第2話
海の家。
その三文字が醸し出す響き、その名前はどこか素朴で、
昭和の残り香を感じさせ、遠い記憶の奥底にある、
ノスタルジックなイメージを誘い出す。
だが現実のそれは、無数の砂粒と汗腺から分泌された、
塩分の結晶体、海風によって錆び付いた鉄の匂い、
低周波の重低音が支配する音楽、
そして人間の最も原始的な欲望が渾然一体となって醸成された、
真夏という灼熱の季節が生み出す混沌の装置。
営業開始は毎朝六時半。
水平線の彼方から昇る太陽が、
まだ薄紅色の大気圏に包まれ、橙色の薄膜を纏っている頃から、
既に一日の準備という名の歯車は静かに回り始めている。
海の家は、戦時中の仮設陣地や野戦病院を彷彿とさせる臨時建造物。
長年の風雨に晒され、塩分によって白く変色した杉材と、
錆の浮いたトタン板で組み上げられた骨組みには、
東南アジアの貧民街や南米の闇市場に漂う、
あの独特の雑然とした生命力が宿っている。
しかしその一見無秩序な配置の底流には、
何十年もの経験と知恵によって磨き上げられた、
極めて機能的な配置の論理が息づいている。
屋根の上には青いビニールシートが二重、
三重に張り巡らされ、
容赦のない直射日光を可能な限り遮断する工夫が施されている。
南風が運んでくる微細な砂粒の店内への侵入を防ぐため、
海側には竹製のすだれと化学繊維の防砂ネットが幾重にも設置され、
まるで中世の城塞の防壁のような様相を呈している。
床面は簡素な木製デッキパネルで構成されているが、
早朝の清掃と消毒作業は一日たりとも欠かすことができない。
夜通し染み付いた海水の塩分と調理油の脂肪分が混じり合った、
あの独特の発酵臭を、
塩素系漂白剤の刺激的な匂いと、
エチルアルコールの揮発性物質で押し流していく作業が、
日の出と共に毎日繰り返される。
調理スペースの中央には、
業務用の鉄板が威圧的な存在感を放っている。
幅九十センチメートル、
奥行き六十センチメートルの巨大な鉄の塊は、
まるで製鉄所の溶鉱炉や火山の火口を思わせる膨大な熱量を蓄積し、
調理人の皮膚から容赦なく水分を蒸発させていく。
その灼熱の表面には、
細かく千切りにされたキャベツの翠緑色の山と、
豚肉の薄紅色の切れ端、
そして茹で上がった中華麺の黄金色の束が、
まるで踊るように炒められている。
黒く焼けた鉄製のヘラが熟練した手によって、
滑らかな軌道を描いて動き、
食材が鉄板に触れる度に響くジュワッという湯気の音が、
夏の午後の単調なリズムを刻んでいく。
隣接する調理台では、
直径三十センチメートルの寸胴鍋が激しく沸騰し、
フランクフルト用の湯が泡立ちながら踊り狂っている。
冷凍かき氷製造機械がガリガリと氷塊を削り取る機械的な音は、
灼熱の太陽光線に苦悶する客達にとって、
まさに救済の鐘の音として耳に届く。
とはいえ、真夏の直射日光とは質的に異なる、
人間の密度が生み出す地獄絵図がそこには展開されている。
調理、配膳、在庫補充、食器片付け、
そして断続的に発生する客への接客対応業務。
「冷たいお茶ってありますか?」
「この水着、試着ってできるんですか?」
「ロッカーって何処ですか?」
質問の波状攻撃は、
まるで夏の入道雲のように次から次へと湧き上がり、
止むことを知らない。
海の家は、海水浴場ごとにある組合に加入し、
営業権を取得しなければ営業することはできない。
具体的には『海水浴場営業許可証』
(有効期間一年、更新料三万円)と、
「飲食店営業許可証」(保健所管轄、更新料一万二千円)が必要。
イメージとしては縁日の出店だ。
テキヤと呼ばれる露天商の組織構造に似ている。
営業期間は七月第一土曜日から八月三十一日まで。
約二ヶ月間の短期決戦だ。
でもアルバイトする側にとってはそういう手続きはない。
労働者として雇用されるため、雇用契約書にサインするだけである。
とりたてて必要な免許やスキルはいらない、という意味だ。
ただし、食品衛生責任者の資格があれば時給が五十円アップ。
調理が得意な人、料理が好きな人であれば殊更という具合。
包丁の扱い方、食材の切り方、火加減の調整など、
基本的な調理技術があれば十分対応できる。
調理時間三分三十秒の焼きそば、
八十五度のお湯で三分間ボイルするフランクフルト、
百七十度で四分間揚げる唐揚げ、
イカ焼き、たこ焼きなどの定番軽食。
価格三〇〇円のかき氷はイチゴ、ブルーハワイ、
メロン、レモンの四色展開。練乳オプションは+五〇円。
飲料水は五〇〇mlペットボトルで、
コーラ、アクエリアス、麦茶、
そしてエナジードリンクまで完備
ビーチサンダルはM・L・LLの三サイズで、
カラー展開はピンク・黒・水色・白。
(日焼けオイル、日焼け止めクリーム、
水着も販売している、)
浮き輪やシュノーケルセット、ビーチパラソル、
ビーチボールなどのレンタル商品には、身分証の提示が必要。
*
レンタル商品価格表:
浮き輪(大人用):1日500円、保証金1,000円
浮き輪(子供用):1日300円、保証金500円
シュノーケルセット:1日800円、保証金2,000円
ビーチパラソル:1日1,200円、保証金3,000円
ビーチボール:1日200円、保証金300円
*
さらに、ロッカーの鍵管理も重要な業務の一つだ。
木製の札に番号が記された昔ながらのロッカーは、
まるで昭和の銭湯を思わせる趣。
だが紛失事故が起これば、責任問題へと直結する。
そのため鍵の管理簿には利用開始時刻、
利用者の特徴(年齢、性別、服装など)に加えて、
鍵の返却時刻、ロッカー内の忘れ物の有無を記録している。
監視カメラは防犯用ネットワークカメラで、
(解像度1920×1080、夜間撮影対応、録画時間7日間)
クラウド上にデータを保存している。
*
ロッカー利用料金:
1日利用:300円
午前のみ(〜13時):200円
午後のみ(13時〜):200円
*
それから、温水シャワーの案内などもある。
温水シャワー設備は男女別に各三基設置されている。
給湯システムはプロパンガス瞬間湯沸かし器を使用し、
(号数24号、給湯能力24L/分)
設定温度は三八度。一回の利用時間は五分間で、利用料金は六〇〇円。
*
温水シャワー設備の詳細:
給湯器:ノーリツ製GQ-2439WS(屋外設置型)
配管:ステンレス鋼管(耐食性、耐海水性)
シャワーヘッド:節水型(流量8L/分)
床材:滑り止め加工タイル
排水:砂止めトラップ付き
プライバシー保護:磨りガラス、カーテン設置
*
店内もどことなく昔懐かしい感じを催させてくれる、
抜群の―――海の家感がある(?)
内装は意図的にレトロ調に統一されている。
壁面には昭和三〇年代の海水浴場のポスター、
古い浮き輪、釣り道具などが飾られ、
照明器具はエジソン電球を使用し、温かみのある光を演出。
BGMは一九六〇年代〜一九八〇年代のポップスをセレクトし、
(サザンオールスターズ、竹内まりや、山下智久など)
ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
ただ、温水シャワーが一日複数回使用可能とはいえ、
六百円という料金設定は些か高額ではないかという疑念が拭えない。
個人的には、東京の駐車場で二十四時間最大二千円とかいう、
トンデモなさに匹敵するが、比較としては乱暴だ。
巷の噂によれば、温水と銘打ちながらも、
実際には水しか出ないシャワー設備も存在するらしく、
まるで井戸から汲み上げたばかりの地下水のように、
冷たいという話もある。
でもこういうのって、価格相場、
相対的価格というのがちゃんと存在する。
けど、それならポップコーンを寄越せって絶対に言う、
陽キャは怖いから絶対にそんなヤンキーなことを言う(?)
というか、百円だろ、せめて五百円のワンコインだろ。
なんだとなんだと。
陽キャビイイイイーム!(?)
でも、荷物預かり+温水シャワーということだから、
これは商業的可能性として、
ワンチャンあるのだろうか(?)
「・・・・・・カルチャーショックの連続だ」
*
📸 Instagram Story - AM 6:15
画像:朝焼けの海岸線
caption: おはよー☀️今日から海の家バイト開始!
新人くんが来るって聞いてるけどどんな子かな〜
#海の家 #バイト #朝活
「マジで眠い…でも海の家って朝早いんだよなー」
私、マコは目をこすりながら海の家に向かってた。
ベテランバイトだけど、
朝6時半開始には未だに慣れない。
「あ、勇太! おはよー」
「マコちゃん、おはよう! 今日期待の新人来ちゃうからね、
もうぶっ飛んじゃうからね(?)」
勇太はいつものようにニヤニヤしてる。
いきなりグーでどつきたくなるのは何故だろう。
しばいてしまいたくなるのは、条件反射だろうか。
あるいはそれが若さというものだろうか。
―――どうも、眠さと苛立ちで眼が少し点になっていたらしい、
勇太が揉み手してご機嫌窺いするみたいな感じで言ってくる。
「まあ、俺の友達だから大丈夫だよ。ちょっと人見知りだけどさ」
一体この男は、何を言っているのだろう。
私の評価がどれほど低いのか気付いていないのだろうか?
「人見知りか・・・・・。
海の家のバイトで人見知りって、大丈夫なの?」
勇太は仕事を続けられるのかという風に誤解したみたいだけど、
どんな勧誘の仕方をしたのかという意味だった。
人見知りが海の家でバイトをしたいなんていうのは、
いくらなんでもマッチョ願望すぎる。
こいつ、適当だからな(?)
「それは…まあ、なんとかなるでしょ」
なんとかなるって、やっぱり適当だな、この人。
*
ちなみにここは、
俺達の住んでいる町から、
電車で三時間以上かかる。
大きな乗換は一度あるが、
各駅停車で来てしかもそのドンツキといった具合のため、
まるで日本の鉄道網の果てまで長い旅をするような感覚に陥った。
これが旅ならそれも風情があるが、
バイトとなるとベーリング海のカニ漁とか、
遠洋漁業のマグロとかいった雰囲気がある。
文学的昇華を経ない垂れ流し的な呟きが、
夏の電車内の成分の九割を占めている。
幾重にも折り重なったビル群の風景に見慣れた都市部とは対照的な、
一つ一つの建物や樹木が明確に視認できる、緑豊かな田園風景の車窓。
そして、今年は深刻な人手不足だから俺を誘ったらしい。
でも俺みたいな奴で力になれるのかっていう気はする、
身体検査なしの税関状態。
顏パスというか、誰でもよかったのかも知れない。
こけし、でも(?)
猫の手を借りたい、猫でも(?)
もう既に、HPは8である(?)
オロナミンCか、さもなければリポビタンDを摂取して、
眼の下に隈ができないようにしなくては―――って。
ぽんぽこ、じゃねえんだよ。
*
実際の採用基準は以下の通り:
年齢:18歳以上
(高校生不可、労働基準法により深夜業務制限があるため)
体力:立ち仕事8時間に耐えられること
コミュニケーション能力:接客業務に支障がないレベル
責任感:金銭管理、食品衛生管理への意識
協調性:チームワークを重視する職場環境への適応
面接では「なぜこの仕事を選んだか」「体力に自信があるか」
「接客経験はあるか」といった基本的な質問に加え、
「熱中症対策について知っていることを教えて」
「食中毒を防ぐために気をつけることは」など、
安全管理に関する知識も確認している。
*
まあ、力になれるんだったらいいけど―――さ、
夏の海は、あらゆる意味で、様々な角度で、
垂直的に眩しすぎて、
ダークブルーの染色液が血液のように体内に拡散し続けてしまう。
勇太は華奢な体格だが、
海の男っていうか、遊び人って感じがあるよなー。
質素な家にかかる豪華な壁掛け絵画みたい―――な。
それに比べて、俺はHPが6。
(*モブはどくこうげきをうけた)
はぁ・・来て早々これとか、
先が思いやられるな・・・・。
死にたい(?)
とか―――思っている俺を尻目に、
バイト仲間らしい女性に勇太が話しかけている。
ラフな格好だなと思った。
夏の終わりのけだるさを漂わせながら、
夕方の凪のようなかったるさーを漂わせながら、
男の友情って何だろうなー、と思う。
密接に利害関係によって結ばれた友情もあると思う、
いや―――そもそも友情感じる暇もなかった(?)
話しかけてぺちゃくちゃ、適当に答えてもぺちゃくちゃ、
手数が違うんですよ、手数がね(?)
いつか絶対勇太は痛い目を見る、そんな呪いを掛ける(?)
「ありゅー? マコちゃん、背伸びた―、
なんか、グッと大人びたよね?」
顔見知りなんだろう―――か。
俺は自分に引き戻して、
親戚の、従姉妹にそんなことを言う場面を想像する。
うん、間違いない、セクハラやめろ殺すぞ(?)
「でも勇太に言われると変な低位感じるね、
それに朝会って急にそんな成長率あるわけないでしょ」
女三時間合わざれば刮目せよ、かな(?)
しかし、勇太、相当嫌われてないか。
不良漫画の、レディースの女の子が出てきたような刺々しさ。
思うに、馴れ馴れしすぎるんじゃないだろうか、
適度な距離感、これに尽きる。
あと、彼女がそういう言い方をするのは、
遠回しにセクハラだということではないのだろうか。
「あと、ゴキブリみたいな変な眼で見ないでくれる、
気持ち悪いから」
「グサッとくるような一言、ありがとうございます(?)」
気の強い女の子なのかな?
そちらを見る。
見るからに―――本当に見るからに、顔立ちの整った子。
Tシャツに半ズボンにエプロン姿だけど驚くほどよく似合ってる。
肉感的で、健康的な褐色の肌をしていて、
こんがり焼けたマフィントーストを想像してしまう。
このルックスという一点だけで、
人生勝ち組の称号を与えられそうな気がした。
心理学でいう初対面七秒ルールの通り、
清潔感、整ったルックス、優しそうな表情という、
三要素が揃った印象は、好感度満載だった。
まさにインスタグラム的な視覚情報処理能力。
略して、インスタグラム脳(?)
それはもちろん光の屈折率と網膜への入射角度の関係による錯覚だ。
彼等はコンビニで新商品を発見すれば即座に写真撮影し、
こんな新商品があったよ、というキャプションと共に、
ストーリーズに投稿してくる。
「えーっと、巧くんだっけ?
今日から一週間よろしくね」
ややぁとした。
不意を突かれ、軽い眩暈のような感覚に襲われる。
勇太とは対照的に―――おそらく初対面という状況だからだろうが、
丁寧で気さくな印象を醸し出している。
けれど、どんな人かは表情や声や身振りで分かる。
楽器の音が立ち上がる瞬間の明瞭さ、まさに魅力の瞬発力。
やわらかに、なめらかに吸い付いてくるような、
包み込むような優しさ。好感度のアタックポイントの高い、
人当たりの良さそうな、透明感のある表情。
というか、いきなり名前で呼ばれるとも思ってなかったし、
その名前をまさか事前に知ってくれているとも想像していなかった。
俺みたいな典型的な陰キャにも、
真正面から眼を合わせてくるとか、
もうどこかの聖人や天使の仲間なのではないかという気すらした。
それは言い過ぎだ。分かっていた。
しかし可愛い女の子が何気なく普通にしているだけで、
男子は一発でイチコロになってしまうのだという都市伝説を、
身を持って実感できるような気がした。
彼女はきっと、罪な人だ(?)
「よ、よろしく」
声が若干上擦ってしまった。
そしてそんなわけだから、
たった一言二言交わしただけで、
心の奥底で『可愛いな・・・・・・』と素直に思ってしまった。
男の心には色んな種類の可愛さがあると思う。
分かり易く言えば、ばちくそ可愛かった(?)
別に胸部がアームストロング砲のように豊満だとか、
スタイルがハリウッドのデルモというわけでもないのに・・・・・・。
*
📸 Instagram Story - AM 7:45
画像:調理場の準備風景
caption: 準備中〜!鉄板熱すぎて既に汗だく💦
新人くん遅刻しないといいけど・・・
#海の家準備 #暑い
初対面の瞬間。
声、小さっ!
近づいてきた巧くんを見て、第一印象は、
あー、確かに人見知りしそう、だった。
でも悪い意味じゃなくて、
真面目なんだろうなー。
空気読めるタイプのヒトなんだ。
背は勇太より高い、清潔感はある。
飲食系だから髪切ってきたのかな。
服装も普通。
でも何というか―――すごく緊張してるのが伝わってくる。
「巧、こっちマコちゃん。
ベテランだから色々教えてもらっちゃって」
こいつ眼に塩を擦り込んでやろうか(?)
「よろしくお願いします」
お、今度はちゃんと聞こえた。礼儀正しいじゃん。
「あれー? マコちゃん、背伸びた—、
なんか、グッと大人びたよね?」
勇太のこの発言、マジでウザい。
「でも勇太に言われると変な低位感じるね、
それに朝会って急にそんな成長率あるわけないでしょ」
巧くん、友達は選んだ方がいいんじゃないかな。
「あと、ゴキブリみたいな変な眼で見ないでくれる、
気持ち悪いから」
「グサッとくるような一言、ありがとうございます(?)
お、巧くんがちょっと笑ってる。
あ、意外と表情豊かかも。
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