの赤身は深紅のビロードのように艶やか、
中トロは薄紅色の絹のように滑らか。
ヒラメの白身は真珠のような半透明の輝きを放ち、
青魚の銀皮は月光のような神秘的な光沢を湛えている。
醤油皿に注がれた本醸造醤油は、
漆黒の鏡面のように静寂を保っている。
本当にべらぼーにうまいぼーと言いたくなる気持ちはわかる。
ただ、絶対に真似はしたくないけど(?)
「刺身とかスーパーで買えない通なやつばっかり、
それに新鮮で最高ーっつ!」
勇太が指差している皿には、
市場でもなかなか見かけない高級魚が並んでいる。
クエの薄造り、マハタの湯引き、イサキの昆布締め。
それぞれの魚が持つ独特の食感と味わいが、
口の中で複雑なハーモニーを奏でている。
「地元の漁師が同級生だからな!
それに俺様がさばいたからな、極上に決まっている!」
ボスがさばいたのか――と思った瞬間、
その手元の動きが脳裏にフラッシュバックする。
包丁の刃が魚の身を滑るように通り、
骨に当たることなく、
まるで魚の構造を完全に理解しているかのような手さばき。
海の家で釣った魚をさばいてほしいというリクエストだったが、
あれは素人の動きじゃない。
板前経験があるのか、寿司屋でもやっているのか、
それとも漁師としての実地経験か。
いや、もっと多面的な職歴を持っている気がする。
ボスの体格は、まるで海の男そのものだった。
肩幅は広く、腕は太く、日焼けした肌には細かい傷跡が点在している。
それは、漁具に触れてきた証か、あるいは海での事故の痕か。
マグロ漁船に乗っていたとしても、何の違和感もない。
むしろ、あの体格を使わないのは勿体ない。
海の家の厨房で見せる動きは、
まるで戦場で鍛えられた兵士のような無駄のない所作だった。
でも、漁師だけじゃない気もする。
ライフセーバーとして、夏の海岸で笛を吹いている姿も想像できるし、
観光船の案内役として、マイク片手に潮風を浴びながら
「右手に見えますのが、通称“恋人岬”でございます」
なんて言っていても様になりそうだ。
ボスは何しろ、只者ではなかった。
地元の民宿の経営者、釣舟屋の船頭、
あるいは、地元の居酒屋で本日のおすすめを、
板前姿で出しているかもしれない。
そのどれもが、ボスの生活の断片として成立しそうだった。
今日だけで六十万くらい売り上げたという話も望月さんから聞いた。
それだけの腕と集客力があれば、
この海の家一本でやっていくことも不可能ではない。
けれど、台風が来れば赤字は必至。
観光業はハイリスク・ハイリターン。
季節に左右される商売は、安定とは程遠い。
だからこそ、ボスは複数の仕事を掛け持ちしているのかもしれない。
夏のシーズン以外は、朝から漁に出るとか、
はたまた、夜の居酒屋でバーテンダーとかしているかも知れない。
冬場は山間部のスキー場で働いている可能性もある。
地域の季節労働者として、土地に根を張りながら、
その都度、必要とされる場所に現れる、
そんな生き方がとても似合う人だ、ボスは・・・・・・。
俺はたった一日で、ボスの懐の広さのようなものに心酔していた。
いずれにせよ、都市部のサラリーマンである俺の父親とは、
まったく違う種類の男らしさがそこにあった。
父性というものが滅びて、中性的、女性的なものが好まれる。
でも父性制度は残っているし、
父親らしいことを子供の自分にしてくれた。
情けなくたっていいんだ。
でも時代錯誤だとは知りながら、
海にはこういう男が確かによく似合う。
それにしても、刺身は本当に美味しい。
モグモグと口に運びながら、
この魚がどこで獲れたのか、誰が釣ったのか、
どうやってここまで運ばれてきたのか――。
そんなことまで考えていると、
「巧はどうだ?」とお鉢が回って来て、
心臓が不規則に鼓動する。
朝の出来事以来、まだ完全に平静を取り戻せずにいる。
しかし、その声音には確かに温かみがあった。
岩のように堅固でありながら、包み込むような優しさを秘めている。
あるいは望月さんマジックかも知れない。
好意を持たれていると気付くと人の接し方って変わる。
表情が、呼吸が、言葉が、
その人だけの周波数にシフトしていくのだ。
それに土鍋で炊いた米の湯気が立ち上り、
その中に混じる海苔の香りや味噌汁の芳香が鼻腔をくすぐる。
味噌汁の具は、ワカメと豆腐、
そして地元で獲れた小さなシジミが入っている。
シジミの殻は紫がかった黒色で、
その中から顔を出している身は小さいながらも濃厚な旨味を含んでいる。
ボスの心遣いは海の家での厳しさと同じく、一切手加減がなかった。
「は、はい、お、美味しいです」
という返答は、声帯の震えを隠し切れていなかったわけだが、
その緊張も悪い種類のものではなく、
むしろ期待と興奮が混じったような、心地よい緊張感だった。
ただ、望月さんがそれに微笑んでくるので赤くもなる。
ところで繁忙期の二週間の滞在期間ということになっているが、
俺に割り振られた部屋は六畳の和室だった。
畳表は新しく、い草の青い香りが鼻腔に心地よく広がる。
布団は厚手の木綿で、カバーは藍染めの縞模様。
枕元には小さな行灯が置かれ、
和紙を通した光が柔らかく室内を照らしている。
仕事終わりに、望月家自慢の檜風呂に入って、
何故か浴衣姿でいる自分が信じられない。
ちなみにここではそれが正装なのだ。
風呂上がりの浴衣姿。紺地に白い縞の単純な柄だが、
肌に触れる木綿の感触は驚くほど滑らかだった。
帯は角帯で、結び方も含めて望月さんに教えてもらった。
最初は上手く結べずに何度もやり直したが、
最終的には見栄えの良い形に収まった。
檜風呂の湯気で火照った体に、夕涼みの風が心地よく触れている。
ちなみに望月さんの浴衣姿は、
誰がどう見ても天使だった(?)
薄紫の地に白い桔梗の花が散らされた上品な柄。
帯は淡い黄色で、後ろで美しい蝶結びを作っている。
うなじから覗く白い肌、黒髪に挿された簪の銀細工。
まさに絵巻物から抜け出てきた美人画のような佇まいだった。
と、ぐいぐい、腕を小さな女の子に引っ張られる。
食卓に並んだ時に、妹の舞と紹介された子だ。
彼女の手は小さくて柔らかく、でも意外に力が強い。
引っ張られる俺の袖口から、微かに石鹸の香りが漂ってくる。
望月さんのDNAを継いで、将来有望な美人になりそうな子だ。
というか、既に美少女である。
舞ちゃんの顔立ちは確かに望月さんに似ていて、
特に眼元の形や鼻筋の通り方がそっくりだ。
髪は肩より少し短く、毛先が内側にカールしている。
前髪は眉毛の上でパッツンに切り揃えられていて、
昭和の子役タレントのような愛らしさがある。
幼稚園か、小学校低学年ぐらいだろう―――か・・。
服装から判断すると小学校一年生か二年生といったところだろう。
彼女が着ているのは水色のワンピースで、
胸元に小さなリボンが付いている。
足元は白いハイソックス。
しかしモブで陰キャは、それぐらいの子を恐れるものだ。
何故なら、ロリコンの言葉を恐れているから(?)
それはホモと並んで、発言権のないモブで陰キャを恐れさせる。
もう一度繰り返す、
何故なら、ロリコンの言葉を恐れているから(?)
この言葉は、単なる分類ではない。
それは、社会が貼るラベルであり、
一度貼られれば、剥がすことのできない烙印となる。
この種の偏見や誤解は、現代社会の暗い側面を反映している。
純粋な子供との交流さえも疑いの目で見られるという風潮は、
生きづらさを増している。
公園で子供に話しかけるだけで、
不審者として通報される可能性がある。
それは、誰かを守るための仕組みであると同時に、
誰かを過剰に排除する仕組みにもなっている。
ただ、性犯罪者と、小児性愛症は本来別のものだ。
一括りにしてはいけない。
だって、性犯罪をぎりぎりで踏みとどまって苦悩する、
そういう小児性愛症の人も現実にいるからだ。
インターネットの記事で読んだことがあるけれど、
自分のそういう傾向を負の側面と捉えて自殺したくなる人もいるのだ。
性犯罪をした瞬間、自殺する、そこまで言う。
ぎりぎりで踏みとどまる、それは、
誰しもが抱える心の弱さと向き合うことと、
同じだと思えるから―――だ・・。
「おにーちゃん、あそぼー!」
舞ちゃんの声は高くて澄んでいて、まるで風鈴の音のようだ。
子供の声って時々、ボカロの声に聴こえてしまう瞬間がある。
彼女の笑顔は屈託がなく、
大人の複雑な事情など知る由もない純真さが輝いている。
「おう、いいぞー」と、勇太が答える。
彼の声には兄貴分としての頼もしさが込められている。
一瞬、あ、そっか、勇太かと思ったら、
「ちがう、ゆうたじゃない、たくみおにーちゃん」
舞ちゃんの声には、はっきりとした意志が込められている。
彼女の眼は真剣で、自分の意思をしっかりと持っているのがわかる。
なんで、俺?
俺の心の中に疑問符が大きく浮かぶ。
これまでの人生で、こんなに小さな子から、
指名されるという経験はほとんどなかった。
いつもは存在感の薄い自分が、何故彼女の関心を引いたのだろうか。
えーっ、なんで巧ばっかり、とヨヨヨと泣きだす馬鹿。
勇太の泣き真似は演技がかっていて、
わざとらしいほど大袈裟だ。
でも、そのオーバーリアクションが逆に場の雰囲気を和ませている。
彼の涙は当然ながら嘘泣きで、
目尻に指を当ててヨヨヨと声を出している姿は完全にコントだ。
望月さんが、そこの雑巾で顔を拭いたら、と小芝居をやっている。
舞ちゃんも勇太の調子に合わせて、
「これどうぞーです、おとといきやがれですー」
台所から本当に雑巾を持ってきて差し出している。
その雑巾は使い古された手ぬぐいで、
藍色の地に白い絣模様が入っている。
望月さんの表情は楽しそうで、
この家族の日常的なやり取りの一部なのだということがわかる。
―――なあフレンド、お前一体彼女達に何をしたの?
心の中で勇太に問いかける。
でも印象って不思議なものだ。
知らず知らずのうちに積み上げられてゆく。
だって実際のところ俺自身にも心当たりがない。
舞ちゃんとは今日初めて会ったばかりだし、
特別なことをした覚えもない。
「えっ、俺と?」
俺の声は上ずっていて、驚きが隠せない。
舞ちゃんは、こくこく、と可愛く肯いて、微笑んでくる。
その笑顔は無邪気で計算がなく、
見ているだけで心が温かくなる。
彼女の瞳は大きくて澄んでいて、
まるで湖面のように俺の姿を映し出している。
その、もしかして、もしかしないでも、
モテ期到来とアホなことを一瞬思った。
でも、相手は小さな子供だ。
モテ期というには対象が違いすぎる。
それでも、人から好かれるという体験は新鮮で、
少し嬉しい気持ちになるのも事実だった。
「珍しいね、舞は人見知りなのに」
と、望月さんが間に入ってくる。
彼女の声には、妹を見る優しさと、少しの驚きが混じっている。
確かに、望月さんとは違って、
舞ちゃんは少し内向的なような気がする。
初対面の時も、望月さんの後ろに隠れるようにして、
恥ずかしそうにしていた。
が、余計なひと言が入る。
「やっぱ、舞も穏やかな人が好きなんだね」
―――ん、ちょっと待って、それは禁止ワード。
その瞬間、空気が変わった。まるで嵐の前の静けさのように、
食卓に沈黙が降りる。箸を持つ手が止まり、
味噌汁の湯気だけが立ち上がっている。
紫陽花の傍で粗大ゴミとして濡れている六月のテレビにかかる雨。
その時の俺の心境を表現するなら、まさにそんな感じだった。
「ちょっ、それは・・・」
―――だから言っちゃ駄目って言ったのに。
ボスの眉間が、ピクピクピクピクッ―――とした。
その眉間の皺は、まるで地震計の針のように細かく震えている。
彼の表情は一瞬で変わり、穏やかだった顔が険しくなる。
突如出現する、仁王像。
ボスの表情は、寺院の山門に立つ仁王像のように恐ろしい形相になった。
眉は逆立ち、眼は見開かれ、口元は厳しく結ばれている。
そしていきなり、足をテーブルの上にあげられた。
やくざか。その姿勢は完全に映画で見るヤクザの親分。
歌舞伎俳優のように掌底を鼻の上にいなせに押し上げて、
「ぐぬぬ、好き・・・だと?」
ボスの声はドスの利いたように低く、威圧感に満ちている。
「おい、巧、舞の世話したら、
じっくり聞かせてもらおうじゃないか」
「そ、そんなぁぁぁぁぁ」
「ふふふ」と、望月さんが笑っている。
しかし彼女の笑い声が、緊張に満ちた空気を和ませていく。
その笑顔は夏の夕暮れのように優しく、温かかった。
賑やかな家族の情景。
食器の触れ合う音、笑い声、軽口、怒鳴り声、
すべてが混然一体となって、一つの生きた交響曲を奏でている。
普段なら尻込みしてしまいそうな状況なのに、
何故か足が竦まない。
この瞬間の複雑さを正確に言語化することは不可能に近い
でも賑やかな家族で羨ましいな、
柄にもなく―――そう思った。
俺の家は両親と俺だけの三人家族で、
こんなに賑やかな食事の時間はない。
いつもはテレビを見ながら黙々と食事をするのが普通だった。
仕事が忙しい時は父親が不在になり、
習い事が忙しい時は母親が不在になり、
一か月の内に何度かは一人で食事することもある。
でもそれも家族だから分かる。
みんなそれぞれするべきことがあるのだ。
けれど、この食卓を囲んだあとだと、きっと淋しくて、
つまらないものに思えるだろう。
小さなことでも、一見どんなに下らなさそうに見えても、
それはとてつもない難題だ。
人は同じ場所に同時にいるわけにはいかないし、
またそれがどういう類のものかも正確に説明できない、
過剰な情報、感情、記憶、そして願いが熱を帯びていく。
集積されていく概念がオーバーヒートしそうになって、
それでも一つの回路を形成していくのを感じる。
その熱が、ようやく、
俺という存在をひとつのいまに繋ぎとめている気がした。
―――脈を取るみたいに。
*
舞ちゃんとの遊びは思ったより複雑だった。
彼女が選んだ遊びは、
縁側でのお絵描きというより、俺に絵を描いてもらうことだった。
「うみのえ、かいて」
色鉛筆を差し出す小さな手。
スケッチブックの白い頁が、背後の電燈を浴びて薄く光って見える。
俺は決して絵が上手いわけではない。
しかし、舞ちゃんの期待に満ちた瞳を見ていると、
断ることができなかった。
海の絵と言われて、まず頭に浮かんだのは、
今日一日過ごした海辺の風景だった。
青い色鉛筆で波を描き、白で波頭を表現する。
黄色とオレンジで夕陽を描き、
その光が海面に反射する様子を表現しようと試みる。
決して上手とは言えない絵だったが、
舞ちゃんは眼を輝かせて見つめていた。
「きれい」
その一言で、俺の心の中で何かが温かくなった。
縁側から見える空には、既に一番星が輝いている。
海からの風が浴衣の袖を揺らし、
遠くから聞こえる波の音が自然のBGMとなっている。
都市部では決して体験できない、贅沢な静寂がそこにあった。
「たくみおにーちゃん、やさしいね」
舞ちゃんの言葉に、俺は戸惑った。優しい? 俺が?
「どうして?」
「だって、ちゃんとかいてくれるもん。
ゆうたおにーちゃんは、すぐにおわりにしちゃう」
子供の観察力は時として大人を驚かせる。
勇太の性格を的確に表現した舞ちゃんの言葉に、
俺は苦笑いを浮かべた。
しかし、それ以上に考えさせられたのは、
彼女の優しさに対する定義だった。
大人にとって優しさとは、時として演技であり、計算であり、
自己防衛の手段でもある。
優しさとは弱さであり、共感力のことでもある、と思う。
それに聖人レベルとか、ガンジーレベルとか、
政治家レベルとか、詐欺師レベルとか、
つけていくにすぎない、優しさ。
しかし、子供にとっての優しさは、
もっとシンプルで純粋なもの・・・・・。
どうして大金持ちは動物しか愛せなくなるんだろう、
その答えは、人の心を信用できなくなってしまうからだろう。
「もういっかい、かいて」
舞ちゃんが新しい頁を開く。今度は何を描こうか。
そう考えている俺に、彼女は新たなリクエストをした。
「かぞくのえ」
家族の絵。
俺の手が一瞬止まった。家族―――それは俺にとって複雑な存在だった。
都市部の核家族で育った俺にとって、
望月家のような、姉妹がいる家族というのは未知の世界だった。
父親は仕事ばかり、母親は習い事で忙しく、
家族全員が揃って食事をする機会すら少ない我が家と、
この望月家とでは何もかもが違っていた。
違っているからこそ気付くこともある、良し悪しはあるけれど。
でも、舞ちゃんのために描いてみることにした。
ボスと、望月さん、そして舞ちゃん。
そしてそこに、俺と勇太を。
それぞれの特徴を思い出しながら、丁寧に線を引いていく。
「これ、だあれ?」
舞ちゃんが俺の描いた人物の一人を指差す。
「お姉ちゃんだよ」
「おねえちゃん、すき?」
突然の質問に、俺の手が震えた。
色鉛筆の先が紙の上で小さく跳ねる。
「え?」
「たくみおにーちゃん、おねえちゃんをみるとき、
おかおがあかくなる」
子供の観察力の鋭さを、改めて思い知らされた。
と、舞ちゃんがまた俺の袖を引っ張る。
「たくみおにーちゃん、こっち来て」
縁側の端に置かれた小さな虫籠を指差す。
中には、夜の光に照らされたカブトムシが、
静かに木片の上を歩いていた。
「おとうさんがとってきたの。かっこいいでしょ?」
舞ちゃんの眼の輝きは、純粋で、真っ直ぐで、
俺の中の何かを、そっと揺らす。
浴衣の裾を風が揺らす。
その音が、まるで頁をめくるように、次の瞬間へと導いていく。
望月さんが、縁側の柱に凭れて、波音を聴いているのか、
月を見上げながら微笑んでいる。
その横顔は、どこか懐かしくて、
まるで、昔読んだ絵本の挿絵のようだった。
俺は、そっとその光景を心に焼き付ける。
ここには物語があった。
そして何故か自分がその物語の登場人物になったような気がした。
波の音が、朝聞いた時よりも少しだけ優しく聞こえる気がした。
*
📸 Instagram Story - PM 9:00
画像:縁側で浴衣姿のセルフィー
caption:お母さんの浴衣借りちゃった💜
#子供は敏感 #隠れた優しさ
今夜は豪華な夕食。
お父さんが張り切って刺身をたくさん!
料理は分担しているけど、今日はね。
これは新人歓迎会も兼ねているのだ。
夕食の時、お父さんが血迷ったツンデレを披露していたけど、
本当は巧くんのこと気に入ってるのバレバレ。
だって夕方、一人で「あの子は礼儀正しいな」って
お母さんにこっそり言ってたもん(聞こえてたよ〜)
巧くんは多分、同年代より大人の人に好かれるタイプ。
変に媚びないけど、ちゃんと敬語使えるし、
本人キョドって否定しまくってたけど、器用で、
一生懸命。ギャップ萌え。
さっき、巧くんが舞の相手してるのを見てて
「あ、この人本当は優しい人なんだ」って分かった。
兄弟はいないって言っていたけど、
接し方が丁寧で温かい。
巧くんの優しさって、気付く人にしか気付かれない感じ。
舞が“かぞくのえ”描いてって言って、
巧くんがすごく丁寧に描いてた。
なんか、見てて胸があったかくなった。
“優しさって、静かに伝わるものなんだな”って思った。
巧くんの本当の顔。
→年下に優しくて。
→ちゃんと感謝を言葉にできて。
→ユーモアも分かる人。
「子供の時、かぶとむしの角みたいなのが、
俺にも欲しかったな」
昆虫少年(?)
そのあと、舞にヘラクレスカブトムシの話をして、
寿命が一年とか一年半といって、
値段も高いのになると十万ぐらいするんだー、
とか言ってて、普通にググったら、合ってた。
これがもし勇太だったら、適当なことを言うんだよね。
「ヘラクレスカブトムシはギリシャなんだ(?)」
とかね。
昆虫少年は熱い。
「ヘラクレスカブトムシは、ヘラクレスの名前から、
ギリシャに思われがちだけど、実はメキシコとか、
南アメリカの熱帯雨林地帯にいるんだよ」
絶対に、舞に分からないのに、
ぺらぺら喋ってしまう。
好きなんだなあ。
この二週間で、
もっといろんな面が見えるのかな?
なんか・・・楽しみ。
♡ 31 💬 8 📤
*
📓 舞ちゃんの夏休み日記
8月5日 はれ
[クレヨンで描いた絵:棒人間が3人。真ん中の人だけ色が薄い]
きょう、あたらしいおにーちゃんがきたよ!
ゆうたおにーちゃんは、いつも、げんきで、
おおきなこえで、はなすけど、
たくみおにーちゃんは、ちいさなこえで、やさしい。
・めが、やさしい(きらきらしてる)
・こえが、ちいさい(でも あったかい)
・ときどき、こまったかおをする(かわいい)
おねえちゃんが「すきなひと」っていったら、
パパが、おこっちゃった。
でも、たくみおにーちゃんは、わるいひとじゃないよ!
だって・・・。
[ハートマークがいっぱい描かれていて、
かぶとむしをてにもつ、ぼうにんげん]
あしたも いっしょに あそぼうね、
たくみおにーちゃん。
ばいばい〜〜
6
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