第8話 居眠り
「まち」
先生に見つからないうちに起こそうと、小さな声で呼んでみても、返事はない。浅い寝息が、微かに聞こえてくるだけだ。
神経質な細い字で、黒板に数式を書き続けている先生は、クラスの生徒のうちの一人が眠りかけていることになんて、気づいていないようだ。私は、はらはらしながらも、まちの眠りを妨げたくなくて、人魚姫になった心地で、彼の寝顔を見守った。
先のほうがくるりと巻いた、細い三日月のような睫毛が伏せられ、静かな呼吸のたびに平らな胸が動いている。まちは、制服をとてもきちんと着こなしていた。他の男子たちのように、着崩したりアレンジしたりすることなく、生徒手帳のとおりに。
さらりとした髪は、撫でると音をたてそうなほどに深く、昼の光を吸収して、きらめいていた。ちょうど、高校生でいられる貴重な時間を、小さな砂粒にして、余すことなく纏っているように、黄金色が際だっていて美しかった。
「ウサギのやつ、また寝てる」
後ろの席の男子も気づいたのか、隣の少年に耳打ちして、声を落として笑っている。
バカにしているわけではなく、微笑ましく感じているのだろう。無防備に眠るまちは、確かに可愛らしかった。男子は一般的に、「可愛い」などと言われても、喜ばずにむっとするものだが、まちは、「可愛い」と言われても怒らなかった。「そうか」などと心外そうに答えるが、言われ慣れているように見えてしかたなかった。くわしく聞いたことがないので分からないが、彼の両親は、まちを「可愛い」という言葉の慈雨に包んで育てたのだろうか。
彼の家に招かれたことがない私は、彼のプライベートを、想像するしかなかった。
一人っ子だとは聞いていたが、健在らしい両親の話はほとんどしない。彼がどんな家に住んでいるのかも知らない。何となく、都心の高級マンションに住んでいそうだ。それか、郊外のおしゃれな一戸建て。お母さんはバイオリンかピアノを嗜んでいて、おそらく猫を飼っている。まちによく似た淡い砂色で、あまり懐かないにきまっている。
……なんて、妄想で埋めてもしかたないか。
まちは結局、その時間は一度も目を覚まさなかった。眠りに落ちると、なかなか起きられない熟睡型なのかもしれない。
寝てばかりいる小動物のような彼だが、それ以外の態度に、ふまじめなところはまるでなかった。遅刻もほとんどしないし、成績も悪くない。特に、古典や現代文はクラスの中でもよくできるほうだった。
彼は、教科書を、つまらずすらすら読める。
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