第3話 名前

「好きだよ」  まちは、あっさり認める。

 まるで、心臓が動いていることを肯定するような、ごく自然な調子で。

 彼の声は涼やかで、イルカがしゃべっているみたいだった。

 もっとその声を引き出そうと、私が口を開きかけたとき、教頭らしき初老の先生が前に出てきた。

「静かに。式を始めます」

 ぼそりと言って、開式の言葉を読み上げる。

 その後の退屈な話とか、校歌の内容についての訓辞とかは、ろくに覚えていない。私はただ、左隣の彼の、長い睫毛と口唇ばかり見ていた。

 彼の名前を初めて知ったのは、割り振られたクラスで、担任の先生が出席をとったときだ。新入生の人数が多いため、式では全員の名前を呼ばなかったので、ここに来るまで、知らないままだった。

「十屋まち」

 やや面倒くさそうに先生が呼んだとき、私の前に座っていた彼が返事をした。 「はい」

「女子みたいな名前だなぁ」

 先生は、出席簿の名前と彼の顔を見比べて、からかうように言った。

 ひらがなで「まち」なんて名前は、確かに、男子の名前にしては珍しくて、昭和初期の少女みたいだ。

 まちが軽く首を傾げただけだったので、先生はそれ以上話しかけず、再び点呼に戻った。

「戸塚秋」

 私の名前は、ごく平凡だ。

 秋に生まれたから、「秋」とつけられたらしい。あと、父親が北原白秋のファンだから。神田古書店街の老舗古書店に生まれた娘として、本好きな子に育ってほしかった、というのもあるそうだ。 「麗」と書いて「リイ」とか、「夢」と書いて「ろまん」とか、変わった名前の生徒が多い現代では、平凡な名前のほうがかえって珍しいかもしれない。

 あだ名もつけにくい二文字の名前の私を、まちはためらうことなく、 「秋さん」  と、下の名で呼んだ。

「秋、でいいよ」

 と言っても、

「秋さん」

 と、丁寧な呼び方を崩さない。

 あだ名といえば、彼自身は、「まち針」とか「ウサギ」といった、可愛いニックネームをつけられていた。「まち針」というのはもちろん、名前から連想されたものだが、「ウサギ」の生まれた経緯はちょっと複雑だ。

 英語の教科書に載っている「不思議の国のアリス」を読んだ男子の一人が、「三月ウサギ」から取って命名したのだ。

「三月って、MARCHっていうんだろ」

 強引に関連づけて、「MARCH」に似た発音の名を持つまちを、「ウサギ」と呼び始めたのだ。小顔でおとなしくて、雰囲気もウサギに似ているから、きっかけがなくてもいずれ、そう呼んでいたかもしれない。

 まちはどのあだ名に対しても、文句は言わず、呼ばれたらちゃんと返事をしていた。内心、子どもっぽいと苦笑していたのだろうが、クラスメイトの遊びやからかいを、大人ぶった態度で一蹴したりはせず、つきあっていた。物静かで口数が少ないので、決してクラスの中心的存在ではなかったが、誰からも大切にされていた。  とにかく、男子も女子も、まちに特別な関心を寄せていた。彼が、どちらにも属しないのにどちらの性をも引きつけるような、両性具有じみた美貌を備えていたからだろうか。  暇さえあれば本を読んでいるまちが、自分の席で読書してると、たいてい誰かが、通りすがりに尋ねる。

「何読んでるの?」

 まちの本はいつも、本に合ったサイズの布製のブックカバーに包まれていた。  ちょうど、微笑をたたえながらもほとんど自分を語らない、彼自身のように。  本の題名を答えても、相手はたいてい知らないようで、「ふうん」としか言わない。本に興味があるわけではなく、まちの声が聞きたいだけなのだろう。

 まちは、まわりを拒絶しているわけではなかったが、自分からあれこれ話したりしなくて、いつも何か、大切な秘密を胸の奥に沈めているような顔をしていた。うかつに口を開けばその秘密が漏れてしまうと恐れているのか、必要以上にしゃべろうとしない。

 幸運にも、同性の親友を作らない彼のいちばん近くにいられたのは、同じ美術部に所属することになった私だった。

「ねぇ、何読んでるの?」

 部活が始まる前の部室で、私も、みんなが知りたがることを訊いてみる。

「月に吠える」

 まちが読んでいるのは、詩集のようだった。

 彼は、リルケとかヴェルレーヌとか、詩集をよく読んでいる。同じ題名を何度も聞くものだから、私も覚えてしまった。

 萩原朔太郎の詩は、教科書でちらっと読んだことしかない。けれど、曇天の下の稲穂をかき分けて懸ける風になって、ざっと吹きつけてくるような寂しさは、まちの雰囲気にとても合っていると思う。

 一年の後期のある日、雪が降りそうな空が広がっているのを見ながら、本人に言ってみたら、まちはおかしそうに笑った。

「彼の世界も、青いから」

 まちはやっぱり、青という色に特別な思い入れを抱いているようだった。

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