31 At home-1-

洋館を思わせる建物に足を踏み入れる。

もちろん、玄関で靴を脱ぐ――なんてことはない。


灯りの下で見る響さんは、年齢を感じさせない若々しさがあり、その艶やかな黒髪や細い目元は、響哉さんによく似ていた。


けれども、その唇は冷笑を携えている――。

見るものを凍らせそうなほど、冷たい微笑が彼女全体の雰囲気をきついものに染め上げていた。


「あら、欲に基づいた行動しか出来ないのはケダモノのすることよ」


私をけなしているのか、宥めてくれているのか――。


彼女の突き放すような口調からは、それすらも判断が出来ない。


「ヘンリー。

 二人に夕食を。

 真朝さん、ミネストローネくらい、飲めるでしょう?

 それから、頼太くんは普通に食べられるわよね?」


有無を言わせぬ口調に、仕方なく頷いて、勧められた席へと腰を下ろす。


その食卓は、余裕で二十名ほが食事を取れるような広さがあった。


「いただきます」


なんと、驚くことにこの屋敷には執事だけでなくメイドまで居て、彼女が丁寧に食事の準備をしてくれた。


驚きもせずに、それに箸をつける佐伯先生を真似て、私も仕方なくミネストローネにスプーンをつける。


それは、普通の家庭でここまで手間隙掛けたスープなんてそうそう出来ないに違いない。――と、素人の私に思わせるような美味しいスープだった。


毎日、こんなに美味しい食事をとっていたからこそ、響哉さんが作る料理も美味しいのかしら――。


そんなことが頭を過ぎる。

やはり、私の頭の中には響哉さんのことしか浮かんでこない。


――どうしても。


「少しは落ち着いたかしら?」


私がスープを飲み始めてしばらくしたら、好奇心を隠さない瞳で、向かいの席に座っていた響さんが切り出してきた。


それにしても、響さんって、響哉さんの母親とは思えないほど若々しい人だわ。


「はい――お陰さまで」


「そう。

 それは良かった。

 婚約発表は、いつにする?」


雑談と同じテンションでそう切り出されて、私は唖然とした。


スプーンを手から落とさなかったのが、奇跡だとしか言い用がないくらいに。


「それはいくらなんでも、気が早いのでは……」


慌てて口を挟んでくれた先生を、響さんは一瞥するだけで黙らせた。


なんていうか、すごい眼力――。

そうして、再び私に瞳を向けると、艶やかな笑みを見せる。


「早いわけないじゃない。遅すぎるわよ。

 もう、響哉とは17年の付き合いになるんですものねぇ」


――私が生まれる前から、響哉さんが私のことを知っているという意味ではそうなるかもしれませんが――


まだ、17歳にもなっていない私は、どう応えて良いのか見当がつかなくて黙り込む。


「それに、響哉だってそのために日本に帰ってきたんでしょう?

 本当に、私には全然連絡してこない子なのに――。

 妬けちゃうわ」


すらすらと、舞台の台詞のように彼女の口から流れる言葉の信憑性も分からなくて、私は思わず佐伯先生に視線を投げていた。


先生は軽く目を細めてから、私の代わりに口を開いてくれる。


「響様、お言葉ですが響哉さんの帰国の目的は、それだけではありませんよ」


「あら、じゃあ何なの?」


「それは――」


「愛しい彼女を一目見るために決まってるじゃないですか。婚約する、しないで騒いでいるのはあなたたちだけ。彼女を巻き込むのは止めて下さい」


佐伯先生の言葉を遮るように、耳に馴染んだ低い声が流れてきた。

私は思わず、声がしたほうに目をやって立ち上がる。

すとんとスプーンが床へと落ちていった。


入り口に立っている響哉さんは、今日もヘアスタイルも衣装も何故だかばっちり決めていて、見るだけで心臓が高鳴ってくる。


「頼太、色々悪かったな」


響哉さんはぽんと佐伯先生の肩を叩いてそう言うと、立ち上がって身動きが取れなくなっている私をいとも簡単にひょいと抱き上げた。


「本日は大変お世話になったこと、改めてお礼申し上げます。

 もちろん、祖父への言葉は真実ですが、今、すぐに弱っている彼女に答えさせなければいけないような話はないでしょう。

 傷の手当をさせて休ませますので、今夜はこれで失礼します」


響哉さんは氷点下を思わせるような声で、一息にそう言うと、響さんの言葉も聞かずに部屋を出た。


「響哉さん――?」


「遅くなって悪かった。

 一度シャワーを浴びてから、頼太に包帯を巻きなおしてもらおうね」


響哉さんはいつものように優しい声でそう言うと、躊躇いもせずに階段をあがっていく。


「響哉さん――。

 無事だったのね。本当に誰にも狙われていない?」


ベッドに座らせてくれた響哉さんにそう聞くと、彼は不思議そうに首を捻った。


「どういう意味――かな?」


「だって、昨日二人で尾行されて、今日私が襲われたってことは――。

 響哉さんだって襲われたかもしれないと思って、私――、心配してたの」


思わず眉間に皺が寄る。


響哉さんは、どうしようもないくらい切ない表情を浮かべた直後、私を胸の中に抱き寄せた。


「――俺の心配をしててくれたの?

 マーサはこんな目にあったっていうのに――」


その言葉で私はようやく思い出した。


「ねぇ、響哉さんっ」


私の焦りを隠せない声に、彼は思わず手を緩めた。

でも、私は不安で顔をあげることができない。


「――何、マーサ?

 俺は誰からも襲われてない。心配するには及ばないよ」


「違うの。

 そうじゃなくて――」


私は思わず自分の左手を右手で掴んだ。


折角貰った指輪――。

なくしちゃった、なんて、簡単に言えなくて口篭ってしまう。


「私――」


響哉さんは大きな手のひらでふわりと私の頭を撫でた。


「怖かったんだろう?マーサ。

 俺が助けなかったばっかりに、泣くことも出来なくて悪かったね。

 ほら、いくらでも泣いていいよ。ここには他に誰も居ないから」


「――そうじゃないの。

 私――。

 ゴメンナサイ、響哉さん――」


迷った挙句、ようやく口にした声はとても小さく、雨に濡れた子犬のように震えていた。


「マーサが謝ることは何も無い。悪いのはあいつだし、傍に居てやれなかった俺にも責任はある。

 ――どうしたの?」


響哉さんは不安に染まった声でそう言うと、私の顎に指をかけて、半ば強引に上を向かせた。

魅惑的な顔は、いまやすっかり不安に歪んでいる。


「何があったか言ってごらん。謝ってるだけじゃ、分からない」


響哉さんは、甘い声でそう囁く。


でも、私はとても辛くて――。言葉が出ない。


「私――。

 指輪が、なくて――

 折角、響哉さんから貰ったのに――」


響哉さんは、ああ、と、困ったように息を吐いた。


「それは、これのことでしょう? マーサ」


と、まるで手品の一部のようにポケットから指輪を取り出した。


「マーサが失くしたわけじゃないでしょう?

 仮に失くしたとしても、俺は怒らないから――。

 そんなことで謝らないで。でなきゃ、二度とプレゼントできなくなってしまう。

 モノはなくなるし、壊れるものなんだよ」


分かった? と、響哉さんに聞かれて、私は渋々頷いた。


「でも、折角もらったから――。大事にしたかったのに」


そう呟く私の額に、キスが降って来る。


「何度だってあげる。

 だから、そんなことで悲しまないで。

 ――それより、他に俺に言いたいことがあるんじゃないのかな?」


――言いたいこと?


私は首を捻って考える。


「響哉さん、久々にお母さんに逢ったのにお話しなくていいの?

 どうして、佐伯先生は響哉さんの姿になって私を助けてくれたの?

 それから――、私を狙ってきたヤツは結局なんて言ってたの? 私全然分からなくて――」


止まらない疑問は、響哉さんの唇で遮られた。

溶けそうなほどの、熱い、キスで。


「響哉さん――?」


響哉さんが唇を離した直後、風が吹いた。

正確に言えば、ベッドに押し倒された。


私は、どうして良いか分からなくて、彼の名前を呼んでその真意を確認する。


「そうじゃないでしょう?

 その質問の答えは、明日。

 ねぇ、マーサ。マーサを攫った男はどんなヤツだった?目が覚めたとき、どう思った?

 泣きたいほど怖かったんじゃないの? 本当は、俺の助けを待っててくれたのに、俺が助けられなかったから――。

 ほら、怒っても泣いてもいいから」


そこで、響哉さんは一度言葉を切った。

困っている私の頬を、彼の大きな手のひらが包み込む。


「お願いだから、辛い気持ちを自分の内に封印するのはもうやめて。

 ――それとも、俺の前で泣くのは嫌?」


そう切り出した響哉さんの瞳の方が、今にも泣き出しそうで。

私は言葉に詰まってしまう。


「響哉さんの前で泣くのがいやなんじゃなくて――。

 辛い気持ちを引きずるのが嫌なの」


それは、薄々気づいていた。

だから、パパとママのことだって、何度思い出す機会があっても気づかないフリで、今まで逃げてきたんだもの。


それなのに、響哉さんが強引に記憶の蓋をこじ開けていくようなことばかり言うから――。


「引きずらなくていい。

 でもね、封印されたマーサの記憶は、心の中でずっとくすぶっているんだよ。

 そうやってストレスを内に溜め込むよりずっと、ここで吐き出したほうが健全だと思って――。

 ――って、それは、俺のワガママなんだけど――」


響哉さんは言葉を切って、苦笑を浮かべる。


「そんなに俺って、頼りないかな?」


囁かれたのは、胸がきりきり痛むほど切ない声で――。

私は思わずかぶりを振った。

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