32 イベント-2-

それから、ゴールデンウィークに入るまでの数日。


私は、須藤家のお屋敷から学校に通うことになった。

朝はもちろん、佐伯先生の車に乗って。


響哉さんは約束通り、毎日お屋敷に来てくれたけれど、忙しいのか、思うことがあるのか――。

深夜にやってきて明け方には出かける日々だった。


「疲れてない?」


ここは、都内からは随分離れた所だ。

忙しい響哉さんを毎日ここまで来させることに、私は僅かに罪悪感を感じ始めていた。


「……どうして?」


当たり前のようにベッドの中に潜り込んできた響哉さんは、面白いものでも見つけたように目を丸くしてふわりと笑う。


「ハードスケジュールなのに、わざわざここに帰ってきてもら……」


喋りかけた言葉は、啄ばむようなキスに塞がれる。



「どっかのホテルで一人でねるより、マーサを腕に抱いて寝たほうがよっぽど熟睡できる」


だから、このまま眠っていい? と、響哉さんに、はちみつを思わせる甘ったるい声で囁かれた私は、頷いてそのまま眠るほかなかった。


朝目覚めると、響哉さんは居なくて、『お陰でよく眠れたよ、また今夜』だの、『早く、長い夜を一緒に過ごしたいね』だの、書いたメッセージカードが置かれていた。



私は毎朝それを、クリスマスプレゼントを見つけた子供のようにしげしげと幾度も幾度も眺め、触り、カードにキスをしてそれを大切に取っておくのが習慣になってしまった。


カードから漂う、微かな香水の香りは、響哉さんが愛用しているものだった。

そういう、細やかな心遣いがとても好きだな、なんて――。

ついつい、顔がにやけてしまう。


学校からの帰りは、毎日、ヘンリーさんが迎えに来てくれた。


彼は見た目を裏切らない穏やかな人で、私はすっかり慣れてしまった。


ゴールデンウィークの前日、私は響哉さんが飼っているというマジック用の鳩の話を切り出した。


「懐かしいですね」


と、ヘンリーさんは見た目を裏切る流暢な口調でそう言うと、目を細めた。


「でも、最後の一羽が数ヶ月前に亡くなってしまったんですよ」



変わらない穏やかな口調でそういわれたので私は、喉元までせり上がっていた『逢いたいわ』という言葉を飲み込まなければいけなかった。

心の中に切ない思いが広がった私は、その後、お屋敷まで黙って過ごした。


ヘンリーさんに教えてもらい、庭の片隅に作ってある鳩のお墓へと参らせてもらうことにした。


初夏の風は頬に優しく、私の鼻腔に甘い花の香まで届けてくれる。



私はなるべく頭痛が起きないことを願いながら、ゆっくりと過去に想いを馳せた。


結局、響哉さんはマジックで私に鳩を見せてくれたかしら――。


+++++


いつだったか、響哉さんの持つシルクハットから突然飛び出した白い物体。

きっとあれが鳩だった。


驚いた私は――、そう。


パパに抱きついて泣き出したんだ。


『ほら、須藤くん。

 真朝にはまだ早いって言ったじゃない』


『喜んでくれると思ったのに』


響哉さんは頭を掻きながら肩を竦める。


『そんなことないわよ。

 思っているよりずっと、子供なんだから』


ママの声が、柔軟剤の効いたバスタオルみたいにふんわりと柔らかく響いた。


『ごめんね、マーサちゃん』


響哉さんの声が、優しく響く。

でも、私はパパに抱きつくことに夢中になっていた。


『あら、本当は真朝、パパが大好きなのね』


『うんっ。

 まあさ、パパだいしゅき。

 大きくなったらパパとけっこんするのっ』


舌足らずな無邪気な声が広いとは言い難いリビングに響く。



『でも、それはムリだからキョー兄にしとくのっ』


『どうして無理なの?』


響哉さんの問いに私は、得意げにこう答える。


『だって、ママがひとりぼっちになるでしょう?』


『ほら、見たか響哉。

 やっぱり他人のお前なんかより実の親の方を気に入ってくれている』


パパの声が、やたらと嬉しそうに響く。


『当たり前だろう、そんなの』


響哉さんは苦笑を浮かべて肩を竦めた。


『親に敵うなんて、思ってないよ、俺は。

 数多あまた居る他人という立場の男の中で、俺を一番気に入ってくれればいいだけの話』


言うと、響哉さんは肩に戻ってきた鳩をそっと私に見せる。


『ほら、マーサちゃん。

 触ってごらん?

 もう、怖くないよ』



そういわれた途端。

まるでそれが最初から決められていた合図だったかのように、私はパパから手を放す。


そうして。

伸ばされたキョー兄ちゃんの手をしっかり掴んでいた。


+++++


変な記憶。

だいたい――。

パパと結婚したいなんて、どういうことかしら。



「マーサ」


耳に心地良いテノールの声が、私の思考を遮った。

顔をあげると、スーツ姿の響哉さん。


「あれ?

 もう、明日が本番なんでしょう?」


首を傾げる私に、


「そうだよ。

 でも、マーサの笑顔を見ないと、気持ちが乗らない」


響哉さんはそう言って、私の頭に手を伸ばした。


彼の綺麗な手が、私の頭に乗る直前。

それをやんわりと掴んでみせる。


「おや。

 積極的だね」


響哉さんは形の良い瞳を細めて笑う。



ううん。

本当に、彼にそっくりな笑顔。


――けれども。


「先生。

 今日はどうしてそんな格好しているんですか?」


キスでもするんじゃないかと思うくらい近づいた唇から遠ざかりながら、あくまでも軽く問う。


「――マーサ、何言ってるの?」


魅惑的な笑顔、艶やかな声。

愛しさを詰め込んだような瞳に、弧を描く紅い唇。


どこをどう見ても、須藤 響哉。



――でも、違うの。

  私には、分かる――


はぁ、と、彼はアメリカ人を思わせるオーバーアクションで肩を竦めて見せた。


「今日は完璧に演じたつもりなんだけど」


「私もそう思います」


「――そろそろ、影も返上かなぁ」


ポケットから煙草を取り出して銜えながら、彼は――つまり、響哉さんそっくりの格好をした佐伯先生は――、やれやれとぼやく。


「返上なんて出来るんですか?」


「今はまだ、当主じゃないから、なんとか許してもらえるんだろ」


「――それって、つまり、例えば会長や響哉さんのお父様には影がいるってことですか?」


「――さぁ。

 影の存在自体が秘密だからな。

 じゃないと、影の意味が無いだろう?

 俺も自分以外のことは知らない」


全く興味はなさそうだった。

高級スーツの価値を省みることもなく、花壇のレンガに軽く座って、煙草に火をつける。


あれ、と、違和感を覚えて口を開く。


「じゃあ、どうして私には存在を教えたんですか?」


影武者の存在を知らなければ、今隣に居る人は「須藤響哉」である、と疑わなかったに違いないのに。


決まってんだろ、と、先生は言う。


「響哉のワガママに」


そうして、長い脚を持て余すように組んで、くすりと笑った。


「心配なんだよ、きっと。

 真朝ちゃんが俺と響哉を間違えるんじゃないかって」


「響哉さんって、ものすごい自信に満ち溢れているようにしか見えないのに、時折ひどく臆病になりますよね」


「限度があるんだよ。

 ある程度までは、ものすごく自信があるのに、それを超すと途端に及び腰になる。

 須藤家を継がずに、アメリカに行くとか。

 婚約者という立場は変えないままに、君を置いてアメリカに戻るとか――。

 枚挙に暇は無い。

 ま、つまりはいつものパターンってヤツ」


懐かしさを覚えたのか、響哉さんがよくそうするように、先生も瞳を細める。


「なんか変」


ぼそりと呟いた私の独り言を、先生は聞き逃さなかった。


「何が?」


「だって、響哉さんが自己批判しているようにしか見えないんだもの。

 どうしてそんな格好を?」


「……ヘンリーが、真朝ちゃんが鳩の墓参りに行ったまま一時間も帰ってこないって心配してたから。

 忙しい誰かさんに代わって慰めてあげようと思っただけ」


その、ことさらに軽い口調からは、真剣度は伝わってこない。


「でも、ま、失敗したみたいだから、代わりにとっておきの思い出話でもしてあげようか?」


短くなった煙草を、ケータイ灰皿に押し付けながら、先生が笑う。


「響哉さんと鳩の?」


「いや。

 俺と朝香ちゃんの」


「教えてください。

 是非」


本気でそう言えたのは、私の中で過去に対するわだかまりが薄まってきたからだろう。


「『移ろう季節の中で―Missing you―』はね、最初、ああいう映画にする予定じゃなかったんだ」


それは、この前見た、ママ主演の映画のタイトルだった。


「もっと、こう――。

 ハリウッド系ラブコメに仕立ててみたくて。

 でも、あるとき朝香ちゃんがやたら真剣な顔で俺のところにやってきた」


以下、先生の話をまとめてみると、こういうことみたい。


+++++


『佐伯さん、ちょっといいですか?』


黙って微笑んでいれば美人なのに、大抵は天然系発言でそれを台無しにしてしまう二階堂 朝香が、珍しく真剣な顔で声を掛けてきたのは、夏の終わりのことだった。


『何?』


部室の片隅でシャーペン片手に煙草を銜えていた佐伯 頼太は、手を置いて顔をあげた。


『私、次の作品の主演、ちょっと難しい気がするの。

 だから、誰かと代えてもらえません?』


一つ年上の佐伯に対し、朝香はまだ、どういう口調で接していこうか迷っているようだった。


『――どうして?』


佐伯は首を傾げる。

当時は長めにしていた髪。その日は束ねてなかったせいで、さらりと揺れた。


朝香は躊躇いもせず、口を開いた。


『撮影中に体型が変わったら困るでしょう?』


佐伯は思わず彼女の艶やかな黒髪に目をやった。


『髪が切りたいってこと?』


『いやぁね、子供じゃあるまいし。

 ヘアスタイルくらい、我慢するわよ』


朝香は楽しそうに笑った後、同じテンションで続けた。


『子供が出来たの、私』


佐伯は思わず、指に挟んでいた煙草をぽろりと落としてしまう。


ノートから煙が上がり、こげた匂いが鼻につく。


『佐伯さん。

 折角書いた脚本が、燃えちゃうわよ』


朝香に指摘されて、ようやく煙草を拾う始末だ。


佐伯がそこまで動揺したのは別に、彼女のことを清純派だと信じていたからではない。


ただ――


+++++


「響哉との子供かと思ったら、動揺したね」


先生はそう言って、苦笑を浮かべた。


「どうしてですか?」


「いや、自分でもそこまで驚くなんて思わなかったけど。

 ほら、アイツに子供が出来たら俺のモラトリアムも終わっちゃうわけじゃない?

 なんてったって、影なんだし」


「モラトリアム?」


首を傾げる私に先生は続ける。


「社会的義務や責任を課せられない猶予期間のこと。

 つまり、大学生の間は、須藤家に縛られず自由で居られると心のどこかで思い込んでいたみたい。

 それが、途中で奪われるなんて――嫌だったんだろ、きっと」


俺も当時は響哉並みにガキだったってことさ、と、苦笑混じりに呟いてから、先生はまた話を続けた。


+++++


けれども、話を続けないわけにもいかない。


『親は?』


動揺を押し隠すあまり、いつもよりずっと低い声になったことは否めなかった。


あら、と、朝香は無邪気に笑う。


『私に決まってるじゃない』


受け狙いなのか。

本気なのか。


佐伯は、新しい煙草に火をつけようかどうか、逡巡したがやめることにした。

さすがに、妊婦の目の前で煙草を吸い続けるほど、デリカシーと一般常識に欠けているわけではない。


仕方が無いので、深呼吸だけでなんとか動揺を鎮め、改めて問い直す。


『父親は?』


『まだ、伝えてないのよね。

 さっき分かって、取り急ぎ映画の件が気になって、まずここに来たんだもの。

 パパ、喜んでくれるかしら?』


――わざと?

  俺に伝えたくなくて、わざと話を逸らしてる?



佐伯は、朝香の屈託の無い笑顔を見ながら、ため息をかみ殺す。

気づけば、無意識のうちに、伸びた髪をぐしゃぐしゃと右手でかき回していた。


仕方なく、まだ、膨らみの全くないお腹をTシャツ越しにちらりと見てから、話を続ける。


『その子の父親にもまだ伝えてないわけ?』


『確定したことはまだ伝えてないけど、予感がすることは伝えてるわ』


『――俺の知ってるヤツ?』


朝香は大きく頷いた。

そうして、佐伯の心の準備も出来ないうちにあっさり答える。


『ええ。

 花宮 真一くん』



――花宮 真一?

  佐伯は思いがけない言葉に、一瞬頭が真っ白になった。


二人が付き合っているなんて、誰も知らなかったんじゃないだろうか、今の今まで。

呆気に取られている間に、


『じゃ、ちゃんと報告したのでよろしくお願いします』


と、朝香は出て行こうとする。


『朝香ちゃん』


佐伯は彼女を呼び止めた。


ようやく、落ち着きを取り戻せたのは、まだまだ自分に自由時間があると実感できたせいかもしれない。


『折角だから、それを生かした脚本に作り変える。

 撮影も、時系列にしよう。

 それならOK?』


朝香は一瞬瞳を丸くして、それからふわりと美しい花を思わせるような笑いを零した。


『そこまでしてもらうなんて、なんだか悪いわ』


『俺が勝手に始めることだ。君が気にすることは無い。

 ありがちなハリウッド映画っぽいのに日本で挑戦するのも面白いと思ったけど、それはまたにすればいい』


なにせ、俺にはまだまだ時間があるんだから――と、佐伯は心の中で呟いた。



頭の中ではもう、新しい構想が浮かびつつあった。


『もちろん、主演女優の体調は十二分に考慮させて頂きます』


丁寧に告げる佐伯に、朝香も頭を下げた。


『助かります、監督』


そうして、彼女は今度こそ部屋から出て行った。


+++++


「さぁ、懐かしい話はこれでおしまい」


先生は言うと、花壇から立ち上がる。


「そろそろ夕食の時間だ。

 ――エスコートしますよ、お姫様」


差し出された腕に一瞬躊躇ったけれど、まぁいいかと思い腕を絡める。


「明日、響哉のイベントに行く?」


「まさか。

 危険だから顔を出すなって言われたわ」


思わず敬語を崩してしまうのは、その姿が響哉さんそっくりだから。


でも、私が行くのは危険ってことは――。響哉さんも危険ってことじゃないかしら、と。


心に潜む不安までは、口に出せない。


「ただの握手会が危険だって?

 随分と、過保護なものだな」


先生は冗談めかして笑い飛ばす。


「大丈夫。

 響哉は大げさなだけだよ」


――全く同じ容姿でそう言われても――


なんか変な感じ、と私も釣られて相好を崩した。


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