第13話 水差し
「秋さん、ごめんね」
謝るまちも柔らかい表情をしているから、二人は心を通わせて、何かを共有しているのだろう。私は、うらやましく感じたけれど、間に入っていくことはできないのを、とっくに承知していた。 気難しそうに見える画材屋と仲よく話しているまちに、一度尋ねたことがある。
「いつも、何を語り合ってるの」
「世界に受け入れられなかった場合のこと」
まちは、宙を見上げながら答えてくれた。
「え?」
唐突に、重みのある言葉が返ってきたので、ふいをつかれた私は、つい、間抜けな声を出してしまった。
「僕はときどき、感じるんだ。自分はガラスでできた水差しなんじゃないかって。ううん、僕だけじゃない。この世界に生きるみんなが、水をいっぱいたたえた水差しかもしれないな。それで、身体を満たす水を、世界……世間と分かち合いながら、生きてる」
水というのはもしかしたら、「思想」とか「感情」をさしているのかもしれない。
「そういう生き方が普通であるはずなのに、僕は怯えてる。自分の中身を一滴でもこぼして、見せてしまったら、今いる場所から弾き出されてしまうんじゃないかって。この世界と自分が、どうしたって相容れないんじゃないかって、不安なんだ」
私の中にも微量に存在する、漠然とした恐怖に似ていたが、まちのそれはより具体的なように思われた。 無言の私の前で、彼は視線をゆっくりと下げて、自分の手の甲に注ぎながら続けた。
「彼も、僕ぐらいのころは、同じようなことを考えていたって。意識が一人、海の底に沈んでいるみたいな。みんなと同じ世界に生きているはずなのに、自分だけ、話せない魚になってしまったような気持ちだったらしい。学校でもずっと、孤独だったとか」
同情しているようでも、同じ痛みを共有しているようでもあった。 私にはどうしても、割り込めない世界が、彼らの間にはある。 まちは、ふ、と口元を緩めて、新しい絵の具をパレットに絞り出した。繊細な動きで、二つの色を混ぜ始める。 「だけど、時を経たら、それなりに度胸がついて、開き直れるようになるらしい。青い絵の具みたいに、白に溶けて空色になったり、黄色と混ざって木々の緑に変わったり。擬態がうまくなる。だますのが、上手になるんだ。自分をあざむくのも、人に嘘つくのも。そういうふうに、器用に生きていけるって」
まちの抱えている、霧の中に一人たたずんでいるような寂しさを、私はすぐに理解できなかった。
「なぜそんなことを考えるの?」とも、「どうして孤独を感じるの?」とも、私は尋ねなかった。それ以上、触れてはいけない気がした。
今日も、彼を店に残して帰路を急ぎながら、私は何かに敗北したような気持ちでいる。
家に帰って、本に埋もれて過ごしても、その中に答えを見つけることはできないだろう。三年間同じクラスでいた私にも、まちは打ち明けてくれないのだから。 もしかしたら信用されていないのかもしれないと思うと、少し寂しかった。
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