30 Scramble-9-

【花宮 真朝side】


+++++


あの暑い夏の日。

昼寝から目覚めたとき、キョー兄ちゃんはまだ隣で眠っていた。


私は手を伸ばしてそっとキョー兄ちゃんの頬に触れようとした、途端。


彼は慌てたように私の手を掴む。


『キョー兄ちゃん、起こしちゃった――?』


『ああ……。

 マーサちゃんだったね。

 寝付けない?』


彼は、手を伸ばしたのが私だと確認すると、いつもと同じ甘い笑顔でそう聞いてくる。


『ううん。

 一度寝てから、起きたんだもん』


必死で言う私がおかしいのか、キョー兄ちゃんが、私の背中に手を回してくすりと笑った。


『でも、ママと寝るとき、マーサ向こうに居るの。

 ねぇ、そっちにいっちゃダメ?』


私はキョー兄ちゃんの左側を指差した。


『マーサちゃんにはこっちに居て欲しいんだけどな』


『どうして?』


首を傾げる私に、キョー兄ちゃんは一瞬言い淀んだ後、声を潜めて耳打ちしてくれた。


『本当は、左手が利き手なんだ。

 だから、いざという時のために空けているんだよ』


――もちろん、幼い私にその意味が分かるわけもない。


『いざ?』


首を傾げる私の頬を、キョー兄ちゃんはそっと撫でた。


『そう。

 大事なマーサちゃんを守るために、いつも右側に居てもらってるの』


『マーサのこと、好きってこと?』


言っている意味が分からないので、私は都合よく話をまとめる。


『そうだよ』


幼い私はキョー兄ちゃんに躊躇いも無くキスをして、再び眠りに落ちた。


+++++


今、普段の響哉さんを見ていても、左利きだなんてことはまるで分からない。


でも――。


だから、今でも私を右側に置くために、外車に乗っているのかしら。

さすがに、それは考えすぎ?。


その理論で行くと、佐伯先生は右利き――なんて、関係ないか。



「目が醒めた?」


ぼんやりしていたら、右側から、声がした。


「はい」


「丁度良かった。

 もうすぐ、須藤邸に到着だ。

 体調は?」


心配そうな声が響く。

私はかぶりを振った。


「大丈夫です」


「そう」


先生はひどく困った顔で私を見て、直後に、何かを諦めたように微笑を浮かべた。


「だったら、少しだけでも何か食べたほうがいい。

 もし、響哉の母親であるひびき様が起きていたらちょっと大変だろうけど……。

 なんとか乗り切って」


小さな声で、そう囁かれる。



――大変って、何が?


その質問をする前に、車は玄関の前へと横付けされた。


外からドアが開けられてびっくりする。

顔をあげたら、何食わぬ顔でそこにヘンリーさんが居た。


そうして、感じの良い笑顔を浮かべる。


「お待ちしておりました。

 真朝様」


「見ての通り、彼女は疲れている。

 出来たら、響様とのお目通しは明日にしてもらえない?」


運転席から降りた佐伯先生がそう切り出した。


「あら嫌だわ、頼太くん。

 十数年ぶりに娘に逢うのに、どうして私が遠慮しなければいけないの?」


黒のロングドレスにも似たワンピースを着た女性が、優雅に玄関から出てきた。


シルエットで見る限り、細身で、長身で、長い髪にはウェーブがきいていた。


艶っぽく貫禄を帯びたやや低い声が印象的。


「それは――。

 彼女は大変な目にあったばかりだからですよ、響様。

 察しては頂けませんか?」


「まぁ、頼太くん。

 須藤家の人間が一番してはいけないことよ、それは。

 他人のことを考えていては、身動きが取れなくなってしまうもの。

 真朝さん、久しぶりね。

 こんなところに突っ立っていたら風邪を引いてしまうわよ。

 ほら、早くおあがりなさい。夕食は?」


「まだ、ですけど――。

 食欲が無いんです」


私は俯きがちでそう言いながらも、その女性について家にあがるほかなかった。

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